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8. 書いた覚えのない証文

 話は、椅子に座らせて、白湯を飲ませてから聞いた。泣いている子から話を聞くときはこうするのがいい。マルタさんが黙って蜂蜜をひと匙、白湯に足した。灯火亭の手順は、うちより一段甘い。


 ネリちゃんの花は、お母さんの作る丁寧な小さな束で、安く地味だけど夕方には売り切れる。「安いからじゃないよ、心がこもっているからさ」と、おばあちゃんが言っていた。あの親子は、この下町で、そういうふうに扱われている。


 そのお母さんは、花を売って娘を育てている人だ。体が丈夫でないのは常連さんの間でも知られている。雨の日も傘の下で時間をかけて花を束ね、熱のある日もネリちゃんに店番をさせて奥で臥せる。そういう暮らしの人のところへ三日前、金貸しのドッセルという男が現れた。取り立ての口上は、脅し文句の見本市だったらしい。払えなければ家財、家財で足りなければ労役、労役が嫌なら娘を奉公に——。


 曰く——亡くなったご主人の友人が、生前に金貨十枚を借りていたのだという。曰く、その借金の証文に、お母さんが「連帯保証人」として署名している。曰く、三日以内に払えなければ、家財を差し押さえ、お母さんには労役に出てもらう。


「お母さん、そんなの知らないって言うの。でも、紙があるって……判子も、押してあるって」


 翌朝、私はネリちゃんのお母さんを訪ねる。市場裏の長屋の一間は、狭いけれど、窓辺に花が飾ってある。青い顔で、それでも花の水を替えていた人は、私に深々と頭を下げてから、ぽつりと言った。


「あたし……字が、書けないんです。自分の名前も。いつも『拇印(ぼいん)』を押すだけで」


 水差しを持つ手は、あかぎれだらけだった。この手は、花を束ねる手だ。証文に流麗な署名を書く手ではない。


 これは、大きい。


 その足で、ドッセルの店へ向かう。質流れの家具が埃をかぶる薄暗い店で、金壺眼の店主は私を上から下まで眺め、「ああ、噂の返品屋さんかい」と鼻で笑った。


「見たけりゃ見な。写しも取りな。うちの証文は、公証つきの本物だ」


「では、お言葉に甘えて。——期限を延ばすお気持ちは?」


「ないね。花売りの母子に貸しの取り立て、結構な稼業だろ? 返品屋ごときが、公証付きの証文をどうにかできるもんかい」


 にやにやと、三枚も写させてくれた。証拠は完璧だと思っているのだろう。魔法の転写(コピー)は三部。一部は手元に、一部は保管用、一部は——念のため、である。書類仕事の基本は、この世界でも変わらない。


 帰り道、手帳に論点を書き出した。『一、署名の真正。二、公証の真正。三、蝋印の出所』。理不尽は、感情で殴ると逃げる。論点で囲むと、逃げ場がなくなる。


 期限まで、あと三日。けれど三日あれば、書類はひっくり返せる。囲むための道具なら、この下町に全部揃っているのだ。


 証文を検分する。借主の署名、これは本物だろう。問題は連帯保証の欄——『ミラ・フェン』と、流れるような達筆で署名がある。


 字の書けない人の、流れるような達筆。


「……ふうん」


 荷札は、まだ浮かばない。当然である。この証文には署名がある。つまり書面の上では「受領済みの契約」で、私の【返品】は、受領済みのものには効かないのだ。規定は、こういう時だけ薄情である。


「お姉ちゃん……だめ、なの?」


「今のままでは、返品できません」


 ネリちゃんの肩が落ちる。ごまかしの利く歳ではないし、ごまかしていい涙でもない。私はその前にしゃがんで、目の高さを合わせた。


「なので——契約かどうかを、先に調べます。偽物の契約は、契約ではないので。それなら、返せます」


「……ほんと?」


「返品屋は、嘘をつきません。看板に関わるので」


 その晩、閉店後の店で、写しを行灯の下に並べた。紙質、上等。インク、上物。字が書けない人の署名が達筆で、貧乏な借金の証文が贅沢な作りをしている。偽造というのは、手をかけるほど嘘が滲むものである。


 そして、気づいた。連帯保証の欄の隅、公認の蝋印。町の金貸しの証文には過ぎた代物で、しかもこの脂っぽい乳白色の蝋——見覚えがある。


 うちの扉に貼られた、あの呪いの札と同じ。神殿の、官給品である。


 ……神殿がまた、うちのお客さんの人生に、脂っぽい判子を押している。行灯の火を消して、私は決めた。今回は、とびきり綺麗に返してやろうじゃないか。


 昇ってきた月にぐっとこぶしを向けた。


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