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23. 誰にも触らせない帳簿

 査問の夜の下町は、まだ祭りの残り香がしていた。


 どこかの路地で気の早い祝杯が上がり、灯火亭の煙突も景気よく煙を吐いている。祝勝会そのものは明晩、マルタさんが樽を仕込んでから、と決まった。今夜のうちの店は、その賑わいから戸一枚で隔てられて、静かである。行灯は、ひとつだけにしておいた。火屋の中で、小さな炎が呼吸のように揺れる。内緒話の灯りは、これで十分である。


 卓にはフードを目深にかぶったセラフィナ様と、湯気の立つ白湯がふたつ。査問会の後、彼女は神殿に囲われる前に、乳母の家へ「静養」に出たのだそうだ。下町の路地は、追手よりも彼女のほうがよほど詳しい。乳母仕込みである。


「これ。……書庫の、貸出台帳の写し」


 差し出されたのは、皺の寄った紙が二枚。一枚目は蔵書目録の書き抜きで、几帳面な字の並びの中に、一行だけ、毛色の違う注記があった。


『浄化受領記録 全七冊 持出厳禁 大神官預カリ』


 二枚目は――その帳簿そのものの、切れ端の写しだという。写し取る手が震えていたことが、線の乱れで分かる。


『聖女エリーゼ 受領量 九百二十一 最終記載 五年前』


『聖女アデーレ 受領量 千四百七十 最終記載 四十年前』


 受領量。


 その三文字を、私はしばらく見つめていた。単位が、どこにも書かれていない。金貨でも俵でもない何かを、九百二十一。誰かが数え、誰かが記帳し、誰かが決裁した。浄化とは、祈りではない。宛先のない理不尽を、聖女がその身ひとつで「受領」しつづける作業――薄々見えていた輪郭が、数字になって目の前に並んでいる。数字は正直で、だから時々、ひどく残酷である。


 断れない人から、順に載っていく帳簿なのだと思う。九年間、頼まれた伝票を断れずに積み上げてきた私は、どう考えても、載る側の人間だった。あの晩、あの広間で、たまたま断れたから、いま、ここで白湯を飲んでいる。――他人事の数字が、ひとつも他人事に見えない。


 試用期間は死ぬまで、と言い放ったあの声が、耳の奥で蘇る。これは、給与台帳の裏返しだ。支払われなかった俸給の代わりに、受け取らされた理不尽の量だけが、代々きっちりと記帳されている。よくもまあ、記録だけは几帳面に。行灯の火が、紙の上の数字を頼りなく揺らしていた。


「あたし、次はこれを、やらされるんだよね」


 セラフィナ様が白湯を両手で包んだまま、ぽつりと言った。フードの下で、敬語がすっかり剥がれている。指先が、白い。儀式のたびに三日寝込むこの子は、九百二十一という数字の重さを、たぶん誰より正しく想像できてしまうのだ。


 私は焼き菓子の皿を、そっと彼女の前へ押した。一枚を小さくかじって、彼女はようやく、息の仕方を思い出したような顔をする。バターの風味は、偉大である。


「させません。そのための証拠集めです。錯誤の証明にも、制度の告発にも、この写しは大きい」


「切り札に、なる?」


「なります。ただし切り札は、抜き方を間違えると自分の指を切ります。原本の在り処と、正しい出し方が揃うまで――これは灯火亭の金庫で眠らせます」


 写しを封筒に収めた、その時である。


 からん、と扉の鈴が鳴った。


 閉めたはずの表戸が開いて、夜と一緒に、黒衣が敷居をまたいでいる。とたんに、音が薄くなった。行灯の火が、すう、と細くなる。卓の白湯の湯気が、彼のいる方へ細く傾いで、夜気と一緒に、遠い荒野の匂いがする。セラフィナ様が息を呑んで腰を浮かせ――私は座ったまま、言った。


「営業時間外です」


「知っている。客でもない。……今夜は、確かめに来た」


 黒衣の男の人は、卓の上の封筒を、まっすぐに見る。中身が透けて見えているような、深い目だった。


「――その帳簿。俺も、長く探している」


「この帳簿と、お知り合いですか?」


「四十年前、そこに名を書かれた人がいる」


 行灯の芯が、ジジ、と鳴る。四十年ぶりの買い物。先々代の王の銀貨。焼き菓子が好きだった、誰か。手帳の保留欄に書き溜めてきた断片が、ひとつの線に並ぼうとして、まだ並びきらない。


「俺は、墓参りの前に精算を済ませたい。それだけだ」


 それ以上は語らず、男の人はセラフィナ様へ目を移す。フード越しに、その下の紋章まで見抜くような一瞥だった。


「……逃げられるうちに、逃げろ。あんたの前の連中は、誰ひとり逃げなかった」


「逃げるって……どこへ? 一生追っ手から隠れ続けるなんてできないのよ?」


 セラフィナ様は涙声で言い返す。


「ご依頼でしたら、受付の書式でお願いします。うちは、脅しの相談は受けませんので」


 私はセラフィナ様の手を握り、男をにらんだ。


「まだ、依頼にはならん。――差出人が、揃っていない」


 黒衣は夜へ溶けて、鈴の音だけが残った。行灯の火が、ゆっくりと元の背丈に戻っていく。


 しばらくして、セラフィナ様が、ようやく大きく息を吐いた。


「……今の、誰?」


「常連です、たぶん」


「お店って、大変なんだね……」


 しみじみと言われてしまった。返す言葉が、見つからない。


 差出人が、揃っていない。私は手帳の保留欄に、その言い回しをそのまま書き付ける。あの人は、返品屋の規定を、下手をすると私より正しく知っている――。


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