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16. 神様も発注者ですので

 閉店後の店に、香の匂いがゆっくりと満ちていく。


 灯火亭に繋がっている方から漂ってくる竈の残り火の、油と香草の匂い。この店のいつもの空気が、荘厳な香に塗り替えられていく――――それが一番、腹が立った。


 ゲオルクは勧めてもいない椅子に、当然のように腰を下ろす。額の円盤が、行灯の火を映してぬらりと光る。神殿ではあれを「神の御印」と呼ばせているらしい。剥がせないものは権威にしてしまう。その胆力だけは、大したものだと思う。


「儂はな、聖女殿。そなたを罰しに来たのではない。(ゆる)しに来たのだ」


「面談として記録します。日時、ご用件、発言のあらまし」


 手帳を開く。老人は気を悪くするでもなく続けた。声は柔らかく、湯冷ましのように温い。


「明日にも、あの立て札は王都中に立てられよう。灯火亭にも、パン屋にも、花売りの母子の台にもな。……だが、そなたが聖務にお戻りになるなら、全ては水に流れる。儂は、そういう赦しの話をしに来たのだ」


 人質の話を、この人は赦しと呼ぶ。香の匂いが、急に重たくなった気がした。


「雇用のお誘いとして承ります。労働条件を書面でお願いします。給与、休日、宿舎、業務の範囲」


「まだ申すか」


「規定ですので」


 ゲオルクは、深い深いため息をつく。嘆かわしい、と首を振る仕草まで、絵に描いたように荘重である。


「神の御用に、発注依頼書を切るか」


「切ります。神様も発注者ですので」


 沈黙が落ちた。


 行灯の芯が、ジジッと鳴る。老人の目から、笑みの形だけを残して、温度が消えていた。初めて見る目である。慈愛の皮の下にあったのは、乾いた帳簿のような目だった。


「……面白いことを申す。だがな、聖女殿。宛先に返せる理不尽など、この世の理不尽の、ほんの上澄みに過ぎぬ。いずれそなたは、宛先のない荷物に押し潰されようぞ」


「その時は、その時の書式で対応します」


 私はゲオルグの目を見つめ、毅然と言い返す――――。


「ふっ、いいだろう。(ひね)り潰してやる……」


 老人は立ち上がり、香の匂いだけを残して夜へ消えた。


 宛先のない、荷物。手帳の「保留」の欄が、頭の隅でかさりと音を立てる。


 下町の皆さんに降りかからんとする理不尽を思えば胸が痛むが――事務員の矜持として、折れるわけにはいかない。


 頼みの綱はレナート様だが――この世界で正論はどこまで届くだろうか?


 気づけば、指先が冷えていた。マルタさんが黙って、白湯を注いでくれる。白湯に上手いも下手もあると、最近は思う。今日のは、身に沁みてうまかった。


       ◇


 三日後――正論が通り、監査院の裁定が下りた。


 王都営業許可令は、対価性のある寄附――要するに賄賂――によって制定された無効の布告と認められ、廃止。布告官モルガンは罷免の上、査問行き。根拠を失った閉店命令は、ただの紙になった。


 ただの紙なら、返せる。常連さんたちが集まってくる中、私は柱の立て札に指を置いた。押し付けの決裁者は、ご本人の署名で確認済みである。


「これは、受け取りません」


 ぽん。【差戻】。立て札は光の粒になって、神殿の方角へ飛んでいった。常連さんたちの拍手が下町に響き渡った。


       ◇


 同じ頃、神殿の奥の執務室で――――。


 大神官の机に、朱印の押された閉店命令が音もなく現れる。ゲオルクはそれを一瞥し、眉ひとつ動かさず、燭台の火に……かざしかけて、やめた。抽斗(ひきだし)の奥に、静かに仕舞い込む。


「……宛先どおり、か」


 その呟きを聞いた者は、誰もいない。


       ◇


 店の再開日、レナート様が一枚の書状を持ってきた。上質な紙に、監査院の公印。


『当店ノ帳簿及ビ業務ヲ検分シ、概ネ適正ト認ム――王室監査院』


「掲げておけ。神殿への虫除けくらいには、なる」


「『概ね』が付いていますが」


「事実だ。まだ時々数字が滲んでおる」


 むっとしたが、額縁は買うことにした。経費である。看板の隣に、『王室監査卿御用達』の一枚。おばあちゃんが早速、整理券を配りながら自慢して回っている。


 台帳には、いつの間にか五枚目の赤メモが挟まっていた。『休業中モ記帳、几帳面。良』。……検分の対象外だと思うのですが、これは仕舞っておく。理由は、相変わらず考えないことにしている。


 店先には花があり、壁には認定状があり、台帳には赤いメモ。悪くない。


 ――その平和は、夕方の鐘で破られた。いつもの時報より半拍速い、上ずった鳴り方である。


「号外、号外ーっ! 北の第一防衛線、後退! 瘴気、峠の村に到達ーっ!」


 号外売りの少年の声が、風にちぎれて飛んでいく。店先の光と、東の空の灰色との境界線が、心なしか昨日より近い。


 世の中の理不尽は、汲んでも汲んでも湧いてくる。ただ――今度のは、少し、桁が違う気がした――。

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