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13. お志と書いて、ノルマと読む

 勝手口の花は、今朝も白だった。異常なし、の合図である。


 ネリちゃんの持ってくる小さな花は、私の帳簿より先に、今日の無事を報告してくれる。花瓶の水を替えると、朝の光が水面でくるりと回った。市場筋からは荷車の音と、パン屋の窯の匂い。いつもの朝である。


 その平和は、開店の鐘と一緒に終わった――。


「リカちゃん、大変だよ!」


 屋台のおじさんが、紙を振りかざして駆け込んでくる。後ろには八百屋のおかみさん、パン屋のご主人、荷運びの兄さんたち。狭い店先が、あっという間に人いきれと騒ぎで膨らんでいく。


 全員の手に、同じ紙があった。上等な羊皮紙、金の縁取り、そして脂っぽい乳白色の封蝋。この蝋を見るのは三度目である。一度目は呪いの札、二度目は偽造証文。三度目の正直という言葉は、たぶんこういう時に使うのではない。


『聖光教会財務局ヨリ、敬愛ナル商イノ民ヘ――日頃ノ神恩ニ報イルタメ、月々ノ売上ノ一割ヲ奉納トシテ納メラレタシ。期限ハ月末。ナオ、オ志ヲ示サレヌ向キハ、市場ノ祝祭及ビ広場ノ使用ヲ遠慮イタダク』


「……『お志』と書いてありますが」


「書いてあるだけさ! 納めなきゃ祭りから閉め出しだって言うんだよ!」


 おかみさんの声が割れる。市場の商人にとって、祝祭からの閉め出しは死刑宣告に近い。年に四度の大市で、皆この一年の帳尻を合わせているのだ。志は、強制された時点で志ではなくなる。それはただの、取り立てである。


 ちなみに、うちにも届いていた。宛名『返品屋リカ様』。売上の一割。うちの一割はお茶と焼き菓子で消える程度の額だが、問題は額ではない。前例というものは、小さいうちに返しておくに限る。


「これは、受け取りません」


 ぽん。【差戻】。荷札がひるがえり、光の粒が路地の角へ吸い込まれていった。配達を終えた使いの神官が、ちょうどそこにいたのである。自分の懐から出てきた布告を握りしめ、彼はしばらく石像になっていた。配達ご苦労さまです。


「今の見たかい!」「うちのも! うちのも頼むよ、聖女さま!」


「皆さんの分は、皆さんが受取人です。私が代理で返すには、委任状が要ります」


「いにんじょう……?」


「『これは受け取りません』という意思を、紙にしたものです。お名前か、拇印があれば結構です」


 こうして返品屋は、その日一日、委任状の作成会場になった。


 マルタさんが食堂の卓を三つ並べ、おばあちゃんが順番を仕切り、ネリちゃんが白湯を配って回る。私は書式を書いては、朱肉を差し出す係である。窓から差す昼の光の中で、インクと朱肉と、誰かが持ち込んだ焼き栗の匂いが混ざり合う。順番争いは、おばあちゃんの飴玉が三つで解決した。


「なあ、ついでにうちのカカア向けも一枚書いていいかい」


「ご結婚は、双方合意の契約ですので」


「ちぇっ。前もそれ言われたな」


 字の書ける人は震える手で名前を、書けない人はまっすぐな目で拇印を。ネリちゃんのお母さんも、花売りの合間に息を切らしながら顔を出した。拇印は、もう慣れたものである。朱の跡のついた親指を、彼女は少し誇らしそうに眺めていた。


「あんた、これ、教会に喧嘩売るってことだよ。分かってんのかい」


 夕方、人の引けた店で、マルタさんが小声で言った。眉の太い顔が、珍しく本気で心配している。竈の火が爆ぜて、その横顔を橙色に揺らした。


「売りません。買いもしません。宛先を間違えた紙を、宛先に戻すだけです」


「……はぁ。あんたのそれ、『大した度胸』って言うんだよ」


 度胸ではない。事務である。――怖くないと言えば、嘘になるけれど。怖さというものは、書式に落とすと存外おとなしくなる。九年の社会人生活で学んだことの、二つ目だ。


 窓の外では、いつの間にか日が傾いていた。委任状の束の重みが、手のひらに残っている。紙は軽い。けれど三十七枚集まると、ずしりとくる。この重さは、三十七人が「もう泣き寝入りしない」と決めた重さである。私の特技は、この重さを送り主に返すことだけ。それで十分だと思う。


 綴じ紐で束ねた委任状は、三十七枚になった。布告の決裁印は全部同じ、『財務局長ヴォルツ』。堂々たる大きな印だ。堂々と押してくれていると、遡る手間が省けて助かる。


「明日の朝九時、開店と同時に、まとめてお返しします」


 誰にともなく宣言すると、残っていた常連さんたちから拍手が起きた。だから、見世物ではないのですが。



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