接吻
酷い臭いに胃のむかつきが治らず、わたしはあれから度々胃液を吐き戻していた。起き上がる気力も体力もなく、冷たい床に転がって腹の底から込み上げる熱を吐き出すだけ。潤いを失った肌はかさかさで、身体のあちこちがひび割れるような痛みを訴えていた。
凡そ人間の生活とは思えない理不尽な環境に、わたしはただただ身を委ねる他なかった。
どれくらい時間が経ったのだろう。
ごつごつとした靴音が石の床を通して耳に響き、重苦しい鉄の扉が暫くぶりに開かれた。
ぐったりと倒れ伏したまま視線だけを扉に向けると、相変わらずの古びたコートを羽織ったあの男が、扉口で呆然と立ち尽くしていた。その手には金色の杯が握られている。
性懲りも無く、またわたしに血を飲めと言うのだろうか。不快感と飢餓感が綯い交ぜになり、無性に腹が立ったわたしは掠れた声を絞り出した。
「水とパンを……」
わたしの言葉は彼を苛立たせるものだったようで、彼は琥珀色の瞳を釣り上げると、重々しい靴音を響かせて真っ直ぐに鳥籠へと向かってきた。杯を片手に鉄の檻を握り締め、責めるようにわたしに言った。
「何故、そこまで頑なに拒む。本当に死ぬぞ」
そんなことを言われても、飢えよりも嫌悪感が勝ってしまうのだから仕方がない。
反論する気力もなくわたしが黙っていると、「くそっ」と吐き捨てるように言い残して、彼は部屋を出て行った。暫くして再び部屋に姿を現した彼は、前回と同じように、水で満たされたグラスとまるっこいパンを持っていた。がちゃりと錠が外れる音がして、鳥籠の扉が開かれる。汚れた床にプレートを置くと、彼は黙って籠の前に座り込んだ。
どうやら今度は、わたしがものを食べる様子を観察したいようだ。相変わらず部屋は酷い臭いで胃のむかつきは治らない。けれど、男の言うとおり、何か食べなければ死んでしまう。
わたしは重い体を起こし、震える手でパンを半分に割ると、グラスの水にそれを浸して柔らかく粥状に潰し、今度は落ち着いてゆっくりと飲み込んだ。けれど、それでもわたしの身体は異物を拒むようで、粥状のパンは胃液とともに喉の奥から押し戻された。
汚れた床に両手をつき、胃の中身を洗いざらいに嘔吐する。枯れたはずの涙がまた眦に溢れ、床の上にぽたりと零れた。
どうしてわたしがこんなめに遭わなければならないのか。苦しまなければならないのか。
こんなにも水を求め、食べ物を欲しているのに、何故この身体はそれを受け入れてくれないのか。
何ひとつ答えを得られないまま意識が朦朧として。わたしは自分の身体を支えることすらままならず、たった今吐き戻した吐物の上に否応もなく倒れ込んだ。
けれど、わたしの身体は汚れた床には崩れ落ちなかった。床に接するその前に、男の腕に抱きとめられた。酷い臭いと汚れを気にするでもなく、不自然に無機質なその腕で、彼はわたしを抱え直した。手にした杯の中身を口に含み、親指と中指でわたしの両頬を圧し潰すように固定する。からんと乾いた音をたてて、空の杯が床の上に転がった。
次の瞬間、抉じ開けられたわたしの口が、かさついた唇で覆われた。
呼吸をするために動かした喉の奥に、生温い液体が流れ込む。吐き戻そうとするより先に、ごくりと大きな音をたて、喉が勝手に嚥下した。
鼻の奥から立ちのぼる鉄錆に似た独特の匂いに噎せ返る。
不快なはずのその液体は仄かにあまく、ひび割れたわたしの身体をじわじわと潤していった。




