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KYRIE   作者: リンドウノミチヤ
第三章
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史緒音


     + + +



 遥か頭上で銃声が聞こえた。公爵夫人は足に痛みを感じて目を開いた。目の前に木の葉と土に塗れた男の顔があった。何故統也がここにいるのだろう、もう私の前から去っていった筈なのに。彼女はぼんやりと考えつつ数cm先の男の頬を触った。統也の顔は蒼白で、苦しげな息の下から何かを呟いている。パーカのポケットごしに何かが触れた。夫人が探ると、それはサファイアの指輪と、そして小さなチップだった。車のエンジン音と、複数の人間の足音が聞こえてくる。彼女は身を固くし、もう片方の手で地面を探ると、指先に銃身が触れた。これは統也が持っていたものだろうかと思いつつ夫人は弾倉を確認した。一発残っていれば充分だ。近づいてくる足音に混じって男の声が聞こえた。

「夫人、ご無事ですか!」

 聞き覚えのあるその声に夫人は微かに溜息をつき、そして数時間ぶりに自分が自由の身になった事を知ったのだった。



     + + +



 公爵夫人は足に捻挫を負ってはいたが他は無傷で救出された。夫人を庇って墜落した男は全身打撲で搬送され、そして公爵邸で起こった殺人事件の容疑者として警察病院に移送された。

 夫人の救出を指揮したドラジェンは警察で事情聴取を受けたが、その直前にちょっとした出来事があった。病院で検査を受けている筈の公爵夫人に呼び出されたのだ。そして感謝されるどころか上司や警察に報告する筈の事件の顛末を出来うる限り、いやそれ以上の情報を搾れるだけ搾り取られる羽目になった。

 彼は美しく厳格な女教師に叱責されるような、そして得体の知れない怪物に対峙しているような感覚を同時に味わっていた。夫人は先刻まで死の境目を彷徨っていた人間とは到底思えない程平静だった。しかしその稀有な美貌は静かな怒りを潜ませつつ終始無表情であり声は冷酷に響き言葉は容赦なかった。

 ドラジェンはかつて経験したどんな戦闘でも味わったことのない種類の恐怖で背筋に冷たい汗が流れるのを自覚し、彼女が雪の女王と呼ばれる所以を密かに納得した。そして何故あの男はこんな恐ろしい女に執着出来るのだろうと考えた。



     + + +



 榛統也は事件の後も沈黙を貫いた。

 彼は警察病院で支店長殺害を告白したが何故公爵夫人の誘拐現場に居合わせたのかについては一言も語らなかった。

 支店長の死体は榛統也の供述通り公爵家の領地内にある狩猟小屋で発見された。しかし支店長と誘拐犯達の繋がりを示す物は何一つ残っていなかった。サダルメリクは誘拐犯達との接触を注意深く避けていた為彼等も自分達を雇った男の素姓を正確には知らなかったのだ。

 公爵邸の殺人事件については、支店長が生前企業内で横領をはたらいていた証拠が示された為警察は捜査方針を改めざるを得なくなった。榛統也は支店長殺害の罪で収監された。

 当局はルイ・セドゥ・ヴァイヤン公爵とサダルメリクの兄との繋がりを掴んではいたが、各界に影響力を持つ公爵家しかもラーゲルレーヴの重役が欧州を騒がせているテロリストグループに関与していたと公になる事は賢明ではないと判断し黙殺する事とした。しかし未だ問題は残っていた。サダルメリクの正体を知っていると思われる唯一の部外者、榛統也の存在である。統也の存在が闇に葬られる危険があると気付いた公爵夫人は画策し彼を父、桐永天音の養子にした。それは、榛統也を公爵家ひいてはラーゲルレーヴの監視下に置くという暗黙の宣誓だった。

 数週間後、イングリッド公爵夫人はラーゲルレーヴの会長の座から退く事を発表し重役達を驚かせた。とは言っても公爵夫人の基盤は絶対であり、彼女が依然としてラーゲルレーヴにとって重要な存在である事実には変わりなかったが。

 公爵の死に関わる一連のスキャンダルが彼女の引退の理由と説明された。


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