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KYRIE   作者: リンドウノミチヤ
第二章
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史緒音6


     + + +



 そのピアノの音色を聴いた時、統也は、あのピアニスト、桐永天音だと思った。

 昔、史緒音が旅立った後、天音のアルバムを購入して繰り返し聴いたのだ。柄にもない事をしているとも思ったが、彼にとってはそれが唯一の彼女の足跡を辿る術だった。

 広間の中心のグランドピアノの前に座っている公爵夫人の、鍵盤の上を滑らかに動く白い指を統也は暫し眺めていた。ピアノの音は、微かな余韻を残しつつ止まった。

「父がアパルトマンに練習用に置いていたのよ、もう使わないからと今になって送りつけて来たわ」

 公爵夫人は鍵盤を見つめたまま呟いた。そして顔を上げると、変わらぬ酷薄な瞳で彼を直視し、続けた。

「感心にも、逃げなかったようね」

「覚悟はしてるしな」

「日本に逃げ帰る気はない訳?夫は鷹揚な人だし倫理観は普通の人間とは違うけど、妻を寝取られたと知ったらどういう行動に出るのか私にも分からないわ」

「貴女のピアノを聴けたからな、ここで殺されても惜しくはない気になってるよ」

 夫人は呆れた顔で統也をしげしげと見つめた。

「あなたはずっと昔から私に執着しているわよね、一体何故?」

「俺にも分からん。だが、貴女は俺にとって特別な存在だ」

「私は特別な人間なんかじゃないわ」

 夫人は自嘲するかのように呟いた。

「いや、貴女は、自分でも分かっていないのかもしれんが、特別なんだよ。多分俺は、最初に出会った時から、貴女を所有してみたかった。貴女が他の奴らの目に触れるのも嫌だったし、ずっと誰のものでもなく、俺だけのものならいいと思ってたよ。でもそうじゃない。貴女は俺とは違う世界のひとだ。どうやったって、それは変えようがない」

 彼は低く掠れた声で一気に言った。そして暫しの沈黙の後、意を決したように夫人を見た。

「明日、俺はこの国を去る。チームも辞めて来た。もう貴女に会う事もないだろう」

 統也はきっぱりと言った。公爵夫人は白い顔を僅かに上げた。彼女はまるで迷い子のように目の前の男の顔を見た。薄茶色の長い睫毛が一瞬ふせられ、その瞳に微かに影を落としたが、男は気づかなかった。

 彼はその時、遥か昔に出会った美しい少年の事を思い出していた。冬の埠頭で光り輝いていた少年の亜麻色の髪、無造作に首からかけていた小さな古めかしい十字架、彼の前を駆け抜けて行った細く長い手足。そして今彼の前に立っている月の佳人を見た。少年時代から始まった奇跡に終止符を打つべき時が来たと思った。長い苦悩の末の決断だった。

「俺が貴女を忘れることはないだろう。だけど俺は、持ち札の全部を使い切っちまった。貴女は、どうだ?」

 夫人が口を開いた時、統也の端末が音をたてた。

「貴女の、旦那からだ」

 統也は夫人の目を直視したまま言った。



     + + +



 部屋に入るなり統也は異臭に気付いた。ルイ・セドゥは大理石のテーブルの横に座り込んでいたがそのシャツは赤く濡れていた。

「無理だ、ここからは聞こえないんだよ、使用人には普段からこの離れには近付けさせていないんだ」

 廊下に向かって大声で呼びかけた統也にルイ・セドゥは言った。この理不尽な状況にあってもどこか達観したような表情だったが、しかしラピスラズリの瞳は食い入るように一点を凝視している。シャツの上からは惨たらしい傷口が見えた。統也は受話器を掴み手早く救急要請をするとそのまま邸内の内線に切り替える。直ぐには事情が呑み込めない様子の使用人に、受話器ごしに強い口調で怒鳴った。

「油断したよ、まさか星がやって来るなんてね」

 搾り出すような公爵の声に統也は振り返った。

「じっとしていろ、ルイ。話さなくていい、今止血するから」

「星だよ、星の目だ」

 そのまま統也の耳元に囁き続け、ルイ・セドゥの皮膚はこの世ならざるものに変色して行った。廊下を走る大勢の足音が近付いて来る。緊張した面持ちの使用人達に混じって公爵夫人の白い顔が見えた。



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