第一話 崩れ始めた日常
本作品は実体験をもとに構成していますが、プライバシー保護および演出のため、登場人物名・設定・一部の内容を変更したフィクションです。
第一話 ― 崩れ始めた日常 ―
2023年、夏。
尋志の妻、里美は、家を出て行った。
理由はわかっているはずなのに、どこか現実味がなかった。
長澤家は四人家族。
尋志と里美、長男の将太、長女の幸絵。
二年半前に建てたばかりの家。
まだ新しいその場所から、里美はいなくなった。
結婚して、もうすぐ四半世紀。
これまで何度も喧嘩はしてきたが、不思議と翌日には元に戻っていた。
――だが今回は違った。
家を出て行く。
それは、初めてのことだった。
---
尋志には、立ち止まっている時間はなかった。
仕事に加え、家事のすべてを担わなければならない。
洗濯、掃除、食事、そして金の管理。
社会人一年目の将太と、来年高校生になる幸絵。
子供達の生活も支えなければならなかった。
考え込む余裕など、どこにもなかった。
---
思えば、すべては新しい家の計画から始まっていた。
当時、夫婦は共に四十五歳。
新型コロナウイルスが広がり始めた頃だった。
里美は、そのタイミングで転職を決意した。
新しい環境、新しい生活。
不安はあったが、それ以上に未来への期待があった。
尋志は夕食作りを担当することにした。
役割を分担すれば、やっていける。
あの頃は、そう信じていた。
---
だが、引っ越してしばらくすると、里美の様子が変わっていった。
表情は曇り、口数も減った。
食事中も、どこか遠くを見ている。
「大丈夫か?」
尋志の問いかけに、里美は小さく頷くだけだった。
---
ある日。
パソコンの前で、里美の手が止まっていた。
「こんなこともできないのか!」
男の怒鳴り声が、耳の奥に残って離れない。
キーボードに触れた指が、わずかに震えていた。
---
原因は明らかだった。
慣れない業務。
課されるノルマ。
そして、逃げ場のないハラスメント。
特に、男性の怒鳴り声は、里美の心を確実に削っていった。
---
そしてそれは、今回が初めてではなかった。
里美は以前から、人の強い言葉に過敏になっていた。
子供の関係で関わっていた大人から、厳しい言葉を浴びせられたことがあったからだ。
詳しい内容は語られなかったが、その記憶は深く残っていた。
そのため、職場での怒号は、過去の記憶を呼び起こすものでもあった。
---
それでも里美は、家では何も言わなかった。
尋志が忙しいことを理解していたからだ。
時折話しかけても、十分に耳を傾けてもらえないこともあった。
それでも、仕方がないと受け入れていた。
---
だが、その日。
「そんなに辛いなら、辞めればいいだろ!」
尋志の声が、部屋に響いた。
静まり返る空間。
その言葉は、思っていた以上に重く、里美の中に落ちていった。
---
――ここにも、居場所はない。
---
その瞬間、何かが切れた。
---
大きな喧嘩のあと、里美は別れを決意した。
話し合いは行われたが、簡単に埋まる距離ではなかった。
そして、別居。
---
家を出て行く日。
里美は、静かに言った。
「パパの作ったラーメンが食べたい」
尋志は、何も言わずにラーメンを作った。
湯気の向こうで、里美はわずかに笑みを見せた。
---
「壊れていく姿を見せたくないの」
「治して帰ってくるから」
---
そう言い残し、里美は車に乗り込んだ。
運転席には将太。
車が見えなくなるまで、尋志はその場を動かなかった。
---
翌日から、生活は一変した。
睡眠時間は三時間ほど。
食事をとる余裕もない。
洗濯はどうにかこなせた。
だが、金の管理は容易ではなかった。
家計簿を手に取り、必死に数字と向き合った。
生きていくために、やるしかなかった。
---
一ヶ月が過ぎた頃。
尋志はようやく、里美に連絡を入れた。
無事でいるのか、それだけが気がかりだった。
---
そんなある日。
家族で可愛がっていたアヒルが、息を引き取った。
その日だけ、里美は家に戻ってきた。
久しぶりに会うその姿は、以前よりも明らかに痩せていた。
尋志もまた、この二ヶ月で大きく体重を落としていた。
---
二人の間に、多くの言葉はなかった。
ただ、同じ場所に立ち、同じものを見ていた。
---
その小さな命が、
二人の苦しみを背負っていったように感じられた。
---
それから、子供達を通して、二人は少しずつ繋がっていく。
---
冬が近づいた頃。
里美から連絡が入った。
「来月、家に帰ります」
---
三ヶ月ぶりの帰宅。
玄関に立つ里美に、尋志は言った。
「おかえり」
---
その言葉には、後悔と、決意が込められていた。
---
――同じことを、繰り返さない。
---
尋志は里美への接し方を改めた
怒鳴らない。
否定しない。
伝え方を変える。
それだけでよかった。
---
やがて、里美は少しずつ元気を取り戻していく。
そして、再び転職をする決意をした。
---
選んだのは、かつて勤めていた職場だった。
そこは、里美にとって安心できる場所だった。
---
やがて、笑顔が戻る。
夫婦の関係も、以前より穏やかなものへと変わっていった。
---
だが――
長澤家の困難は、ここで終わらない。
---
すべては、ここから始まる。
---
――シーフとの関わりが。




