第81話 猿と都市伝説の真実
秋の空気が、コンクリートジャングルを支配する季節。
佐藤健司の日常は、もはやかつて彼が忌み嫌っていた「退屈」という言葉からは、かけ離れたものとなっていた。早朝から始まるMMAジムでの地獄のトレーニング、日中は国家予算レベルの資金が動く電子の戦場での孤独なデイトレード、そして夜は、自らの魂と向き合う魔法の修行。その全てが、彼の心身を極限まで研ぎ澄ませ、しかし同時に、確かな成長の実感を与えてくれていた。
その日も、彼はヤタガラスへの週に一度の「出勤」を終えようとしていた。
新人能力者のカウンセリングと、山のような経済レポートへの所見の記述。どこまでも平和で、知的で、そして少しだけ物足りない業務。オペレーション・ブラックアウトの激闘や、SAT-Gとの血の味がするほどの模擬戦を経験してしまった彼の闘争本能は、この静かなオフィスの中では、行き場をなくして燻っていた。
「ふー、今日も終わりですかね?」
健司がデスクで大きく伸びをした、その時だった。内線電話の控えめな呼び出し音が鳴る。受話器を取ると、スピーカーの向こう側から聞こえてきたのは、橘真の秘書の、丁寧な声だった。
「Kさん、お疲れのところ恐縮ですが、副局長がお呼びです。至急、執務室までお越しください」
(……任務か?)
健司の心臓が、わずかに高鳴った。
彼は逸る心を抑え、静かに頷くと、最上階にある副局長室へと向かった。
重厚なドアをノックし、中へ入る。橘は、デスクで書類の山と格闘していたが、健司の姿を認めると、疲れたように溜息をついた。
「やあ、K君。待っていたよ」
「お疲れ様です、橘さん。何か、ありましたか?」
橘は、健司にソファを勧めた。そして、自らもデスクを離れ、向かいのソファに深く腰を下ろす。その手には、一枚のタブレット端末が握られていた。
「単刀直入に言おう。君に、新しい任務を任せたい」
橘の目は、もはやただの上司のものではない。この国の裏側を統べる、インテリジェンス機関の幹部の、鋭い光を宿していた。
「任務……! 今度こそ、戦闘任務ですか?」
健司の声に、隠しきれない期待が滲む。
だが、橘は静かに首を振った。
「いや。今回は、調査任務だ。だが、君の力……特に、【過去視】と【未来視】が、不可欠な案件だ」
彼は、タブレットの画面を健司に向けた。そこに表示されていたのは、一見すると何の変哲もない、街角に佇む自動販売機の画像だった。古びており、ところどころ塗装が剥げ、最新の電子マネーには対応していない、旧式のモデル。
「これは?」
「ネット上で、まことしやかに囁かれている、一つの都市伝説の発生源だ」
橘は、静かに語り始めた。
「『当たりが出たら、能力者になれる自販機』。……聞いたことはあるかな?」
「いえ、初耳です」
「そうだろうな。ごく一部の、オカルトマニアや、我々のような世界の裏側を知る者たちの間でしか、語られていない噂だ」
橘は、タブレットを操作し、いくつかのウェブサイトのキャプチャ画像を表示させた。そこは、健司がかつて「予知者K」として降臨した5ちゃんねるのオカルト板や、匿名の都市伝説まとめサイトのような場所だった。
『マジレスするけど、西東京の○○公園にある自販機、ガチでヤバい』
『ダチがそこで当たり引いてから、急にスプーン曲げられるようになったんだがw』
『幻のジュース「ミラクル☆パンチ」を当てると、覚醒するらしい。ただし、当たり確率は天文学的』
『俺も当たった。以来、猫と話せるようになった。信じるか信じないかは、あなた次第です』
書き込まれている内容は、どれも荒唐無稽で、信憑性に欠けるものばかり。だが、その中には、無視できない生々しさが混じっていた。
「我々ヤタガラスも、この都市伝説の存在は、数年前から把握していた。だが、これまで、実際にこの自販機で能力者になったと名乗り出てきた者は、一人も確認されていない。そのため、単なるネット上の悪戯として、静観していたのだが……」
橘の声が、低くなる。
「……ここ数ヶ月で、状況が変わった。君のテレビ出演以降、国内で因果律改変能力への関心が、爆発的に高まった。その影響で、この自販機を『聖地巡礼』する若者が急増している。そして、それに伴い、ネット上での『覚醒報告』も、無視できない数にまで膨れ上がっている」
「……なるほど。放置できない、と」
「その通りだ」
橘は頷いた。
「もし、この都市伝説が本物だとしたら……それは、我々の管理下にない、極めて危険な能力者の発生源となり得る。我々は、そのメカニズムと、背後にある意図を、解明する必要がある」
「K君。君に、この自販機を調査してもらいたい。内閣情報調査室、特殊事象対策課のエージェントとしてね。君のその『眼』で、この都市伝説の真偽を、確かめてきてほしい」
健司の心は、静かに燃え上がっていた。
戦闘ではない。だが、これは間違いなく、彼にしかできない任務。
自らの力の根源である「観測」の能力を、最大限に発揮できる舞台。
「了解です。やります」
健司の、力強い返事に、橘は満足げに頷いた。
その日の夕暮れ。
健司は、ヤタガラスが手配した、何の変哲もない国産セダンを自ら運転し、西東京の郊外へと向かっていた。都心の喧騒から離れるにつれて、窓の外の景色は、高層ビルから、古びた団地や、静かな住宅街へと変わっていく。
彼の目的地は、橘から指定された、地域住民の憩いの場となっている、さして広くもない公園だった。
公園の駐車場に車を止め、健司は一人、園内へと足を踏み入れた。
夕暮れの光が、長く影を落としている。ブランコや滑り台では、まだ数人の子供たちが、甲高い歓声を上げて遊んでいた。その、どこまでも平和な光景。だが、健司の【霊眼】には、この公園の、もう一つの顔が見えていた。
古びた木の根元に宿る、土地の記憶。
子供たちの笑い声に混じる、微かな霊的な残留思念。
この世界は、常に二重構造なのだ。
彼は、公園の一番奥、古びた公衆トイレの脇に、それを見つけた。
一台の、自動販売機。
橘が見せた画像と、寸分違わぬ、旧式のモデル。
赤い塗装は色褪せ、商品ディスプレイの照明は、半分以上が切れている。売られているのは、どこにでもあるような、お茶やジュースばかり。噂にあった、「ミラクル☆パンチ」なる商品は、見当たらない。
だが、健司は、その自販機から放たれる、異様なオーラを感じ取っていた。
それは、悪意ではない。
だが、明らかに、周囲の空間とは異質な、凝縮された魔力の気配。
「……これか」
健司は、周囲に人がいないことを確認すると、ゆっくりと自販機に近づいた。
彼は、まず【霊眼】を最大まで開き、その魔力の流れを観測する。
(……なるほどな。自販機そのものが、魔術的な装置になっているわけじゃない。……この土地の、霊脈……気の流れを利用して、術式を維持しているのか。実に、効率的だ)
健司は、次に、自らの最も得意とする魔法を発動させた。
【過去視】。
彼は、自販機の冷たい金属の筐体に、そっと手のひらを触れさせた。
その、瞬間。
―――ザアアアアアアアアッ!!!!
彼の脳内に、奔流がなだれ込んできた。
数十年分の、膨大な記憶の断片。
―――数人の作業員が、この自販機を設置している、古い映像。
―――夏の日、汗を拭いながらスポーツドリンクを買う、高校球児。
―――冬の夜、冷えた手を温めるように、温かい缶コーヒーを握りしめる、サラリーマン。
―――恋人と喧嘩し、一人、この自販機の前で泣いていた、若い女性。
無数の、名もなき人々の、ささやかな日常の記憶。
その、情報の奔流の中から、健司は、自らが求める「特異点」を探し出す。
当たりを、引いた瞬間。
―――見えた。
一人の、気弱そうな中学生の少年。
小銭を入れ、ボタンを押す。
ガコン、という音と共に、取り出し口にジュースが落ちる。
そして、もう一つ。カラン、と軽い音がして、返却口に、何かが落ちた。
「お釣り……じゃない。……え、当たり?」
少年が、当たり券を手に取り、驚いている。
彼は、当たり券に書かれた番号のボタンを押した。
ガコン。
出てきたのは、彼が今まで見たことのない、奇妙なデザインの缶ジュースだった。
『ミラクル☆パンチ』。
彼は、その缶を開け、一口飲む。
その、瞬間。
少年の身体が、淡い光に包まれた。彼の脳裏で、何かが、弾ける。
彼が、驚いたように自分の手を見つめる。その指先から、小さな、小さな静電気が、パチパチと散っていた。
健司は、次々と、同じような光景を観測していく。
当たりを引いた、女子高生。
当たりを引いた、若いカップル。
当たりを引いた、初老の男性。
その誰もが、「ミラクル☆パンチ」を飲んだ瞬間、自らの内に眠っていた、ささやかな才能の蕾を、開花させていた。
だが、健司は、それと同時に、もう一つの、より重要な情報を捉えていた。
その、自販機そのものにかけられた、巧妙な「術式」の痕跡。
それは、健司の【霊眼】をもってしても、完全には解読できない、複雑で、高度な魔法の紋様だった。まるで、幾重にも重なったモザイク画のように、その本当の姿を隠している。
健司が、その術式の深層に、さらに意識を潜らせようとした、その時だった。
『猿! それ以上、深入りするな!』
脳内に、魔導書の、鋭い警告が響いた。
『その術式には、カウンター式の防御機構が、仕掛けられている。下手に干渉すれば、貴様の精神が、逆に焼き切られるぞ』
「……くそっ」
健司は、舌打ちし、自販機から手を離した。
額には、玉の汗が浮かんでいる。
「……どう思う、魔導書」
健司は、心の中で問いかけた。
『うーん、これは、高度な術式だな』
魔導書は、感心したように言った。
『当たりを引いた人間の、魂の情報をスキャンし、その者が持つ因果律への適性……すなわち、Tier 5としての素質を、見抜く。そして、その素質に合わせた、最適な形で、才能を開花させるための、トリガーとなる魔力を、注入する。……見事な手際だ』
『これは、魔法が掛かってるな。当たりを引いた人物の、魔法の才能を開花させるというタイプだ。おそらく、この術式の製作者は、他者の才能開花をサポートすることに、特化した能力者だろう。……珍しいぞ、このタイプは』
「犯人は、特定できるか?」
『いや、無理だろう』
魔導書は、即答した。
『この術式からは、術者の個人的な魔力の痕跡が、完全に消去されている。相当な、手練れだ。……おそらく、個人ではなく、組織的な犯行だろうな』
『そして、この術式の、もう一つの特徴。……それは、確率の操作だ』
「確率?」
『そうだ。当たりが出る確率は、天文学的に低い。おそらく、数百万分の一、あるいはそれ以下だ。だが、その分、一度当たりを引いた際の、能力開花の成功率は、極めて高い。……これは、確率を低い方に収束させることで、その分の余剰エネルギーを、別の事象……この場合は、「才能開花」の成功率を底上げするために、転用しているのだろう。……実に、合理的で、美しい術式だ』
健司は、息を飲んだ。
自らの、最も得意とする【確率操作】と、同じ原理。
だが、その運用方法は、自分のそれとは、比較にならないほど、高度で、洗練されている。
自分は、まだ、この世界の、ほんの入り口に立ったばかりなのだ。
彼は、ヤタガラス支給の端末を取り出すと、橘に電話をかけた。
数コールの後、回線が繋がる。
「橘さん。俺です」
『K君か。どうだった?』
「確認しました。過去視して確認しましたが、本物っぽいですね。都市伝説は、事実です。おそらく、当たりの確率が相当低い代わりに、才能開花のサポートをしてると思われます」
健司は、観測した内容を、簡潔に報告した。
『なるほど……』
電話の向こうで、橘が唸るのが分かった。
『……害は、ありそうかい?』
「そうですね。……術式からは、直接的な悪意や、害意は感じられません。ただ、純粋に、能力者を増やそうとしている。……そんな、印象です。……ですが、その思惑までは、分かりませんね」
『うーん……』
橘は、しばらく沈黙した。
そして、彼は、驚くべき事実を、健司に告げた。
『……実はな、K君。君が、その自販機を調査している間、我々の他のチームも、全国で同様の調査を行っていた。……そして、判明した。……日本全国で、似たような都市伝説が、複数、同時に存在することを』
「えっ!?」
『北は北海道の、寂れた港町の灯台の下。南は沖縄の、観光客も寄り付かないような、サトウキビ畑の真ん中。……全国に、少なくとも十数箇所。……この、「能力者自販機」が、設置されていることが、確認された』
『おそらく、国内の、いずれかの団体が、意図的に、因果律改変能力者を増やそうと、術式を仕込んでいるのだろう。……組織的に、だ』
健司は、言葉を失っていた。
これは、自分が思っていた以上に、根が深い問題だったのだ。
『……だがな』
橘の声が、低くなる。
『現時点で、彼らの目的も、正体も、全く掴めていない。そして、何よりも、彼らの行為によって、直接的な被害が出ているわけでもない。……むしろ、新たな才能を発掘してくれている、とさえ言える』
『だから、しばらく、様子見だろうね……。下手に手を出して、藪をつつくのは、得策ではない』
「了解です。……じゃあ、俺は、もう戻ります」
『ああ、そうしてくれるかい? ……戻ったら、今日の調査内容を、正式な報告書として、まとめて提出してくれ。……じゃあ、また』
橘は、それだけ言うと、一方的に通話を切った。
後に残された健司は、ただ、夕闇に沈んでいく公園の中で、立ち尽くしていた。
「……日本全国に、あって……国内の団体が、関与してる、か。……どう思う? 魔導書」
『そうだな……』
魔導書は、思考を巡らせる。
『この手の、才能開花をサポートする術式は、……開花させることを条件に、覚醒者を、自らのネットワークや、より大きな術式の一部に、組み込むパターンが、考えられる』
「どういうことだ?」
『例えば、だ。覚醒した能力者は、無意識のうちに、術者に対して、一種の「忠誠心」を、植え付けられる。……あるいは、その能力そのものが、術者が発動させる、巨大な魔法の、「歯車」の一つとして、機能するように、プログラムされている、とかだ』
『何かしら、大きいことを、しようとしているのかもな。……まあ、今の所、不明か……』
その、不吉な推測。
健司は、背筋に、冷たいものが走るのを、感じていた。
自分の、知らないところで、蠢く、巨大な陰謀の気配。
それは、まだ、形を成さない、漠然とした不安。
だが、彼の【予測予知】が、警鐘を鳴らしていた。
この、平和な日常は、長くは続かない、と。
健司は、ポケットに手を突っ込むと、自販機に百円玉を投入した。
ガコン、という音と共に、缶コーヒーが、取り出し口に落ちる。
彼は、その温かい缶を握りしめながら、再び、自販機を見上げた。
その、古びた鉄の箱が、まるで、巨大な陰謀の入り口のように、彼には見えた。
彼の、本当の戦いは、まだ、始まったばかりなのだ。
その、確かな予感を胸に、健司は、夜の闇へと、溶け込んでいった。
彼の心には、新たな謎と、そして、それを解き明かさんとする、静かなる闘志だけが、燃えていた。