第80話 猿とジャズと魂のリズム
血と汗の匂いが染み付いたマットの上で、二つの影が激しく交錯していた。
一つは、佐藤健司。
もう一つは、彼がこの「SAITO MMA GYM」で出会った、初めての好敵手。プロを目指す若きストライカー、鈴木だった。
「――そこっ!」
鈴木の鋭い声と共に、鞭のようにしなる右のミドルキックが健司の脇腹を抉る。健司は咄嗟に腕でガードするが、衝撃を完全には殺しきれない。【身体強化】で鋼鉄のように硬化させた肉体が、鈍い痛みを訴えた。
体勢がわずかに崩れる。その隙を見逃すほど、鈴木は甘くない。彼は流れるような動きで健司の懐に潜り込むと、テイクダウンを狙って両足タックルを仕掛けてきた。
(――来る!)
健司の【予測予知】が、その動きをコンマ数秒前に捉える。だが、今の健司は、ただ避けるだけの男ではなかった。
彼は、自ら重心を低く落とすと、鈴木のタックルを受け止めながら、その首を腕で巻き取るように捕らえた。フロントチョーク。だが、それはフェイント。健司の本当の狙いは、相手の体勢を崩し、その背後を取ること。
斎藤会長に、この一週間、地獄のように反復させられた「寝技からの逃げ」の応用。
「……させん!」
だが、鈴木もまた成長していた。健司の狙いを瞬時に読み取り、彼は強引に身体を捻ると、健司の腕から逃れ、素早く距離を取った。
二人の間に、数メートルの間合いが生まれる。
互いに荒い息を吐きながら、相手の次の一手を探る。
ジム全体が、水を打ったように静まり返り、二人の攻防だけを固唾を飲んで見守っていた。
(……くそっ。今の、完全にバックを取る流れだったのに……)
健司は内心で舌打ちした。自分の寝技の技術は、まだあまりに拙い。鈴木のような、幼少期から組み技に慣れ親しんできた生粋のグラップラーを相手にするには、まだ圧倒的に経験が足りなかった。
【予測予知】で相手の動きが「分かって」いても、それを実行する「技術」が、身体に染み付いていないのだ。
『……猿。思考が硬い』
脳内に、いつものように忌々しい声が響く。だが、今の健司には、その声が何よりも頼もしいコーチのように聞こえた。
『貴様は、予知した未来を「なぞる」ことしか考えていない。もっと、流れを読め。相手の、魂のリズムを』
(リズム……)
健司は、目の前の鈴木を、改めて「観た」。
ただの肉体の動きではない。彼の呼吸、筋肉の微細な収縮、視線の揺らぎ。その全てが、一つの音楽を奏でているかのように、健司の【霊眼】には映っていた。
攻撃の予備動作。防御への切り替え。その、僅かな「間」。
それこそが、斎藤会長が口を酸っぱくして言う、「崩し」の起点。
鈴木が、再び踏み込んできた。フェイントの左ジャブ。本命は、右のオーバーハンド。
健司は、その全てを予知していた。
だが、彼は今度は、ただ避けるだけではなかった。
彼は、鈴木が右の拳を振りかぶる、そのコンマ数秒の「溜め」の瞬間に、自らも踏み込んだ。
相打ち覚悟の、カウンター狙い。
だが、その狙いは、さらにその裏にあった。
健司が放ったのは、右のストレート。だが、それはブラフ。
鈴木が、そのカウンターのカウンターを取ろうと、身体をわずかに捻った、その瞬間。
健司の、本当の狙い。
がら空きになった、鈴木の左の脇腹。
そこに、彼は、自らが編み出した戦闘術『無刃』の、最も基本的な型を、叩き込んだ。
【身体強化】のパワーを乗せた、重い、重い、掌底。
―――ドンッ!!!!
「ぐ……ぉっ……!」
鈴木の動きが、完全に止まった。
彼は、信じられないという顔で、自らの脇腹を押さえ、その場に膝をついた。
「……参りました……」
絞り出すような声。
その言葉を合図に、スパーリング終了のブザーが鳴り響いた。
「よーし、そこまで!」
リングサイドで、腕を組んで二人の戦いを見つめていた斎藤会長の、低い声が飛んだ。
健司は、ぜえ、ぜえ、と荒い息を吐きながら、その場にへたり込んだ。
勝った。
予知だけに頼らず、自らの技術と、駆け引きで。
その確かな手応えが、彼の全身を、心地よい疲労感と共に満たしていた。
「……Kさん。……今の、掌底……。いつの間に、あんな……」
鈴木が、苦悶の表情のまま、しかしどこか嬉しそうに、健司に語りかけた。
「……会長に、教わったんだよ」
健司は、笑った。
「相手の、意識の裏をかく、やり方をな」
その日の練習が、終わった。
健司が、シャワーを浴びて着替えていると、斎藤会長が彼の元へやってきた。
「佐藤」
「はい、会長」
「……今日の、最後の掌底。……あれは、良かった」
斎藤は、滅多に褒めない男だった。その、短い称賛の言葉が、健司の疲れた身体に、じんわりと染みた。
「ようやく、分かってきたか。……戦いってのは、ただの殴り合いじゃねえ。……リズムの奪い合いだ」
斎藤は、自らの節くれだった拳を見つめながら、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
それは、彼が長年の戦いの中で掴み取った、闘争の哲学だった。
「……ボクサーには、ボクサーのリズムがある。柔道家には、柔道家のリズムがある。……お前がやるべきことは、相手のリズムを、まず感じることだ。そして、それを乱し、崩し、……最終的に、お前自身の『リズム』に、相手を引きずり込むことだ」
「今日の、最後の攻防。……お前は、それを無意識に、やっていた」
健司は、黙ってその言葉を聞いていた。
「……だがな、佐藤」
斎藤は、続けた。
「……お前の、その『リズム』は、まだ、借り物だ。……俺が教えたセオリー、お前が予知で見た未来。……その、なぞり書きでしかない。……まだ、お前自身の『音』が、鳴っていない」
彼は、健司の目を、まっすぐに見据えた。
「……それは、ジャズのセッションみたいなもんだ。……楽譜通りに完璧に演奏するだけじゃ、二流だ。……その場の空気、相手の音を感じ取り、即興で、自分だけのフレーズを奏でる。……それこそが、一流だ」
ジャズ。
その、あまりに意外な、比喩。
健司は、きょとんとしていた。
「……見つけろ、佐藤」
斎藤は、健司の肩を、ぽんと叩いた。
「お前だけの、リズムを。……お前だけの、ジャズをな」
「……それが、見つかった時。……お前は、俺なんかが教えられる領域を、遥かに超えていくんだろうよ」
斎藤は、それだけ言うと、背を向け、ジムの喧騒の中へと、戻っていった。
後に残された健司は、ただ、その言葉の余韻に、浸っていた。
俺だけの、リズム。
俺だけの、ジャズ。
それは、彼がこれまで追い求めてきた「強さ」とは、また少し違う、どこまでも深く、そして、どこまでも果てしない、道のりのように思えた。
ジムを出て、夜の街を歩く。
ヘッドフォンからは、適当に流したジャズのスタンダードナンバーが聞こえてくる。
これまで、ただのBGMとして聞き流していた、サックスの即興のソロ。
それが、今の健司には、まるで斎藤会長の言葉そのもののように、響いていた。
彼の、本当の戦いは、もはや強大な敵と対峙することではなかった。
それは、彼自身の魂の中に鳴り響く、まだ名もなき『リズム』を見つけ出す、果てしない旅路だった。
その、静かなる闘志を胸に、健司は、夜の雑踏の中へと、その一歩を踏み出した。
次のセッションが、彼を待っている。




