第79話 猿と鷲と金の卵
ヤタガラス東京支部のオフィスは、常に静寂に包まれている。
聞こえるのはサーバーの低い駆動音とキーボードを叩く規則的なタイプ音、そして時折響く内線電話の控えめな呼び出し音だけ。
佐藤健司は、自らに与えられたデスクで五十嵐が作成した分厚いレポートに目を通していた。来月の世界経済の動向に関する、マクロな予測分析。彼の【予測予知】の能力は、今や組織にとって欠かすことのできない羅針盤の一つとなっていた。
その日の全ての業務を終え、健司がオフィスを出ようとしたその時だった。内線電話が、控えめな電子音を立てる。橘の秘書からだった。副局長が彼を呼んでいるという。
(……新しい任務か?)
健司の心臓が、わずかに高鳴った。
彼は逸る心を抑え、静かに頷くと、最上階にある副局長室へと向かった。
重厚なドアをノックし、中へ入る。橘はデスクで書類の山と格闘していたが、健司の姿を認めると、疲れたように溜息をついた。
「やあ、K君。今日の業務はご苦労だったね」
「お疲れ様です、橘さん」
橘は健司にソファを勧めた。そして自らもデスクを離れ、向かいのソファに深く腰を下ろす。その手には、湯気の立つ二つの湯呑み。高級な玉露であろう、甘く深い香りが部屋に満ちた。
「いやー、平和だね、K君」
橘は湯呑みをすすりながら、しみじみとそう言った。その表情は、ヤタガラスの幹部としてのものではなく、ただの疲れた中年管理職のそれのようだった。
「そうですね……」
健司も頷いた。
オペレーション・ブラックアウトや、ヴァンパイアハンターとの死闘。あの血と硝煙の匂いがする非日常が、嘘だったかのような穏やかな日々。もちろん、それが一番良いことなのだ。分かっている。だが、彼の魂は闘争を、そして成長を渇望していた。
「でも、相変わらず覚醒型の新人さんは多いですね。今日もカウンセリングに同席しましたが、皆さん、自分の力に戸惑っていました」
「そうだね」
橘は湯呑みを置いた。
「現代社会はストレスの塊だからな。それが引き金となり、眠っていた才能が歪んだ形でこじ開けられる。……我々にとっては、喜ばしいやら悲しいやらといったところだよ」
健司は、ふと以前からの疑問を口にした。
「あの、素朴な疑問なんですけど……。【突然覚醒型】は多いですけど、その前の段階の【原石(Tier5)】って、やっぱり少ないんですか? ヤタガラスがスカウトする前の、才能を秘めた一般人ですよね」
そのあまりに素朴な問い。それを聞いた橘は、きょとんとした顔をした。そして次の瞬間、何かを理解したように、ふっと口元を緩めた。
「うーん、そんなことはないよ?」
「え?」
「ああ、そうか。君はまだ、そちらの部署とは関わりがなかったな」
橘は楽しそうに言った。
「K君。我々ヤタガラスにはね、【原石】の捜索と接触、そして育成を専門に行う特別な部隊が、また別にあるのさ」
「そうなんですか!?」
健司は思わず身を乗り出した。知らなかった。
「ああ。君が普段面談しているのは、すでに能力が発現してしまい、自ら助けを求めてきた、あるいは我々が緊急に保護した【覚醒型】の新人たちだ。だが、我々の仕事のもう一つの重要な柱は、まだ眠っている才能を誰よりも早く見つけ出し、正しく導くことにある」
橘は、ヤタガラスのもう一つの顔について語り始めた。
「能力を開花させる方法は色々ある。だが君も知る通り、【修練型】のようにただ鍛えればいいというものでもないし、【覚醒型】のように強いストレスをかければいいというものでもない。特に【原石】は、まだ何の色にも染まっていない繊細な魂だ。下手に刺激すれば、その才能は歪み、暴走しかねない」
「だから、特別な方法が必要なんだよ」
橘の声に、教育者のような真摯な響きが宿る。
「【修練型】と【覚醒型】のちょうど中間のやり方と、言えばいいかな。我々の専門家が彼らの傍に寄り添い、瞑想や自己意識の開花を通じて彼らの内なる声に耳を傾けさせる。そして、我々が使うごく微弱な魔法や能力を見せつつ、『世界にはこういう理も存在するのだ』と、ゆっくりとその認識を広げていく。……それは、固い蕾が春の陽光を浴びて、自らの力で花開くのを辛抱強く待つような、実にデリケートな作業なのさ」
「だから、ただ説明して『はい、今日から君も能力者です。登録してください』で、おわりってわけじゃないのさ」
「なるほど……」
健司は感嘆の声を漏らした。
ヤタガラスという組織の懐の深さ。自分が見ているのは、まだほんの一面に過ぎなかったのだ。
健司はそこで、あの遊佐奏との車中での会話を思い出した。
縄張り意識、派閥争い、そして日本の才能を漁る黒い鷲の影。
「……橘さん。先日、協会の協力者の人から聞いたんですが……。その【原石】を、アメリカの『マジェスティック』が日本で漁っているというのは本当なんですか?」
その言葉を口にした瞬間。
それまで和やかだった部屋の空気が、一変した。
橘の顔から、笑みが消える。
彼は眉間に深い皺を刻み、深々と、そして忌々しそうに溜息をついた。
「……ああ。……確かに、そうさ」
その声は、低く、そして冷たかった。
「……マジェスティックは、たちが悪いよ」
橘は湯呑みに残っていた玉露を、一気に飲み干した。
そして、この国のインテリジェンス機関が直面している、生々しい現実を語り始めた。
「彼らはまず、外資系のヘッドハンティング企業やベンチャーキャピタルを装って、ターゲットに接触する。『君には世界を変える特別な才能がある。我々の元で、その才能を活かしてみないか』とね」
「そして提示するのは、大金だ。契約金、数千万。渡米後の生活の完全保証。世界最高峰の研究施設。……まだ何者でもなく、将来に不安を抱える日本の若い才能にとって、それは抗いがたい魅力を持つだろう。……その甘い言葉で、大抵の【原石】は落ちるってわけさ」
健司は、言葉を失っていた。
あまりに狡猾で、あまりに合理的。
そして、あまりに魅力的だ。
もし自分が魔導書と出会う前に、そんな誘いを受けていたら。
断る自信は、なかった。
「もちろん、彼らも我々ヤタガラスと全面戦争したいわけじゃないからね。ある程度は自重している。……こちらの監視の目があることも分かっている。だから、あまりに強引な手段は使ってこない。……まあ、流石に他国だし、米国本土でやっているような、より強引な手は使えないわけだけどね……」
橘は、窓の外を見つめた。
その目は、霞が関の官庁街のさらに向こう、太平洋の遥か彼方を見ているかのようだった。
「……とはいえ、徐々にマジェスティックの勢力がこの国で伸びているのは事実だ。……我々も、危機感が必要だと思っているよ。……このままでは、日本の優秀な因果律改変能力者が減るわけだしな……。国力の流出だ。それも、最も貴重なな」
その静かな、しかしどこまでも重い言葉。
健司は、胸の奥がざわつくのを感じていた。
自分は、この国を守るためにヤタガラスに入ったはずだ。
だが、その守るべき国の未来が、今、見えないところで静かに、しかし確実に蝕まれている。
「……マジェスティックは……やっぱり、悪い人達なんですね」
健司の口から、素朴な感想が漏れた。
善と悪。
ヒーローとヴィラン。
彼の中ではまだ、世界はそのように単純な二元論で成り立っていた。
そのあまりに純粋な言葉。
それを聞いた橘は、不意にふっと息を吐き出すように笑った。
「……いや」
彼は首を振った。
「それは違うかな」
「え?」
「まあ、悪い人ではない。……ただ、我々とは正義の形が、そしてその実現のための手段が、全く違うだけだ」
橘は、健司にも分かるように言葉を選びながら、説明を始めた。
「彼らは、徹底した実力主義と成果主義だ。才能ある者には、最高の環境と報酬を与える。そしてその才能を、国家の利益のために最大限に活用する。……そのやり方は、実に合理的で、実にアメリカ的だ。……そこには、我々のようなウェットな『保護』や『調和』といった、非効率的な概念は存在しない」
「だから彼らは、強引な手段を使うことに何の躊躇もしない。……それが最も早く、最も確実に『結果』を出せる方法だと、信じているからな」
橘は、健司の目をまっすぐに見据えた。
「K君。君は彼らを『悪』だと思ったかね? ……だがもし、君がヤタガラスではなくマジェスティックにスカウトされていたら? ……君のその類稀なる才能は、今頃さらに大きな舞台で、さらに大きな報酬を得て、輝いていたかもしれない。……その可能性を、否定できるかね?」
そのあまりに鋭い問い。
健司は何も言い返せなかった。
そうだ。
もしそうなっていたら。
自分は喜んで、その手を取っていたかもしれない。
「……どちらが正しいという話ではないんだよ」
橘は静かに言った。
「ただ我々は、我々のやり方でこの国の未来を守るしかない。……彼らのやり方に、屈するわけにはいかんのだ」
その静かな、しかしどこまでも燃え盛る闘志。
健司は、目の前の男の本当の顔を見た気がした。
ただの疲れた官僚ではない。
この国の裏側を千二百年間守り続けてきた組織の誇りを背負う、一人の戦士。
「……だから、K君」
橘の声が、優しくなった。
「我々には、君のような存在が必要なんだよ」
「君は、この国で生まれ、この国で覚醒した最高の才能だ。……君がヤタガラスのエースとして世界にその名を知らしめること。……それこそが、マジェスティックのその傲慢な鼻をへし折り、『日本の才能は日本のものだ』と世界に知らしめる、何よりのメッセージになる」
そのあまりに大きな期待。
健司は、その重圧に身が竦む思いだった。
だが同時に、彼の胸の奥で熱い何かが込み上げてくるのを感じていた。
俺が、日本のエース。
「……期待していますよ、K君」
橘はそう言って、優しく微笑んだ。
その笑顔はもはや、ただの上司のものではなかった。
共に戦場に赴く指揮官の……いや、未来を託す一人の先輩の顔だった。
執務室を後にした健司の足取りは、どこかふわふわとしていた。
彼の頭の中は、新たに与えられたあまりに膨大な情報と、そしてあまりに大きな使命感で、飽和状態にあった。
マジェスティック。
アメリカ。
そして、いつか自分がその最前線に立つことになるかもしれない、見えざる才能の奪い合い。
彼の戦うべき世界の広がりを、彼はこの日、改めて思い知らされた。
夕暮れの光が、霞が関のビル群に長い影を落としていた。
健司は、その光景をただ見つめていた。
彼は今、確かに歴史の大きな転換点に立っている。
その確かな予感だけが、彼の心を静かに、そして力強く震わせていた。
運命の歯車は、確かに回り始めた。彼を、逃れられぬ闘争の渦へと引きずり込みながら。




