幸せのアルカロイド(7)
街の住人が行った通報では、牢から逃げ出したヨナについては一切言及されておらず。
ただ、不審な人物が、魔女の耳を持つ子供を堂々と連れ歩いているというメッセージだけが伝えられた。
無論、ヨナと無関係だと考えた者などいない。
ただ、その「不審な人物」がヨナと同一人物だと考えた者は、多くは無かった。
「…ヨナ?」
出動した先、たまたまその様子を発見してしまったライラは、愕然とした様子で立ち尽くす。
危うく命中しかけた光弾から魔女の子を庇ったヨナは、完全に彼女を敵視するような眼差しで視線を返す。
即座に戦闘に移行するつもりだったライラは、全く想定していなかった事態に思考が止まっていた。
「…ヨナ。何、を、してるの?」
言葉を選ぼうとしても、たった今自分が友達に攻撃を加えてしまったことが信じられなくて、謝罪の言葉も、糾弾もできないでいる。
「その子は」
聞こうとした矢先、ヨナの視線がより鋭くなる。
怖くなって言葉を呑む。
違う、襲うつもりなんか無い。
その言葉が出てこなくて、ただ狼狽しきって視線が泳ぐ。
抱えられた子供が、不安そうにヨナの腕を掴んでいる。
―――私、ちゃんと聞くよ。今言いかけたこと、教えてよ。
いつか聞こうとした悩み。
ヨナの抱えていた悩みがそれだったとしたら、今の行いは裏切りに他ならない。
自分が龍騎士であることを捨てて、彼女の味方につくことが友達としての正解だとわかっていながら、ライラは竦んで動くことができない。
「命令。動くな。喋るな、振り向くな。思考を止めろ、僕を認識するな」
ライラの後ろに立つのは、この状況を望んでいた男。
街の医師の仮面を被った全ての黒幕。
ライラが一時的に意識を失っているのを確認して、彼は前に出る。
「ロベリア、こんにちは。今日も元気?」
「…私は元気だけど、でも」
ロベリアはヨナに視線を送って、彼女の焼け焦げた背中を心配する様子を見せる。
ガランサスは見透かしたように笑って告げる。
「助けてあげるよ」
「どうやって?」
「ここから逃がしてあげる」
ヨナからの冷たい視線を気にも留めず、彼は魔術の円陣を流れるように描いた。
それ自体が魔法であるかのように、一瞬で。
「お家に帰りたいんだろう」
「うん」
「送り届けてあげるよ」
本当に、とロベリアが声を漏らす。
「すぐに辿り着けるよ。でも、その前にひとつ、僕と約束をして欲しい」
「約束?」
「ああ、簡単だ。君も、君の大事なお母さんも。この街で出会ったお友達のことを、全て忘れるんだ。僕の事も含めて、ね」
ロベリアは、理解できていないその約束に対して、何も考えないで首を縦に振る。
それを承諾と看做して彼は笑う。
「いい子だね。それじゃあ、目を閉じて」
「…」
黙って聞いているヨナに、彼はまた笑顔で視線を送る。
立ち上がって、居住まいを正す。
二人を見下ろして、筆記具のような何かを小さく振る。
「幸せに」
彼がそう挨拶をした後。
二人の姿は、転移魔術の光に呑まれて消えた。
音も無く、誰も知らぬ間に姿を消す。
満足したように、彼は背中を向ける。
「この数千年で一番の賭け事だ。不確定な未来を待つのも、偶には面白い」
ガランサスは、今までで一番の腐りきった笑顔を一瞬だけ見せてその場を去った。
それは、計算高い彼が行った唯一の遊びであり、この先起きる数少ない不確定要素の要因。
ライラが気がついた頃には、目の前には誰の姿も見えなくなっていた。
ただ、友達を傷つけて、狼狽えたままで何も出来なかった記憶だけが残って。
最初に駆け付けたジルコに事実を話すことを躊躇った彼女もまた、これから先、ガランサスの術中に嵌る道を歩み始めていた。
◇ ◆ ◇
気付けば、二人は最初に出会った地に辿り着いていた。
何があったかは、すっかり忘れて。
最早記憶の不整合に違和感すら覚えず、どこかに出かけていたのだろうと簡単に割り切って、二人にとっての最初の家へと歩みを進めた。
「私の家、私の家」
ロベリアはいつもの感情の分からない顔と声色のまま、身振りだけで喜びを表しながら跳ねるようにその小屋へ駆け寄っていく。
「そうだね、ただいまだね」
その背中を目で追いながら、ヨナはただ張り付けたような笑顔でそう言葉を投げた。
扉の持ち手は雨風でぼろぼろになっていて、ロベリアはそれを上手く開けられずに引っ掻くように扉に触れる。
後ろから、助けるようにヨナが持ち手に手をかけ、小さな軋む音と共にその戸を手前に引いて見せた。
部屋の物が無くなっていないか確かめるように中を歩き回った後、ロベリアは中央のテーブルの脇に置かれた椅子に小さく座る。
「私の家だわ」
先ほども繰り返し発したその言葉を、また確かめるように口に出す。
「ロビィ、お腹が減ったでしょう」
「うん」
「少し、向こうで分けてもらってくるから。少し待っていて」
「わかった」
ロベリアは素直に座ったまま頷いて、また小屋から出て行くヨナの姿をただ静かに見送った。
呼んでもいないのに現れた騎士団の女性を見て、村の人々が驚いたのは言うまでもなく。
初めて来た時と同じように、また食べ物を分けてくれという彼女は、偵察や調査のためではなく、「子供が待っているから」とはっきり告げて、彼らへ笑いかけた。
気色悪いものを見るように彼女を睨みつける村人。
ただ、そこで彼らは何も追求することは無く、素直に少量の食糧を籠に投げ込むと、それを無造作に彼女へ手渡した。
何事もなく小屋へ戻った彼女は、その籠の中身を全てロベリアへ分け与える。
自身は何も口にすることなく、ただロベリアが固いパンや少し痛んだ野菜を口に頬張って食べ続ける様を眺めた。
「美味しい?」
「むぐ」
口の中をいっぱいにしたままで、ロベリアは頷く。
その様を見て、ヨナはまた嬉しそうに笑顔を浮かべてロベリアの頭を撫でた。
「また沢山持ってきてあげるからね」
「ん」
ロベリアは大きな反応はしない。
ただ、彼女が隣にいるのが当然というように澄ましきった面持ちで、何の疑いも無くその食料を平らげるまで口に放り込み続けた。
強い雨が降り始める音が聞こえる。
古くなった屋根が、不安になるような音を立てる。
そのうち、身体を動かし足りなくなったロベリアは窓の外へとひたすら視線を向けるようになって。
最後には雨に濡れることも気にかけずに、玄関の扉を開け放して外へ駆け出してしまった。
無性に楽しくなって糸が切れたように笑いだしたロベリアは、大雨の中で後を着いてくるヨナの手を掴んで、小屋の中へ戻る事もなくそこら中を走り回る。
ずぶ濡れのままで、ヨナは呆けた顔でロベリアの顔を見ている。
彼女は時折立ち止まっては、「楽しいね」と目で訴えかけてはまた走り出す。
その姿に釣られて、次第にヨナまでなんだか可笑しくなって笑い始めた。
急に抱きしめられたロベリアは、嬉しそうにヨナの肩に掴まって、そのまま一緒になって地面に転げた。
二人で揃って泥まみれの地面に転がって、抑えきれなくなった衝動に任せて笑い声を上げる。
彼女を抱き起こしながら体を起こしたヨナは、ロベリアを自身の膝を跨ぐように座らせると、乱れた髪を掻きわけるようにしてその頬に触れる。
「なんだろうね、楽しいね」
「うん」
吹っ切れたように、ただ満面の笑みだけをお互いへ向ける。
そのままで、ただ雨の音を聞きながら、しばらくの時間を過ごした。
「―――ねえ。ロビィは、大人になったら何がしたい?」
「わかんない」
そっか、とヨナは吹き出すように笑う。
「私はね、ロビィとずっと一緒にいたいよ」
「あ、わたしも。ヨナとずっといっしょがいい」
「じゃあ、おんなじだね」
そう笑いかけて。
「大好きだよ、ロビィ」
掻き分けた額に、そのまま唇を付けた。
応えるように、ロベリアも口を開く。
「わたしも、ヨナが
頭蓋が割れる音がして。
ロベリアの姿はヨナの視界から消えた。
耳鳴りと雨の音だけが彼女の意識を奪った。
理解してはいけない。
今、何が起こったのかを考えてはいけない。
考えたら、きっと自分は壊れてしまう、と彼女は思考を止めた。
視界に映る誰かが持っている鍬が、振り抜かれた凶器が赤く染っているのを理解してはいけない。
自身の背中から胸にかけて、何かが貫かれる。
鉄製の農具が、自分の胸元から突き出すように生えている。
勢いよくそれを引き抜かれた後、彼女は受け身ひとつ取らずに丘陵を転がり落ちて、力なく横たわった。
丘の上で、男たちが言い争っている声が聞こえる。
朦朧とした目で見上げると、二人は掴み合いながら怒声を上げ、一人は一心不乱に農具を振り下ろして何かを耕していた。
―――そんなところに、畑なんか、無い。
彼女は薄れる意識の中で、ただ、それだけ頭に浮かべて。
「―――馬鹿野郎が!なぜ騎士団の女にまで手を出した!」
「あいつは魔女の呪いを受けてた!もう手遅れだったんだ、反撃される前に殺すしかなかった!」
「すぐにバレるぞ、騎士団殺しなんてどんな罰を受けるかわからない!俺は何も見ていないからな、全部お前が責任を取れよ!」
二人の男は額をぶつけ合う程に顔を近づけ、激昂して大声を浴びせ合う。
「おい、油断するなよ!頭を砕いても魔女は死なねぇって噂だろ、徹底的に壊さねぇと駄目だ、ちょっとはこっちにも気を―――」
農具を振り下ろしていた、もう一人の男の頭が飛ぶ。
「―――」
たった今まで罵り合っていた二人の男は、途端に悲鳴を上げて腰を抜かし、這うように逃げ出した。
ヨナはそれを追いかけるわけでもなく、ただその後ろ姿を光の無い目で見送る。
たった今頭を吹き飛ばした男の死体を丘から蹴り落として、足元に見える子供の亡骸に目を落とす。
何度も凶器を振り下ろされた彼女の肉体は原型を留めない程に崩れ、その内臓は辺りに散らばって赤黒い斑点を作った。
「…」
心臓は、まだ動いていた。
頭蓋は割れ、骨は砕け、肺を潰されても尚、心臓だけは再生し、意味もなく脈動を続けていた。
「ロビィ」
雨の音が五月蠅い。
呼びかけに答えないその亡骸の傍らに座り込んで、息の無いその顔を覗き込む。
雨に冷やされて、その肌は生気を失い、千切れた兎の耳は張り付くように地面に落ちる。
時間も分からないような曇り空の下、ただひたすらそうして亡骸を見つめ続けて。
その視線は、次第に、永遠に脈動し続ける心臓に釘付けになった。
「…」
静かに息を吐いて。
自身の胸元、心臓から滴る血も止まった頃、彼女はもう思考するだけの力も失い、ただ目の前の衝動だけに突き動かされて口を開いた。
何故だか唾液が垂れる。
「ずっと、一緒」
彼女は、目の前の血の塊を拾い上げて。
自身を空想の幸せへと導くための毒を、一人静かに口へと運んだ。
それは、幸せな、幸せな猛毒だった。




