満開
そこには煌びやかな衣裳をまとった、化粧の濃い女達が四、五人集まっていた。
彼女達は境内の桜の木の精霊達で、事あるごとに真子に突っかかって来る。
日本では古来、花と言えば梅の事を指した。しかし時代が移ろい、今では花といえば桜を指す言葉となり、国を代表する国花としても定められている。
だが、菅原道真にまつわる事のみ未だに花といえば梅を指す。
桜に縁のある者は菅原の者に対してあまり良い感情を持っていない。しかし怨霊として名高い道真に楯突けば何が起こるか分かったものではない。その為、道真ではなく何の力も無い真子を見掛ける度に突っかかって来るのだ。
表向きは菅原道真の娘。たかが桜の精霊ごときが嫌味を言える様な相手ではないのだが、真子は人間だ。本人にもその引け目があるのと、父親に自分が陰でいじめられているなど惨めで言えなかった。
「ご無沙汰しております」
できるだけ粗相のない様に細心の注意を払って挨拶をする。
真子が手に持っている招待状を見た女達は鼻で笑った。
「ああ、もう梅の季節やなぁ。季節も花も辛気くさいさかい気ぃつかんかったわ」
投げられる言葉に曖昧に笑う。
真子がへらへらと笑って反応を返さない事がまた面白くない様で軽く眉を寄せて再び口を開いた。
「そういえば雷神様と結婚するとかせぇへんとか」
精霊の言葉に真子は思わず顔を顰めてしまった。
自分の心が定まっていない今、微妙な状況の話題に悪意のある者に口出しして欲しく無かった。
真子の嫌がる表情を敏感に感じ取った精霊達はここぞとばかりにこの話題を畳み掛ける。
「神に拾われたからというて人の卑しい身で神になれるとでも思うたのかえ」
「身の程知らずにも程がありますわ」
くすくすと嘲笑する声がひどく耳に刺さる。
精霊達の気に障らない様にへらへらと笑って誤魔化すが、内心は吐きそうだった。
自分が神でも人でもない中途半端な存在だということは真子が一番よく理解している。
例えこのまま道真の元に残っても、他の神の元へ嫁いだとしても、真子は神にはなれない。今と同じ、神の眷属という括りのままだ。
人になる事も出来ず神になることも出来ず、一生孤独に生きて行かなければならない。
こんなにも生命が溢れている世界で、真子はどこまでも一人だ。
実の親に置き去りにされた時からそれは抗うことでは無かった運命だろう。分かっていたことではあるが、悪意を持って他人に言われるとやはり堪えた。
上手に笑えていないことは承知の上で曖昧な笑顔を浮かべていたら、ふわりと嗅いだ事のある香りが鼻孔をかすめる。
梅の香りだ。
どこから香っているのかと思って反射的に振り返った瞬間、誰かに強く抱き寄せられた。
驚いて声を上げそうになった刹那、物凄い衝撃が地面と空気を震わせ思わず飛び上がる。
抱き寄せられた時に耳を塞いでくれていたお陰で幾分かはマシだったが、それでも体に伝わる衝撃は相当だ。
真子が呆然と立ち尽くしていると、耳を塞いでいた手が解かれた。恐る恐る手の主を見上げると、見た事も無い厳しい表情をした光高だった。
ということは先程の凄まじい衝撃は雷だったのかと思い当たり、真子は一気に青ざめる。
精霊達は腰を抜かして地面に倒れ込んでいる。
「恥を知るのはそなた達の方であろう」
地を這う様な低い声に真子は震え上がった。
「無礼者共が。この者は我が妻となる者ぞ。彼女への言葉は私への言葉と受け取るがよろしいか」
凍てつく様な眼差しで精霊達を見据える光高。何故か真子の記憶の中でこの一連の光景に重なる記憶がある。
「ひっ!た、大変失礼いたしまいした!」
精霊達は震え上がり、必死に頭を下げる。
静かな声で淡々と喋るだけだが、先程の雷を伴った荒々し過ぎる登場の印象の差が余計に恐ろしい。
「そなた達の言動は主君が責任が取る事を、ゆめゆめ忘れるな」
「はいっ……!!」
真子が呆然としていると、光高が真子の肩に手を回して引き寄せる。
「行こう」
道真から頼まれた宴の招待状はまだ渡せていないが仕切り直した方が良さそうだと思い、真子は素直に光高の言葉に従った。
須佐之男命の神域を出ると、光高は真子からそっと手を離した。
真子は光高から少し距離を取って深々と頭を下げる。長い髪が肩からはらはらと滑り落ちた。
「光高様の御手を煩わせてしまって大変申し訳ありませんでした」
「いや、」
「ですが、私はまだ貴方と結婚するとは一言も言っておりません」
すっと顔を上げて真子が光高を見つめ、真っ直ぐ言い放つと光高は苦笑を浮かべた。
「流石天神様のご息女。手厳しいな」
「結婚するか否かをこんなどさくさに紛れて決めたくありません」
「それはそうだ」
苦笑を浮かべる光高を真子はじっと見上げる。
「光高様は梅の香かお菓子をお持ちなのでしょうか」
突然の真子の問いに光高が目を丸くさせ、くすりと笑みを浮かべた。そして自分の懐に手を伸ばす。
「君の喜ぶ顔が見たくてね。都で一番最初に咲いた梅を探していたんだ」
光高の懐から出て来たのは懐紙に包まれた梅の枝だ。数輪の花が花開いている。
梅の枝が出て来た瞬間、より一層強く花の香りが漂う。
その刹那、記憶が鮮やかに蘇った。
真子が幼い頃、光高が誤って真子の近くに雷を落としたと思っていた。
しかし、そうでは無かった。
あの日真子は早く梅の花が見たくて道真の神域を出てしまった。
子供は妖にとって極上の餌だ。それに真子は神に育てられた為普通の子供よりも霊力が強い。神域の外は幼い真子にとって猛獣の檻にも等しい。
梅の花を探していた真子に声を掛けて来たのは今思えば女の姿をした妖怪だった。
梅の花が咲いている場所に連れて行ってあげる、と言われ、真子が女の手を取ろうとした瞬間、間近の木に雷が落ちたのだ。
『その子に手を出すな……!!』
光高が駆けつけたお陰で最悪の事態は免れたが、幼い真子は初めて見る光高の激高した姿と雷の衝撃に驚いて大泣きしたのだ。
幼心に「怖かった」という印象ばかりが残ってしまったのだろう。
「俺は君の笑った顔が好きだった。笑いかけられると、ここに居て良いのだと、勝手に赦された気がしていた」
雷は雨を伴う豊作の兆しとして扱われるが、大きな音と衝撃に怖がる人も多い。
「私は君の笑顔をもう一度自分に向けて欲しかった。そして、自分だけのものにしたくて堪らなかった。だが、君は人だ。本能に近い感情に畏れしか感じない」
かつてそれを目の当たりにした真子も光高を拒絶した。
「それでも俺は、君が欲しい」
神は身勝手な生き物だ。それが許されている。
しかし、光高がそれをせずに道真に伺いを立て、真子の意向を汲もうとしているのは人である真子を愛してしまったが故だ。どれだけ姿形が似ていても、神と人は異なる存在。神の道理は人である真子に強要することはできても通用はしない。
人の真子を本当の意味で欲しがるならば人の道理に倣うしか道は無い。
目下の者に膝をつく行為に等しい行為。誇り高い神には考えられないだろう。だが、それをも辞さぬ強い欲求があるのだ。
それを理解した瞬間、真子の中で言い知れぬ感情が火を灯した。
「……光高様は私に春の魁を見せて下さいました」
梅の花が落ちない様、真子は枝を胸に抱える。
「僭越ながら、今度は私が光高様の春の魁となりましょう」
梅は春の花の中で一番初めに咲いて春の訪れを知らせる為、春の魁(先駆け)と呼ばれる。
真子は回りくどい言い回しを少し早口で言い切った。
真子の言葉に光高は目を丸くさせ、やがて金の瞳を嬉しそうに細め、花の蕾が綻ぶ様に笑った。
「ありがとう」
あまりの美しい笑顔に真子は顔を真っ赤にさせて俯いた。
そして今年の天神の梅花の宴は光高と真子の華燭の典を挙げることとなった。
これにて完結です。お付き合い下さった皆様、ありがとうございました。