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婚約破棄のどさくさで義息子ごと追い出されましたが、この子を返す気はございませんので   作者: 九葉(くずは)


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第5話 返しません

 公爵家の紋章が、村の入口で陽を弾いた。


 鷲と剣。金箔の意匠。見間違えるはずがない。三年間、毎日見ていた紋章だ。


 私の心臓は、あの紋章を見るだけで縮み上がる。


 馬車が止まった。御者が扉を開ける。降りてきたのは──ディルクではなかった。フローラでもない。


 四十がらみの男。黒い外套。背筋の伸びた、隙のない立ち姿。


 カスパル。公爵家の執事だ。


「リネット殿。お久しぶりでございます」


 慇懃な一礼。その手に、封蝋の押された文書が一通。


「太夫人の命により、若君をお迎えに参りました」


 ……来た。


 グスタフが診療所の裏手から、こちらを窺っているのが視界の端に見えた。駆け寄ろうとするのを、私は小さく首を振って止めた。


「文書を拝見します」


 震えるな。声を、手を、震えさせるな。


 封を切った。文面を読む。「レーヴェンハルト公爵家嫡子ルカの即時帰還を命ずる」。太夫人フローラの署名と、公爵家の紋章印。


 ……紋章印はある。


 けれど。


「カスパル殿。一つ確認させてください」


「何でしょう」


「この文書には、公爵閣下の署名がございませんね」


 カスパルの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。


「太夫人の命であれば──」


「太夫人には嫡子の移送を命じる権限がないはずです」


 婚姻契約書。父が「万一のために」と渡してくれた、あの薄い紙の束。あの中に書いてあった。公爵家の嫡子の身柄に関する決定権は、当主にのみ帰属する。太夫人は家政の管理者であって、嫡子の法的な移動を命じる権限を持たない。


「公爵家の嫡子に関する決定は、当主──つまり公爵閣下ご本人の署名がなければ、法的な効力を持ちません。これは婚姻契約書にも明記されている事項です」


 カスパルが一歩、後ずさった。


 ……知っていたのだ、この人は。この文書に不備があることを。太夫人に言われるまま持ってきたけれど、法的には通らないことを、おそらくわかっていた。


「リネット殿。太夫人は──」


「お母さん!」


 声がした。


 ルカだった。診療所の裏手から走ってきて、私の足にしがみついた。カスパルの姿を見た瞬間、ルカの体がびくりと強張った。


「……カスパル」


 ルカが私の上着の裾をきゅっと掴んだ。小さな指が白くなるほど。


「若君。お元気そうで──」


 カスパルが一歩踏み出した。その瞬間、ルカが私の後ろに隠れた。


「いや。帰らない」


「若君──」


「お母さんのそばがいい。帰らない!」


 しゃくりあげながら、ルカが叫んだ。


 私はしゃがんで、ルカを抱きしめた。小さな体が震えている。でも──この子は軽くない。公爵邸にいた頃より、確実に重くなっている。ちゃんと食べて、ちゃんと走って、ちゃんと大きくなっている。


「大丈夫。どこにもかせないわ」


 ルカの背中をさすった。しゃくりあげが少しずつ小さくなる。


 カスパルは、動けなくなっていた。


 彼の目が、ルカの全身を見ていた。走ってきたルカ。叫んだルカ。頬に血の色がある。公爵邸では、あの子はいつも車椅子か寝台の上にいた。廊下を走ることなど、一度もなかった。


「……この子は今、健やかに暮らしております」


 立ち上がって、カスパルに向き直った。


「お引き取りください」


 静かに、はっきりと。


 カスパルは何かを言いかけた。口を開いて、閉じた。もう一度開いて、閉じた。


「……承知いたしました」


 一礼。深い、長い一礼だった。



 カスパルが馬車に戻っていく。背中が遠ざかる。


 馬車に乗り込む直前、カスパルが振り返った。


 こちらを見た。いや──ルカを見ていた。


 私の腕の中で泣き止んだルカが、顔を上げて、カスパルのほうをじっと見ている。涙の跡が残った頬。でも、もう泣いていない。


 カスパルの唇が動いた。


 距離がありすぎて、声は聞こえない。でも口の形は読めた気がした。


(若君は……あんなに元気に走れる子だったのか)


 そう言ったように、見えた。


 馬車が動き出した。公爵家の紋章が、冬の陽に一度だけ光って、街道の向こうに消えていった。



 ルカが、私の手を握ったまま離さなかった。


「もう来ない?」


「……わからないわ」


 嘘はつかない。この子には、いつだって本当のことを言う。


「でも、来ても同じよ。私はルカをどこにも渡さない」


 ルカがこくりと頷いた。


 夕暮れの風が吹いて、診療所の看板が軋んだ。グスタフが遠巻きにこちらを見ていて、私が頷くと、ようやく肩の力を抜いたように踵を返した。


 マルタが温かいスープを持ってきてくれた。「あんた、顔色が悪いよ」と言われて、初めて自分の手が震えていたことに気づいた。


(……怖かった)


 法的な根拠がどうとか、権限がどうとか、頭では理解していた。でも、あの紋章を見た瞬間、体は正直だった。取り上げられるかもしれない。この子を、また奪われるかもしれない。


 ルカがスープを飲みながら、上目遣いにこちらを見た。


「お母さん、強かった」


「……そうかしら」


「うん。すっごく強かった」


(──全然。膝が笑ってたわよ)


 それは言わないでおいた。


 胸元の記録の写しに、そっと触れた。半年分の記録。婚姻契約書の控え。この薄い紙の束だけが、今の私の武器だ。


 でも──今日は、武器がなくてもルカが自分で選んだ。


 この子の「帰らない」が、どんな文書より強かった。


 それが今日の、一番大きな勝ちだ。

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