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婚約破棄のどさくさで義息子ごと追い出されましたが、この子を返す気はございませんので   作者: 九葉(くずは)


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第4話 小さな診療所

 石鹸の匂いがする部屋。


 前世では当たり前だったそれが、この世界では贅沢品だとようやく実感した。


 廃屋の壁を塗り直し、床板を磨き、棚を作った。グスタフが余っていた板を持ってきてくれて、マルタが古い布を煮沸して清潔な包帯に仕立ててくれた。薬草の瓶を並べて、記録帳を置いて、窓を拭いた。


 診療所。


 と呼ぶには小さすぎるかもしれない。部屋は一つ。寝台が一つ。薬草の棚が一つ。でも床は清潔で、布は煮沸消毒してあって、手を洗うための水桶が入口に置いてある。


(前世の病院なら笑われる設備だけど)


 ないものを数えても仕方がない。あるもので、できることをやる。


「お母さん、開けていい?」


 ルカが扉に手をかけて、目を輝かせている。


「どうぞ」


 扉が開いた。冬の朝の冷たい空気が流れ込む。


 ──患者は、来ない。


 当たり前だ。こんな辺境の廃村に診療所があるなんて、誰も知らない。


 三日目も、来ない。五日目も。ルカが毎朝扉を開けて、首を傾げて、「今日もお休みだね」と言う。


(……焦るな。前世の病院だって、開業初日から満床じゃなかった)


 いや、比べるものが違いすぎる。



 最初の患者が来たのは、七日目の昼だった。


「すまねえ、ここに薬師がいるって聞いたんだが」


 行商人だった。荷車の横で足を引きずっている。右足首が腫れ上がっていた。


「どうぞ、中へ。──ルカ、水桶をお願い」


「はい!」


 ルカが水桶を抱えて走る。行商人が目を丸くした。


「……こんな子どもが?」


「私の一番の助手です」


 足首を診る。腫れ方、熱の持ち方、可動域。前世で何百回と見た捻挫の所見。骨は折れていない。靱帯を伸ばしている。


 冷水で患部を冷やし、薬草の湿布を当てて、固定した。


「二、三日は荷を担がないでください。湿布は朝晩替えて」


「あんた、手際がいいな……本職か?」


「少し齧っただけです」


 同じ台詞ばかり言っている気がする。


 行商人は翌日も来た。腫れが引き始めていて、「効くもんだなあ」と感心して帰っていった。


 その行商人が、次の村で何を言ったのか。


 十日後には、隣村の農婦が腰痛で訪ねてきた。その次は、木こりの切り傷。その次は、子どもの熱。


 患者が、来る。



 ルカは「助手」の仕事に夢中だった。


 包帯を巻く練習を何度もして、薬草の種類を一つずつ覚えて、患者が来ると水桶を用意して走り回る。


「お母さん、これは白蘇でしょ。こっちは蜂蜜草」


「正解。よく覚えたわね」


「ルカ、お母さんの一番の助手だもん」


 胸を張った顔が誇らしげで、思わず頭を撫でた。


 この子は公爵邸にいた頃、こんな顔をしなかった。いつも咳をして、いつも青白くて、いつも部屋の隅で小さくなっていた。


 今は走る。笑う。薬草の名前を覚える。「助手」という役割が嬉しくて、毎朝早起きして診療所の掃除をしている。


(……この子を連れてきて、よかった)


 そう思えることが、何より嬉しかった。



 冬が来た。


 容赦がなかった。風が冷たいとか、雪が降るとか、そういう穏やかな話ではない。水桶の水が一晩で凍る。薬草園の地面がカチカチに硬くなる。薪が足りない。


「このままでは冬を越せんぞ」


 グスタフが腕を組んで言った。


 わかっている。食料の蓄えは心もとないし、薪は計算上あと半月分。ルカの防寒着も薄い。


(ルカを連れてきたことは、本当に正しかったのか──)


 一瞬だけ、その考えが頭をよぎった。公爵邸にいれば、少なくとも寒さに震えることはなかった。


 ……いや。あの家にいたら、ルカは走れなかった。笑えなかった。あの処方を飲まされ続けて、ずっと咳をして、ずっと青白い顔をしていた。


 頭を振った。


「なんとかします」


「なんとか、って……」


「薬草の湿布、近隣の村でも評判なんですよね。物々交換ができないか、行商人に聞いてみます」


 グスタフが怪訝な顔をしたが、翌週、例の足首の行商人が荷車いっぱいの薪と干し肉を持ってきた。


「先生のおかげで商売に戻れたからな。これは礼だ。──それと、隣の村の鍛冶屋が背中を痛めてるんだが、診てやってくれないか。薪を二束持たせるって言ってた」


 ……現物支給の仕組みが、できた。


 患者は薬草と手当てを受け、代わりに食料や薪や布を置いていく。金貨のやり取りはない。でも、回っている。小さな経済が、この廃村で回り始めている。


(前世の病院の会計とは、だいぶ違うけど)


 笑いがこぼれた。こぼれたついでに、ルカの頭をもう一度撫でた。



 ある晴れた午後。ルカが診療所の裏手で何かをしていた。


「ルカ、何をしているの」


「ないしょ」


 しばらくして、ルカが両手を後ろに隠したまま戻ってきた。


「お母さん、しゃがんで」


 しゃがむと、頭の上に何かを乗せられた。軽い。草の匂いがする。


「はい。花冠」


 冬枯れの野で見つけたのだろう。小さな白い花と、枯れかけの蔓を器用に編んである。花弁はしおれかけていて、蔓は少し歪んでいた。


「お母さん、きれいだよ」


 ……反則だ。


「ありがとう、ルカ」


 声が裏返りそうになるのを堪えた。この子に泣き顔ばかり見せるわけにはいかない。


「お母さん、笑って」


「笑ってるわ」


「うそ。泣きそうな顔してる」


(……この子は、どうしてこんなに鋭いんだろう)


 花冠を直して、立ち上がった。頭の上の、軽くて不恰好な王冠。公爵邸のどんな宝飾品より、ずっと重くて温かい。



 その日の夕方だった。


 グスタフが診療所に飛び込んできた。珍しく息を切らしている。


「リネット。街道に馬車が来ている」


「馬車? 患者さんですか」


「違う。──公爵家の紋章が入った馬車だ」


 手が止まった。


 花冠が、頭の上で揺れた。


 公爵家。あの紋章。鷲と剣の意匠。


「……こちらに向かっているんですか」


「今は街道を通り過ぎただけだ。だが、この辺りに用がある人間が乗っているとしたら──」


 グスタフは言葉を切った。


 窓の外で、ルカが薬草の仕分けをしている。鼻歌を歌っている。花冠はもうルカの頭に移っていて、白い花弁が風に揺れていた。


(……来る)


 何が来るのかはわからない。誰が乗っているのかもわからない。


 でも──あの紋章は、私たちをこの場所まで追いやった家の紋章だ。


 胸元に手を当てた。記録の写しの感触。婚姻契約書の控え。父が「万一のために」と渡してくれた、薄い紙の束。


 ルカの鼻歌が聞こえる。この子を、渡すものか。


 冬の風が、診療所の扉を揺らした。

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