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婚約破棄のどさくさで義息子ごと追い出されましたが、この子を返す気はございませんので   作者: 九葉(くずは)


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第3話 咳が止まった朝

 夜が怖い。


 この子の咳が止まらない夜が、何より怖い。


 廃村に来て一ヶ月。水車は回り、井戸の水は細いながらも使えるようになり、グスタフとマルタのおかげで屋根の雨漏りも塞がった。暮らしの形は、少しずつ整い始めている。


 それなのに、ルカの咳だけが止まらない。


 夜になると始まる。小さな胸を揺らして、けほ、けほ、と。苦しそうに眉を寄せて、それでも泣かない。この子は泣かない子だ。公爵邸にいた頃から、苦しくても泣かなかった。


(……前世の知識だけで、本当にこの子を治せるのか)


 油灯の薄明かりの中、私は記録の写しを広げた。半年分の処方の記録。侍医ヴェルナーが毎週出していた薬の配合。


 この世界の薬草は、前世の薬と一対一では対応しない。名前も違えば、効能の出方も違う。けれど「何かがおかしい」という直感だけは、ずっと消えなかった。


 銀花草。


 記録のどの週にも、この名前がある。単独では気管支の炎症を鎮める薬草だと、マルタに教わった。けれど──半年間、毎週?


(前世で習った。薬は量と期間で毒になる)


 消去法だ。確証はない。けれど、怪しいものを一つずつ消していくしかない。


 銀花草を、除外する。


 代わりに、山の斜面で見つけた白蘇の葉と、川沿いに自生していた蜂蜜草を煎じた。前世の知識では、去痰と気管支の緩和に近い効能を持つはずの組み合わせ。


 ──はず。


 「はず」で子どもに薬を飲ませる恐怖を、私は知っている。前世の病棟で何度も感じた恐怖だ。でもあの時は、医師がいた。薬剤師がいた。ダブルチェックの仕組みがあった。


 今は、私しかいない。



 三日目。変化なし。


 七日目。咳の回数が、ほんの少し減った気がする。気のせいかもしれない。


 十四日目。夜中に起きる回数が、三回から二回に減った。これは、気のせいじゃない。


 二十一日目──。



 朝だった。


 目が覚めたのは、鳥の声だった。窓の隙間から差し込む秋の終わりの陽射し。隣を見る。


 ルカが眠っていた。


 静かに。穏やかに。胸が上下する以外、何の音もなく。


 ……咳を、していない。


 一晩中。


 私は体を起こした。ルカの額に手を当てた。熱はない。呼吸は穏やか。顔色が──いつもの青白さではなく、ほんのりと、血の色が通っている。


「……ルカ」


 声が震えた。


 ルカが目を開けた。灰色の瞳が私を見上げて、ゆっくりと瞬きをした。


「お母さん、おはよう」


「おはよう。……ルカ、今日、体の調子はどう?」


 ルカが首を傾げた。それから、毛布を跳ね除けて立ち上がった。


 走り出した。


 仮住まいの扉を開けて、朝の庭に飛び出した。素足のまま、草の上を駆けていく。転びそうになって、笑って、また走る。


「お母さん! 風がきもちいい!」


 ……泣いた。


 堪えようとした。堪えられなかった。膝の上に顔を埋めて、声を殺して泣いた。看護師は子どもの前で泣かない、って決めていたのに。


「お母さん、どうして泣いてるの?」


 ルカが戻ってきて、私の顔を覗き込んだ。土のついた小さな手が、私の頬に触れる。


「嬉しいの」


「嬉しいのに泣くの?」


「……うん。嬉しすぎると、泣いちゃうの」


 ルカが不思議そうな顔をして、それから笑った。


「変なの」


 ──変よね。私も、そう思う。



 午後。薬草園の手入れをしていると、ルカが花を摘みながらぽつりと言った。


「父上ね、夜にお母さんの薬草園を見に来てたんだよ」


 手が止まった。


「……何ですって?」


「お屋敷にいたとき。ルカ、夜に咳で目が覚めるでしょ。そしたらね、窓の外に父上がいたの。お庭の薬草のところ」


 公爵邸の薬草園。私が勝手に使わせてもらっていた、中庭の片隅のあの場所。


「……父上が? 夜に?」


「うん。何回も。ルカが声をかけようとしたら、もういなくなっちゃうんだけど」


(……監視していたのね)


 苦い笑いが浮かんだ。あの人は、薬草園を弄くる後妻が何をしているか、見張っていたのだろう。そしてフローラに報告していたのかもしれない。


(──いや、考えるのはやめよう。もう関係ない)


「ルカ、今はお花を摘むのに集中しなさいね」


「はーい」


 ルカが駆けていった。走れる。この子が、走れている。


 夕方、マルタが薬草の乾燥を手伝いに来た。


「ルカ坊、今日は随分元気じゃないか」


「ええ。昨夜、一度も咳をしなかったんです」


「へえ……」


 マルタが私をじっと見た。


「あんた、本当に薬師なのかい?」


「少し齧っただけです」


「齧っただけの人間が、あの子を治すかね」


 意味深な微笑み。返す言葉が見つからなくて、薬草の葉を紐で束ねる作業に逃げた。


(薬師じゃない。看護師だ。……だった)


 前世では。この世界では、何者でもない。公爵家を追い出された、ただの女。


 でも──ルカの咳が止まった。それだけが、今は確かなこと。



 日が落ちた頃、グスタフが行商人から届いた荷物を持ってきた。食料と布。それと──手紙が一通。


 見覚えのある筆跡だった。公爵邸にいた頃、ルカの症状について何度か手紙でやり取りをした辺境巡回医師、ハインツ先生。行商人経由で、ここまで届いたらしい。


 封を切る。



 ──リネット殿


 先の手紙で記された銀花草の継続投与について、確認したい点があります。

 銀花草は単独では去痰薬として有効ですが、小児に対する長期投与は気管支への慢性的な負荷を伴います。

 半年にわたり毎週の投与を続けたという処方に、私は強い違和感を覚えました。

 率直に申し上げます。


 私の見解では、あれは治療ではない。


 詳しい記録をお持ちでしたら、ぜひ一度お見せいただきたい。

 辺境を巡回している折、そちらへ参る機会が作れるかもしれません。


             ハインツ・メルツ──



 手紙を読み終えて、しばらく動けなかった。


 「あれは治療ではない」。


 専門家が、同じ結論に達している。


 私は胸元から記録の写しを引き出した。半年分の、ルカの症状と処方の記録。あの侍医が毎週書いていた処方箋の内容を、私が毎晩書き写したもの。


(……やっぱり、おかしかったんだ)


 銀花草の除外でルカの咳が止まった。それは事実だ。ハインツ先生は「長期投与は治療ではない」と言っている。


 ──なぜ、侍医はそれを続けたのか。


 判断ミスか。それとも。


 答えはまだ出ない。でも記録はある。半年分の記録が、ここにある。


 ルカの寝息が聞こえた。穏やかな呼吸。咳のない、静かな夜。


 この子の咳を止められた。公爵家の名医にできなかったことが、私にはできた。


(──これは、私の力だ)


 誰に認めてもらわなくてもいい。この子が走れるようになった。笑えるようになった。それだけで。


 手紙を丁寧に折りたたんで、記録の写しと一緒に胸元にしまった。


 窓の外で、秋の虫が鳴いている。もうすぐ冬が来る。


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