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悲観令嬢と癒しの小人とマイペースな猫のひととき  作者: 松原水仙


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15/19

15.流れ星への願い事は

マデリンからの招待状はすぐに届いた。丁寧に書かれた文字に、上品な香りが添えられ、人柄を表しているかのようだった。返事は勿論、「喜んで参加させていただきます」。今までになく胸が高揚している。

初めて自分の人生が動き始めた気がした。(幻の一回目は胸に仕舞いこんだ。)


「クララ。今度の水曜日なんだけど、どこかお出かけしない?」


朝食のテーブルには、ゴロっと野菜のスープ、茸のキッシュ、バゲット、白カビのチーズ、血合い入りのソーセージ、ベーコン、フルーツがずらりと並んでいる。

クララがバゲットを千切る手を止めた。


「ごめんなさい、ビクター。その日はマデリン様のお屋敷に伺うことになっていて」

「え、フェラー公爵夫人?」


ビクターが突然出た大物の名前に戸惑っている。ソーセージを切るのを忘れ、クララを凝視する。


「前回のパーティーでご一緒させていただいたご縁で呼んでいただいたの」

「へえ。すごいじゃないか!」

「ありがとう!…それで、私、ビクターに言わないといけないことがあって」

「うん?」


言葉に詰まる。


刺繍のことを話したら「止めろ」と言われないかしら。詩や絵画やピアノならともかく、妻が社交界で刺繍なんて。マデリン様は喜んでくれたけれど、貴族の男性が求める貴婦人像とは違いすぎるもの。


ビクターは急かさず待ってくれている。穏やかな瞳がクララを包んだ。

ギュッと目を瞑って、半ば叫ぶように思い切って口を開く。


「私、ミュリーと一緒に、マデリン様たちに刺繍を教えることになったの!」


勢いで伝えたものの、目を見るのが恐くて、半分まで食べたキッシュをひたすら見つめた。ぎっしり詰まった茸が中から覗いている。

心臓がうるさい。


「え、刺繍?」


ビクターの声に驚きが混じっている。

縮こまるように肩を丸めた。


「クララって刺繍できるの?マデリン様の目にとまるほど?それはすごい!」

「え」

「もしかして、ウェディングドレスもクララの手作りだった?あのドレスもとても魅力的だった」

「…反対しないの?」

「反対?なぜ?」


さも不思議そうにビクターが問い返した。

クララは目を真ん丸にした後、ふう、と胸を撫で下ろした。


「良かったぁ。淑女のすることではないと言われるのかと」

「確かに刺繍ができる貴婦人は珍しいね。でもどんなことでも、できるっていうのは誇っていいと僕は考えているよ」

「…ビクター。ありがとう」


 クララは嬉しそうに、バゲットにチーズを乗せて口に入れた。カリリッという音が美味しい。

ビクターの頬が緩む。


「もしかして、ここ最近、元気がなかったのはそれのせい?」

「え」


一生懸命、明るく振る舞っていたけれど、ビクターの目は誤魔化せなかったらしい。


「もし二人の意見が違っても、きっと僕たちは話し合いで解決できるよ。一人で悩まないでね。夫婦なのだから」

「…ありがとう、ビクター」


こんなにできた人は他にいないわ。打ち明けられて良かった。





「クララ」「忙しい?」「時間ない?」

「ううん、今日は余裕があるわ」


マデリンの屋敷での先生役は大成功で、参加した貴婦人たちは誰も喜んでくれた。事前のミュリーとの打ち合わせでは、あれもこれもと用意して、教え方も工夫してと大わらわだったけれど、その甲斐があったというもの。

有難いことに、今後も定期的に刺繍サロンを開くことになった。お城のようなマデリンの屋敷で、貴婦人を相手に刺繍を教えるなんて、夢みたいだ。


「外行く」「息抜き」「ゆっくり」


テーブルに敷いた布の上に立つロロ、ミミ、ススが、クララの指を引っ張った。テーブルの上には他に針と糸が置かれている。伸びをする為に置いたのを見計らって、三人は声をかけた。


「そうね。ずっと座っていては体に悪いわよね。行きましょうか」


クッションで丸まっていたニアが、渋々という風に起き上がって前足を突っ張るように伸びをした。シュタッとテーブルに乗ると、三人が慣れた手つきでニアの頭によじ登る。

ニアはトッと床に下りて、「行くぞ」とクララを振り返った。


「「「出発」」」




生け垣の穴潜りも慣れたもの。前回は周囲を見回すこともしなかったけど、心が晴れやかな今日は違う。庭師が綺麗に刈り揃えた緑の生け垣を触る心の余裕がある。


心の色によって、見える景色が全然違うのね。


見上げた空の青さに感動し、また歩き出した。




「わあ、雪景色…」


地の果てまで続いて良そうな雪景色が広がっている。視界が雪と、澄んだ青空とで二分割されている。

柔らかそうな雪がゆらゆらと舞って、クララの顔に落ちた。冷たい。けど不思議と寒さは感じなかった。


遠くに大樹が一本、枝をいっぱいに伸ばし堂々と佇んでいる。霧氷のおかげで、白い花が満開に咲いているように見えた。


雪にニアの小さな足跡がつき、クララはそれを潰さないよう斜め後ろを歩く。しゅく、しゅくと雪を踏む音がする。靴に水がしみ込む気配はない。


風が粉雪を飛ばして、キラキラと空を舞った。

ピンとした空気の冷たさが、なぜかすっきりと心地よい。


近づくにつれて大樹の壮大さに心を奪われる。一本の木なのに、真下に立つと空を覆いつくさんばかりだ。黒い幹に、真っ白の氷の花。

神秘的な光景に時間が止まった。


ニアがうずくまり、ロロ、ミミ、ススも雪の上に大の字になった。クララも勢いよく、後ろに倒れ込む。柔らかい雪が全身を受け止めてくれた。体重で雪が少しだけ沈む。起き上がれば人型ができているだろう。


こんなことするの初めて。


顔に雪が落ちてくる。手を伸ばして雪を掴むと、たちまち消えた。

つん、とする空気を吸い込んでも、鼻が痛くならない。雪は解けずにさらさらのままだ。


こんなに薄着でも平気なんて、どうなっているのかしら。

骨まで凍るほどの寒さの中、雪解け水に靴を濡らしながら仕事をしていた昔が嘘のよう。

何度も凍傷になったっけ。


赤切れで傷だらけの指が恥ずかしくて、手を隠すのが癖になった。


今、空に伸ばした手は、手入れされ傷の一つもない。それどころか滑々と柔らかい。

何もかも、あの頃と違う。


いつの間にか、空がライラック色に変わっていた。ピンクと紫を混ぜて薄めたような色。幻想的な空気を纏い、氷の大樹もまた違う顔に見える。


「ふかふか」「氷つるつる」「冷たい」


三人はごろごろと寝たまま、左に、右にと雪に自分の跡をつけている。

ニアは寝るのに飽きたのか、両手で雪を掻き始めた。ぺっぺっとクララの顔にも雪がかかる。


「…ニア、冷たいわ」

「にーあ」


ニアは「うん?」とクララを見たが、あちこちを掘り返す手を止めない。ふかふかした新雪が気持ちいいのだろう。

せっかく別世界の気分を満喫していたのに台無しだ。


クララは起き上がって、大樹に触れた。太い幹は冷たくて、ごつごつしている。二、三人いないと抱えきれないほどの大きさだ。


その生命力に気圧される。



あっという間に夜になった。濃紺の空を埋め尽くすように星が瞬いている。

木の幹に片手をつけたまま、満天の星を眺める。

零れそうな、こんな星空はこれまで見たことがない。目が離せないとはこのことか。


「あ、流れ星」「お願いごと」「三回」


三人はとっくに目を閉じている。クララは出遅れてしまった。祈りのポーズを取った瞬間に、星が消えた。


「難しいわね。三回も唱えるのは」

「できる」「やる」「叶う」


三人は首を回しながら、夜空を探している。


「クララ」「願い」「何?」

「私の願いは…」


何だろう?と自分の胸に問いかける。願いなんて持たないように生きてきた。願っても虚しいだけだから。


今は?


コンプレックスだった自分の手は綺麗になった。

友達ができた。

刺繍の腕が認められた。

美しい景色に感動できるようになった。



私の願いは…。




「誰かの一番になりたい」


心の奥底に沈んでいた願いが、ぽろりと口から零れた。

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