15.流れ星への願い事は
マデリンからの招待状はすぐに届いた。丁寧に書かれた文字に、上品な香りが添えられ、人柄を表しているかのようだった。返事は勿論、「喜んで参加させていただきます」。今までになく胸が高揚している。
初めて自分の人生が動き始めた気がした。(幻の一回目は胸に仕舞いこんだ。)
「クララ。今度の水曜日なんだけど、どこかお出かけしない?」
朝食のテーブルには、ゴロっと野菜のスープ、茸のキッシュ、バゲット、白カビのチーズ、血合い入りのソーセージ、ベーコン、フルーツがずらりと並んでいる。
クララがバゲットを千切る手を止めた。
「ごめんなさい、ビクター。その日はマデリン様のお屋敷に伺うことになっていて」
「え、フェラー公爵夫人?」
ビクターが突然出た大物の名前に戸惑っている。ソーセージを切るのを忘れ、クララを凝視する。
「前回のパーティーでご一緒させていただいたご縁で呼んでいただいたの」
「へえ。すごいじゃないか!」
「ありがとう!…それで、私、ビクターに言わないといけないことがあって」
「うん?」
言葉に詰まる。
刺繍のことを話したら「止めろ」と言われないかしら。詩や絵画やピアノならともかく、妻が社交界で刺繍なんて。マデリン様は喜んでくれたけれど、貴族の男性が求める貴婦人像とは違いすぎるもの。
ビクターは急かさず待ってくれている。穏やかな瞳がクララを包んだ。
ギュッと目を瞑って、半ば叫ぶように思い切って口を開く。
「私、ミュリーと一緒に、マデリン様たちに刺繍を教えることになったの!」
勢いで伝えたものの、目を見るのが恐くて、半分まで食べたキッシュをひたすら見つめた。ぎっしり詰まった茸が中から覗いている。
心臓がうるさい。
「え、刺繍?」
ビクターの声に驚きが混じっている。
縮こまるように肩を丸めた。
「クララって刺繍できるの?マデリン様の目にとまるほど?それはすごい!」
「え」
「もしかして、ウェディングドレスもクララの手作りだった?あのドレスもとても魅力的だった」
「…反対しないの?」
「反対?なぜ?」
さも不思議そうにビクターが問い返した。
クララは目を真ん丸にした後、ふう、と胸を撫で下ろした。
「良かったぁ。淑女のすることではないと言われるのかと」
「確かに刺繍ができる貴婦人は珍しいね。でもどんなことでも、できるっていうのは誇っていいと僕は考えているよ」
「…ビクター。ありがとう」
クララは嬉しそうに、バゲットにチーズを乗せて口に入れた。カリリッという音が美味しい。
ビクターの頬が緩む。
「もしかして、ここ最近、元気がなかったのはそれのせい?」
「え」
一生懸命、明るく振る舞っていたけれど、ビクターの目は誤魔化せなかったらしい。
「もし二人の意見が違っても、きっと僕たちは話し合いで解決できるよ。一人で悩まないでね。夫婦なのだから」
「…ありがとう、ビクター」
こんなにできた人は他にいないわ。打ち明けられて良かった。
「クララ」「忙しい?」「時間ない?」
「ううん、今日は余裕があるわ」
マデリンの屋敷での先生役は大成功で、参加した貴婦人たちは誰も喜んでくれた。事前のミュリーとの打ち合わせでは、あれもこれもと用意して、教え方も工夫してと大わらわだったけれど、その甲斐があったというもの。
有難いことに、今後も定期的に刺繍サロンを開くことになった。お城のようなマデリンの屋敷で、貴婦人を相手に刺繍を教えるなんて、夢みたいだ。
「外行く」「息抜き」「ゆっくり」
テーブルに敷いた布の上に立つロロ、ミミ、ススが、クララの指を引っ張った。テーブルの上には他に針と糸が置かれている。伸びをする為に置いたのを見計らって、三人は声をかけた。
「そうね。ずっと座っていては体に悪いわよね。行きましょうか」
クッションで丸まっていたニアが、渋々という風に起き上がって前足を突っ張るように伸びをした。シュタッとテーブルに乗ると、三人が慣れた手つきでニアの頭によじ登る。
ニアはトッと床に下りて、「行くぞ」とクララを振り返った。
「「「出発」」」
生け垣の穴潜りも慣れたもの。前回は周囲を見回すこともしなかったけど、心が晴れやかな今日は違う。庭師が綺麗に刈り揃えた緑の生け垣を触る心の余裕がある。
心の色によって、見える景色が全然違うのね。
見上げた空の青さに感動し、また歩き出した。
「わあ、雪景色…」
地の果てまで続いて良そうな雪景色が広がっている。視界が雪と、澄んだ青空とで二分割されている。
柔らかそうな雪がゆらゆらと舞って、クララの顔に落ちた。冷たい。けど不思議と寒さは感じなかった。
遠くに大樹が一本、枝をいっぱいに伸ばし堂々と佇んでいる。霧氷のおかげで、白い花が満開に咲いているように見えた。
雪にニアの小さな足跡がつき、クララはそれを潰さないよう斜め後ろを歩く。しゅく、しゅくと雪を踏む音がする。靴に水がしみ込む気配はない。
風が粉雪を飛ばして、キラキラと空を舞った。
ピンとした空気の冷たさが、なぜかすっきりと心地よい。
近づくにつれて大樹の壮大さに心を奪われる。一本の木なのに、真下に立つと空を覆いつくさんばかりだ。黒い幹に、真っ白の氷の花。
神秘的な光景に時間が止まった。
ニアがうずくまり、ロロ、ミミ、ススも雪の上に大の字になった。クララも勢いよく、後ろに倒れ込む。柔らかい雪が全身を受け止めてくれた。体重で雪が少しだけ沈む。起き上がれば人型ができているだろう。
こんなことするの初めて。
顔に雪が落ちてくる。手を伸ばして雪を掴むと、たちまち消えた。
つん、とする空気を吸い込んでも、鼻が痛くならない。雪は解けずにさらさらのままだ。
こんなに薄着でも平気なんて、どうなっているのかしら。
骨まで凍るほどの寒さの中、雪解け水に靴を濡らしながら仕事をしていた昔が嘘のよう。
何度も凍傷になったっけ。
赤切れで傷だらけの指が恥ずかしくて、手を隠すのが癖になった。
今、空に伸ばした手は、手入れされ傷の一つもない。それどころか滑々と柔らかい。
何もかも、あの頃と違う。
いつの間にか、空がライラック色に変わっていた。ピンクと紫を混ぜて薄めたような色。幻想的な空気を纏い、氷の大樹もまた違う顔に見える。
「ふかふか」「氷つるつる」「冷たい」
三人はごろごろと寝たまま、左に、右にと雪に自分の跡をつけている。
ニアは寝るのに飽きたのか、両手で雪を掻き始めた。ぺっぺっとクララの顔にも雪がかかる。
「…ニア、冷たいわ」
「にーあ」
ニアは「うん?」とクララを見たが、あちこちを掘り返す手を止めない。ふかふかした新雪が気持ちいいのだろう。
せっかく別世界の気分を満喫していたのに台無しだ。
クララは起き上がって、大樹に触れた。太い幹は冷たくて、ごつごつしている。二、三人いないと抱えきれないほどの大きさだ。
その生命力に気圧される。
あっという間に夜になった。濃紺の空を埋め尽くすように星が瞬いている。
木の幹に片手をつけたまま、満天の星を眺める。
零れそうな、こんな星空はこれまで見たことがない。目が離せないとはこのことか。
「あ、流れ星」「お願いごと」「三回」
三人はとっくに目を閉じている。クララは出遅れてしまった。祈りのポーズを取った瞬間に、星が消えた。
「難しいわね。三回も唱えるのは」
「できる」「やる」「叶う」
三人は首を回しながら、夜空を探している。
「クララ」「願い」「何?」
「私の願いは…」
何だろう?と自分の胸に問いかける。願いなんて持たないように生きてきた。願っても虚しいだけだから。
今は?
コンプレックスだった自分の手は綺麗になった。
友達ができた。
刺繍の腕が認められた。
美しい景色に感動できるようになった。
私の願いは…。
「誰かの一番になりたい」
心の奥底に沈んでいた願いが、ぽろりと口から零れた。




