第27話 生まれ変わるアヴァロン
夕暮れが過ぎ、アヴァロンの国政改革室には穏やかな明かりが灯っていた。俊はデスクで、諸組合の書記官たちから集めた『そろばん』と『新基準』に対する意見を一枚ずつ丁寧に読み込んでいた。
他の役人たちには早めの退勤を促し、一人で静かに聞き取りの結果を分析するこの時間は、現代でマーケティングコンサルタントをしていた頃からの習慣のようなものだった。
「……俊殿、まだ残っておられましたか。そんなに難しい顔をしてどうしました? 導入はこれ以上ないほど円滑ですよ」
アルフォンスが、夜食の差し入れを持って現れた。俊はふっと肩の力を抜き、苦笑いを浮かべて一枚の羊皮紙を差し出した。
「いや、ほぼ思惑通りではあるんだが、市場の広まりがこちらの備えを追い越しそうでね。教える人手の不足が一番の障壁になることは予測していたから、ミナたちに手引書の作成を急がせたり、組合の中で教え合える導き手を育てたりはしていたんだが……現場の熱気がそれを上回っているんだ。商いの仕掛け人として需要を喚起した以上、この供給不足をどう捌くかが今の俺の課題だよ」
「ははは! それは嬉しい悲鳴というものですよ。彼らは強制されたからではなく、自分たちの商売が楽になるから、必死に食いついているんです」
アルフォンスの言葉通り、王都の商人たちは支配される恐怖よりも便利さの恩恵を真っ先に選んだ。俊が持ち込んだのは、商売の現場で誰もが直面していた計算の煩わしさや不透明な不安を解消するための道具だったからだ。
「カスパールやマルコからも手紙が来てるよ。フォルクナー商会の拠点で導入したら、事務作業の時間が半分になって、その分、新しい商品の仕入れに時間を割けるようになったって喜んでた」
俊は、元の世界で顧客の満足を追っていた頃を思い出していた。今のアヴァロンで起きているのは、国家の改造という大層な話ではない。
ただ、新しい仕組みが人々に喜ばれ、それがさらなる賑わいを呼ぶという、商いの基本が連鎖しているだけなのだ。
「……でもさ、アルフォンス。俺がやってることは、結局のところ既存のやり方を壊してるんだ。財務部の役人たちが怒るのも無理はない。彼らの誇りを傷つけずに、どうやってこの新しい流れに乗ってもらうかが、今の俺の一番の悩みだよ」
俊はただ、現代の便利な仕組みを知っていて、それをどう伝えれば人が動くかを知っているだけだ。
「俊さん、まだ起きてたの。明日の朝も早いし、そろそろ切り上げないと説明の時に声が出なくなっちゃうよ」
ティアが扉を開けて声をかけた。明日の予定を考慮した現実的な忠告に、俊は手元のペンを置き、大きく伸びをした。
「ああ、そうだな。……アルフォンス、悪いがこの資料の最終確認は明日の朝に回そう。今日はここまでにしよう」
俊はアルフォンスが持ってきてくれた夜食を片付けながら、ふっと笑った。
翌朝、改革室の広場に併設された講堂には、昨日以上の人だかりができていた。俊が懸念していた『教え手の不足』を補うため、この日は試験的に『習熟度の高い書記官が、新人に教える』という相互学習の形式を導入していた。
教壇に立つのはミナだが、彼女の周りにはすでに数名のベテラン書記官が控え、実技の補助を行っている。俊は講堂の隅からその様子を見守っていた。
「……順調だな。教える側も、教えることで自分の理解が深まる。これも現代の研修でよく使った手だけど、こっちの世界でも十分に通用するな」
そこへ、浮かない顔をした一団が近づいてきた。財務部次官のバートランド率いる、年配の役人たちだ。
彼らは商人たちの熱狂を、どこか遠い世界の出来事のように、冷めた、あるいは疎ましいような目で見つめていた。
「俊殿。……街の者たちがこの奇妙な木枠の道具にうつつを抜かしているようだが、我ら財務部としては、このような『遊び』に国の帳簿を任せるわけにはいかん。伝統的な筆算こそが、信頼の証なのだ」
バートランドの声には、自分たちの居場所が失われることへの防衛本能が透けて見えた。俊は、彼らを論破するのではなく、一人のマーケターとして『彼らが最も欲している価値』を提示することにした。
「バートランド次官。そうおっしゃらずに、少しこちらをご覧ください」
俊は机の上に、一枚の新しい印章を置いた。それはアヴァロンの紋章をあしらった、精緻な銀製の判子だった。
「これは……?」
「『アヴァロン公認・適正商会』の認定印です。これから我々は、公認帳簿を正しく使い、不正のない取引を行っている商会に対し、この印を与えることにしました。この印があれば、他国との商談でも『アヴァロンのお墨付き』として絶大な信用を得られる。商人たちが欲しがっているのは、計算機そのものではなく、この『信用』なんです」
バートランドは眉をひそめたが、俊は言葉を続けた。
「そして、その商会が本当に印を受けるに値するかを厳格に審査し、指導できるのは、長年この国の数字を守ってきたあなた方、財務部のベテランたちしかいません。そろばんや新しい基準は単なる道具です。それをどう使い、どう正しさを担保するか。その『審判役』という最も名誉ある仕事を、私はあなた方にお願いしたいと考えています」
「審判役……だと?」
「ええ。単なる事務作業は、若手やそろばんに任せればいい。ですが、数字の裏に隠された意図を読み取り、この国の商いの質を保証するのは、あなた方の長年の経験でしか不可能です。新しい仕組みの中で、あなた方は『管理官』から、より格上の『認定官』へと役割を変えていただく。これこそが、アヴァロンを大陸一の信用国家にするための鍵なんです」
バートランドの目が、わずかに動いた。
単に『計算が速くなるから使え』と言われるのは、彼らのこれまでの人生を否定されるに等しい。だが、『その速い計算が正しいかを判断する、より高い地位』を提示されれば、話は別だ。
それは彼らの誇りを守りつつ、新しいシステムに組み込むための『立ち位置の再定義』だった。
「……ふむ。認定官、か。確かに、若造たちが珠を弾いているだけでは、不正を見抜くことはできまいな」
「その通りです。是非、その厳しい目で、アヴァロンの新しい『信頼』を作っていただきたい」
バートランドたちは、まだ不服そうな顔を隠しきれてはいなかったが、その足取りには先ほどまでの拒絶感は消えていた。アルフォンスが背後から歩み寄り、俊の肩を軽く叩いた。
「見事ですね、俊殿。彼らを『古い障害』として切り捨てるのではなく、新しい仕組みの『重鎮』として祭り上げるとは。……まさに、商いの仕掛け人らしい。人心の売り買いも心得ておられる」
「売り買いなんて、そんな大層なもんじゃないよ。ただ、みんなが納得して動ける場所を探しただけだ。……さあ、次は商人たちへの『公認印』の導入キャンペーンだ。これがうまく回れば、アヴァロンは単なる魔石の産地じゃなく、大陸で最も『信用を買える場所』になる」
俊は、活気に溢れる講堂を見つめた。そろばんのパチパチという音、真剣に帳簿を書き込む書記官たち、そして誇りを取り戻しつつある役人たちの背中。
それは支配や管理といった冷たい言葉では言い表せない、人々が「より良く、より楽しく商売をしたい」という欲求から生まれる、温かな熱気だった。
夜明けと共に届いた新しい要望は、今や俊にとっての『課題』ではなく、アヴァロンというブランドが成長している証に見えていた。
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