第65話:月下の湯治。隠れ里の休息と、静かなる波紋
魔港都市ゼニスから数里、険しい山道を越えた先に、古くから「神の湯」と呼ばれる隠れ里があった。誠十郎は、外神との死闘で負った「深淵の腐食」を癒やすため、独りその地を訪れていた。
「⋯⋯さすがにこの傷、一筋縄ではいかんか」
誠十郎は、湯治場の奥にある静かな露天風呂に身を沈めていた。左肩には、今も黒い痣のような腐食の痕が残っている。湯気に包まれ、目を閉じて気を練り直す。彼にとって、これはただの休息ではなく、己の肉体を再構成する内功の修行でもあった。
しかし、その静寂は、聞き覚えのある落ち着いた、それでいて凛とした声によって破られた。
「⋯この空気の震え。そして、鼻を抜ける清冽な気の残り香。間違いありません。大翔さん、誠十郎様がこの宿にいらっしゃいますわ」
(⋯この気配。まさか)
誠十郎が眉をひそめた瞬間、脱衣所の方から複数の足音が近づいてくるのが分かった。
【遭遇:湯煙の聖騎士】
「マリアさん、本当? 偶然にしては出来すぎてる気がするけど⋯」
「ふふ、ユフィさん。マリアさんの『誠十郎様センサー』を疑ってはいけませんよ。⋯。ねえ、先輩もそう思うでしょう?」
大翔をからかうような、カスミの艶っぽい声。誠十郎は湯の中で深く溜息をついた。よりによって、この広い世界で同じ宿に泊まるとは。彼自身の運のなさが招いた不運であった。
「⋯やれやれ。静かに傷を癒やすこともできんのか」
誠十郎は、これ以上の接触を避けるべく、静かに湯から上がろうとした。だが、男湯の暖簾が跳ね上げられ、大翔が入ってきたことで、それは叶わぬものとなった。
「え⋯⋯あ! 誠十郎さん!?」
「⋯大翔か。騒々しいな」
誠十郎は冷静を装い、手ぬぐいで左肩を覆いながら立ち上がった。だが、その一瞬の動作に、大翔は見逃せない違和感を覚えた。
【静かなる波紋:それぞれの察知】
大翔が男湯で誠十郎と対面している頃、壁を隔てた女湯では、三人の女性が湯に浸かっていた。
「誠十郎様と同じ宿、同じ湯。⋯これ以上の誉れがございましょうか。今夜の夕餉は、誠十郎様のお身体を慮り、最高級の滋養を蓄えた山菜と猪肉を捧げねばなりませんわね」
マリアは湯船の中で、大人の女性らしい落ち着いた所作で髪をまとめながら、敬虔な面持ちで呟く。その美貌は湯気に濡れ、聖騎士としての気品を漂わせていた。
「マリアさん、もう献立のこと考えてるの? ⋯。でも、誠十郎さんがここにいるってことは、やっぱり修行なのかな」
ユフィが不思議そうに首を傾げる。一方で、カスミは湯面に指先で小さな輪を描きながら、壁の向こう側の「気」を探っていた。
「⋯⋯⋯おかしいですね。あの誠十郎さんの気が、ほんのわずかに乱れています。⋯まるで、何かに蝕まれているような」
カスミの呟きに、マリアの表情が瞬時に引き締まった。彼女たちは、誠十郎が「ただの休暇」でここに来るような男ではないことを、誰よりも理解していた。
【エピローグ:夜の静寂】
湯から上がり、浴衣に身を包んだ誠十郎が中庭を眺めていると、大翔が背後に立った。
「誠十郎さん。⋯あの、肩の傷⋯」
「⋯気にするな。大したことではない」
誠十郎は突き放すように言ったが、大翔の目には迷いがなかった。海を裂く一閃を放った弟子は、既に師匠の「揺らぎ」を感じ取れるほどに成長していた。
離れた廊下の陰では、マリアが音もなく立ち、深く一礼していた。彼女は駆け寄って取り乱すことはしない。ただ、師を支えるために、自分たちが成すべきことを静かに見定めていた。
「⋯大翔。⋯明日からは、少々厳しい旅になるぞ。覚悟しておけ」
誠十郎の言葉は、弟子たちへの警告であり、自分自身への戒めでもあった。
(第65話・完)
面白いと思ったら、下の☆で評価していただけると励みになります




