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「…懐かしい呼び名だ。あなたがそう呼んでくれるのは…いつぶりだろうな」
ゆっくりとこちらに歩み寄る彼を月が照らす。あらわになったその顔には、安堵の色があった。
「気配を感じて目が覚めたのだが、あなたが居なくなっていたので焦った」
「あっ…!ご、ごめんなさいアンドレアスさま…!」
慌てて涙を拭った私を、アンドレアスさまはじっと見つめる。互いに手を伸ばしても、ぎりぎり届かないような微妙な距離感。彼のシャツはおざなりにいくつかボタンが留められているだけで、剣帯も付けずに愛剣のみを鞘ごと握っていた。慌てて、探しに来てくれたのだろうか。
「あの…っ!夕方少し寝てしまったので目が冴えて、お散歩に出てしまいましたの!あまりにも綺麗な月夜だったものですから…ご心配をおかけして─────っ!」
いたたまれずに捲し立てたアイリスは、突然その身の自由を奪われた。少し汗ばんだ熱っぽい体が、力強くアイリスを拘束する。一瞬で距離を詰めたアンドレアスに抱きしめられて、二の句が継げなくなってしまった。
彼の肩口に顔を押し付ける形になって、思わずうっとりと目を閉じる。あぁやはり、ここは世界で一番安心できる場所だ。けれども今は戸惑いも大きくて、自分も腕を回してしまっていいものか迷う。
「…このところずっと様子がおかしいので心配していた。やはり…痩せたな」
「え……」
降ってきた低音に指摘されて、気付かれていた、とも気付かなかった、とも思った。考えてみると、ここ最近は食事が疎かになっていたかもしれない。でもまさか、彼が気付いていたなんて。
「アイリス、何かあったのか?私には…言えないことが?」
「な…なにも…っ…」
なにもない、と言えば嘘になってしまう。心苦しくて、慌てて質問の矛先を変えた。藪蛇かもしれない、けれど彼の腕の中でなら…どんな話でも耐えられるような気がしたのだ。
「アンドレアスさまこそ…!私に何か、お話があると仰ってましたのに…」
「もうアンドリューとは呼ばないのか?」
「は、話を逸らさないでください!」
自分のことはまるっきり棚に上げて、彼を詰る。婚約を解消してほしい、などという話はアイリスにとって死刑宣告にも等しいのだ。いっそすっぱりと終わらせてくれればいいのに…!
決してそんなことは望まないくせに、自棄になってそんなことを思う。
「そうだな…。アイリス、あなたに頼みがある」
「…はい」
「どうか、やり直しをさせてくれないか」
そう言ってそっと体を離すので、アイリスは恐る恐る彼を見上げた。
────あぁ、やはり…彼の瞳は星空そのものだ。
「アイリス、あなたを愛している。どうか…私と結婚してほしい」
その瞬間、アイリスは瞬きも呼吸も忘れて呆然とした。目の前の彼は、月の魔力が見せた都合のいい幻想なのではないかと。
(今、…今なんて──────)
「…ずっと悔いていた。まだ稚けない少女の告白を言質に取って縛り付けて…あなたにもっとふさわしい相手が現れる前に自分のものにしてしまえばと、そんな卑怯なことを考えてもいた。…幻滅したか?」
「…っ…!」
色んな想いが溢れてきたけれど、どれも言葉にできずただ首を振った。…ずるいのは自分の方だ、結局虎の威を借る狐で彼を強制してきたのではないかと、ずっとそう思っていた。
けれど。
「正式な婚約までに日を置いたのも、私の我儘だ。あの時の私は所詮分隊長でしかなく─────結局、あなたとの立場の違いを最も恐れていたのは私だったのだな。二年の内にあなたが目を醒ましてしまうか、私があなたにふさわしい男になれるか…賭けのような気持だった。それでもアイリス、君があまりに一途に私を慕って尽くしてくれるから、眩しくて愛おしくて堪らなかった」
どうして彼はこんなに優しい瞳で私を見下ろすんだろう。混乱の中、それだけを思う。
まるで…まるで、自分が彼の宝物になったかのような心地さえする。私が他愛もない思い出を大事に大事にしまってきたように、彼もまたアイリスとの思い出を慈しんでいてくれたのだろうか。
「一緒に住もうと言われて、正直困惑した。たった二年の間に、あなたはどんどん美しい大人の女性になって…私は自分でも淡泊で朴訥とした男だと自負してはいるが、さすがに理性を保てる気がしなかったからな」
「り、理性って…」
赤裸々な告白にこちらの方が赤面してしまう。それじゃあ彼は、清い結婚のためにアイリスと寝室を別けたと言っているのだろうか。触れ合いを極力避けたのもきっとそのためで────
「───実は、あなたにもう一つ話しておきたいことがある」
「…アンドリュー…?」
その場で不意に片膝を突き、自分の両手を取ったアンドレアスに戸惑う。屈もうとするアイリスを視線で押し留めて、厳かに告げた。
「私が一年前から指揮を執ってきた『茨の王』討伐の件が功績として認められ、『騎士』の称号を与えられることになった。私の自己満足だが、やっとあなたに見合う男としての自負を得たと思っている」
「あなたが…騎士に…?」
アイリスは半ば呆然としてその告白を聞いた。
この世界ガルディアにおいて、『騎士』とは出自も経歴をも超越する特権的な称号である。そのほとんどは自国の王族に仕えるが、中でも教皇付きの騎士は『聖騎士』と呼ばれ、もはや神格化された存在となる。全ての騎士に共通するのは、叙任を受けた主以外の何人たりともに叩頭や隷属を強制されない、という不文律であった。
「叙任を受ければ、我が忠誠はこのエルケナルに捧げられる。…だがその前にあなたに誓いたかった」
そう微笑んで、彼はアイリスの手の甲に口づけを落とした。
「私、アンドレアス・オースティンの全てはアイリス、あなたのためにある。愛も、生も、死も、全てをあなたに捧げよう。────だからどうか、私と結婚してほしい」
そこまでで、もうアイリスは号泣していた。いつかのように彼に飛びついて、一緒に草の絨毯へ倒れ込んだ。お互いの腕はお互いの体に回されて、かつてないほどに身を寄せ合う。
「アンドリュー…!わた、わたしずっと…!」
「私はいつだって言葉が足りなくて、あなたを不安にさせていたのだな」
「ちが…!もっとちゃんと、あなたと向き合えば良かった!どうしたらずっと傍にいてくれるのかしらって、それだけしか考えられなくて…!恐かったの…あなたを失いたくなかったの…!」
アンドレアスはぐるりと体勢を入れ替えて、泣きじゃくるアイリスを覗き込んだ。とんでもない顔をしているだろうと慌てて両手で覆ったけれど、すぐにその手は彼に捕まった。指を絡めて握りこんで、アイリスがどんなに恥ずかしがっても離してはくれない。
「や…わたし、またこんなに泣いてしまって…!」
「私を想って流してくれた涙なら構わない」
「ず、ずるいですアンドレアスさま…!そんな…」
「アンドリューと呼んでくれただろう?…なにが『ずるい』?」
彼の言葉が、仕草が、視線が、全てが甘くて蕩けてしまいそうだ。思わず口走ってしまったけれど、撤回は許してもらえそうにない。観念してぽそりと呟く。
─────かっこよすぎて、ずるいです
子供みたいなことを言ってしまったと悔いる暇もなく、熱いものが降ってきた。ほとんどあの日ぶりに与えられた、深い口づけ。息も奪われるほど長く、甘い沈黙が落ちた。慣れないアイリスは息継ぎもできなくて、自分でも初めて聞くような声が漏れる。
「…んぅ…あんどりゅっ…ふ…っあ…」
「…はっ…」
一拍置いた彼が、今度は唇を食んで開口を促してくる。すり、と鼻先まで擦りあわされて、思わずうっすらと唇を開いた。すかさず入ってきた舌が、奥で縮こまるアイリスのそれを絡みとって翻弄する。
結局彼は、アイリスが息も絶え絶えになってからやっと離れて行った。初心者にはあまりにもディープすぎてただただ享受するのでやっとだったアイリスだが、どこか申し訳なさそうに見やる彼に気恥ずかしくなり、ごまかすようにぽかぽかと胸を叩いて抗議した。…それさえも「手を痛める」と甘い声音で咎められてしまったのだけれど。
それから二人で、夜が明けるまで飽きることなく語り明かした。二年の間、アイリスもアンドレアスにふさわしい妻となるため花嫁修業に励んだこと。良妻は夫に仕えるものと聞いて呼称を改めるようになったこと。髪色が変わってアンドレアスもがっかりしているんじゃないかと不安だったこと。本当は一人で寝るのは寂しかったこと。お隣の新婚夫婦が毎朝抱擁とキスで別れを惜しむのが羨ましかったこと。実は昨日、カインドとの会話を聞いてしまったこと。てっきり別れを告げられるものだと誤解してしまったこと…
些細なことばかりで挙げればキリが無かったけれど、アンドレアスは辛抱強く耳を傾けて、時には口を挟んで弁解しながら付き合ってくれた。そうしているうちに山の端が白み始め、暗い闇を払って日が昇ってゆく様は、アイリスの胸の内を表しているかのようにも見えた。
二人身を寄せ合って朝日を眺める。どちらともなく見つめ合って破顔すると、固く互いの手を握ったまま帰路に就いた。
──────さぁ今日も、一日が始まる。愛し合う二人の、新たな門出となる一日が。
(おーっす夜勤お疲れー…ってどうした?眼ェ死んでんぞ…)
(ふくたいちょ…おつかれさまっす…)
(お、おぉ。そういや昼間はアイリス嬢からの差し入れあったって?俺もアンドレアスの奴にこき使われなきゃご相伴に預かったってのによー…っておい、魂抜けてんぞ!)
(俺の…間接的愛妻弁当…!)
(うわ泣くな!おーよしよし…なんだあいつ寄越さなかったのか?)
(くださいましたよ!虫けら見るような目で!「…くれてやる」って芋のかけらをひとつ!)
((……大人気なっ))
というわけで、アンドレアスがお腹いっぱいだった理由でした。




