3/彼方を想う1
小生はいつも同じ時間に起床する。
小生はいつも違う場所で起床する。
今日はとある大木の下で目を覚ました。昨日、小生を抱きすくめたディスの感触はどこにも残っておらず、しかし胸のうちには何かを引きずるような違和感。木の葉が作る歪な影は、小生の心の形であるように思える。
足取りまで重く、憂鬱な気分になる。
頭からそれを追い払おうと努めるが、何度払ってもその思いは悪魔のように蘇生を遂げる。まるで霧に挑んでいるようだ。
アクロの墓がある岩の上に飛び乗り、小生は身体を丸める。
こういうときに限ってディスの到着が遅い。ディスが来ればこの得体の知れない沈んだ気持ちも忘れることが出来るかもしれないのに。丸めた身体からぴょこんと顔を上げて、小生は遥か高い空を見上げる。皮肉なほどの青。
風はゆるやかに吹いている。
隅から隅までが静寂に満ちた草原の丘。
陽射しは暖かい。土の熱と陽の光が包むように小生を暖める。そのせいか、風はいつもより心地いい気がする。この風が憂鬱な気持ちも一緒に吹き飛ばしてしまえばいいのにと愚考する。天化の入り口まで耳を澄ましてもディスの足音はまだ聞こえない。一分が経ち、十分が経ち、三十分が経っても、ディスの足音はまだ聞こえない。
やがて、小生はひどい眠気に襲われる。
目を覚ましてからいくらも経っていないのに、その眠気は抗いがたいほどだった。おそらくこの暖かさのせいだ。が、今はその方がいいかもしれない。しばし憂鬱を忘れ、眠ろう。ディスが来れば起こしてくれるだろう。
小生は眠気を受け入れる。
すっ、と意識が落ちた。
──そして夢の中にいた。
轟々と響き続けている音がうるさい。爆発音もそうだし、空模様はカミナリさまのご機嫌ナナメである。空気が湿っぽく、あと十数分もすれば雨が降るに違いない。小生たちは廃ビルの三階にある一室に隠れているが、誰も言葉を発さない。
仲間たちは人間が十二人。うち、魔法使いが九人。軍犬は小生を含めて六匹。糧秣は足りているものの、誰の肩にも疲れが呪いの如くのしかかっている。そしてそのうちのいくらいかは、もしかしたら正真正銘の呪いだったのかもしれない。
小生たちの任務は、仲間たちがシロガネに撤退し終えるまで、クロガネとシロガネを結ぶ大型連絡橋、通称"グレイ"への空爆を防ぐことだった。
敵部隊の壊滅を以って成される任務である。
軍犬六匹という破格の戦力もその任務のためだが、それが決して生還を意味するわけではないことは誰もが知っていた。敵はおよそ五百で、機兵を有する魔法使いの術師隊。小生はかれこれ数年間戦ってきたが、大隊の術師隊など聞いたこともなかった。
通常、術師など二十も居れば足りるものなのだ。
前代未聞の火力だ。瓦礫と廃屋しかないこの町では逃げる道などどこにもない。もしも陣が完成し、魔法が発動してしまえば、小生たちは残らず灰になるだろう。そしてたとえ灰になる運命から逃れようと、小生たちが生きて帰ることはないだろう。
負ければ死ぬのは当たり前だが、仮に勝ったところで、小生たちがグレイを越えて仲間たちの元へ辿り着くよりも早く、敵の第二陣がグレイを叩き落し、小生たちの退路は絶たれるだろうから。
仲間を逃がすために、小生たちは死ぬまで戦う仕事を任された。
──空の戦争。
まだ空に島が浮かんでいた時代の戦争。魔法が世界を支配した時代。小生が、まだ"黒疾風"だったころの記憶。
小生の隣にはアレキアという名の男がいた。
小生のパートナーであり、主人である男だった。
アレキアは瓦礫にもたれながら、小生に「どう戦えばより多く殺せるか」と訊ねた。
小生は「乱戦だ」と答える。
遠距離から討つ火力などないし、撤退と交戦を繰り返すほどの余裕もない。重要なのは「相手が攻めでこちらが守りである」、ということだ。ならばこちらは自分たちの位置を悟られないことが何よりも重要になる。敵側に軍犬ほど優秀な索敵要因はいないから、軍犬一匹に人間二人が付いて敵側からの索敵を徹底的に妨害しながら潜伏し、気付かせないまま敵との距離をゼロにする。あとはタイミングをずらしながらそれぞれが動けばいい。勝ちムードである奴らは混乱に陥るだろう。人間は指揮官と魔法使いを狙い、軍犬は人間を蹴散らしながら機動力の高い機兵を狙った白兵戦を行う。
「よし、それで行こう」
「あとは何人かブレードの折れた奴がいるだろう? 使えるものを新たに調達する必要がある」
「死体漁りか。今となっちゃ、慣れたもんだ」
アレキアは、声を押し殺して笑った。
はてさて、成功するかなど小生にも分からない。しかし、アレキアは勝ち戦をしに行くような薄ら笑いで瓦礫に背を預けている。おのれの愛刀にキスをして、やおら立ち上がると、アレキアは仲間たちに今の作戦を伝えに行った。
アレキアが何か冗談を言ったらしい。兵士たちが低い声で笑った。話が終わると、仲間の三人が軍犬二匹を引き連れ、部屋から出て行った。
どうやら使えるブレードを探しに行くようだ。ここは四日間前に大規模な戦闘があったから、敵の死体はそこら中にごろごろしているはずだ。腰に差したまま逝った者も決して少なくはないだろう。
会敵は二十五分後と予想された。
敵が術陣を組む場所は最初から知れている。十中八九、この大通りの先にある広場だろう。大規模な術陣を組めるだけの広さがあり、かつグレイへの正確な砲撃が可能な場所は、この付近ではあそこが最も近いから。
仲間たちがそれぞれの場所に散らばっていく。小生はアレキアとカズラに付き、その他の軍犬五匹──静紅、蒼焔、空翠、白雷、灰斬もそれぞれのパートナーと共に物陰へと消えた。
息を殺し、石のように動きを止めたまま時間が過ぎる。
小生が三日前に耳を澄ましたとき、すでに軍靴が石畳を叩く音が聞こえていたし、その規模も位置も大まかに把握していた。今となっては耳を澄まさずとも聞こえる。──近い。
この場についてから十分が経とうとしている。ここかから出て屋根の上にでも上れば、ズームをかけなくても攻撃目標を視認出来るに違いなかった。
さらに待った。
雨が降り出した。砂色の瓦礫が瞬く間に濃い灰色に塗りたくられ、周囲には濃厚な雨の匂いが立ち込める。大粒の雨だったが、もちろんアレキアもカズラも小生も動かない。
激しい雨は鼻と耳の精度を鈍らせる。が、それでも確かに聞こえるほど、敵の足音は近かった。
さらに待った。
不意に、アレキアの身体が震えた。カズラも同様だった。
アレキアは腰のブレードに手をかけ、カズラは静かに深呼吸をする。人間の耳にだって聞こえるに違いない。自分たちの真後ろ、約五百人の魔法使いが隊列を組んで進む足音と、機兵の歩く金属音。
そして、最初の銃声が響いた。
激しい雨滴の音の中、敵の足音が一斉に乱れた。次いでざわめきと怒声、さらに二度目の銃声。魔法使いたち固有の陣形である術陣を組ませてはいけない。三度目の銃声があり、ざわめきが小生たちの背後を伝播するタイミングを読みきって、カズラが見惚れるような動きで敵陣に潜り込んだ。アレキアが片手で小生を制す。あと五秒待て、と無言の瞳が告げる。銃声はもう鳴らなかった。隠れていた仲間たちが飛び出し、混乱する敵兵を相手に白兵で挑んでいる。魔法使いの怖さは術陣が組まれてからの笑えるほどの火力だ。けれど魔法使いは白兵戦に強くはないから、いざというときのために陣形を組むまでの時間を稼ぐサポートが必要になる。
最初の銃声から、八秒だった。
──機兵が動いた。
軍犬たちの判断は一様だった。瓦礫の影に潜んでいた静紅が、蒼焔が、空翠が、白雷が、灰斬が、一斉に牙をむくのが分かった。小生は雨の匂いのする空気を深く吸い、顔を上げ、身体をそらし、頭上に立ち込める雨雲に向かって遠吠えする。
六匹の遠吠えは、激しい雨音の中でなお魂を揺さぶる魔物の唸りじみた協和音。
アレキアが言った。
「──往くぞ」
雨粒を跳ね飛ばしながらアレキアの影が翻る。
それに続いて小生も飛び出す。大通りにひしめく敵の群れが一挙に視界を侵す。泥と血飛沫を跳ね飛ばしながら逃げ惑う有象無象、急襲に蠢いている魔法使いの海。
アレキアがブレードの一振りで敵を殺し、振り向きもせずに怒鳴る。
「おら黒疾風! ぼやっとしてないであのデカブツを落とせ!」
「了承した」
小生は人間の群れから跳躍し、廃屋の壁面に着地。瞬時に狙いを定める。先ほど味方を殺した機兵は白雷と戦っていた。戦闘に入っていない機兵は三機。うち、一機は最後尾で敵兵たちにうずまっている。あいつは後、と判断する。
もう一機は中腹にいた。小生は、
──あいつを壊せばいいのか。
狙いを定め、ダーツのように飛び出す。
機兵がそれに反応、振り返る。機兵の右腕内部で魔術反応、同時に発動、直後に発射、一瞬で着弾──させない。
空中で小生はもう一度跳んだ。着弾したのは後ろの廃ビルだ。瓦礫の下に味方はいない。着地、地面を蹴る、軍犬の加速は音より遥かに速い。十メートルの位置から撃たれたライフルの弾を三つ指で掴み取る機兵の反応速度でさえ追いつけない。
それだけの速度は、それだけで兵器になる。
「障壁展開」
犬の石頭が機兵の腹に突き刺さった。
1トンを超える機兵が、敵の魔法使いを巻き込みながら紙のように吹き飛んで瓦礫の山に突っ込む。小生側の衝撃は障壁で全部殺した。もっとも、障壁も一撃で粉々になってしまったが。
雨滴を弾きながら小生は駆け出す。
道をふさぐ人間はすべて爪と牙で殺す。身体中に降りそそぐ血肉が片っ端から雨に洗われる。略式術陣を組み上げた六人の魔法使いが放った閃火を跳躍してかわし、背後に回って十分の一秒で狩る。
その小生の、さらに背後。
魔術反応が閃いた。
振り向いた先に、小生の額を狙う右腕があった。
二機目。
「のろま、そんな動きで何を殺す」
雨はもはや豪雨。
大粒の雨が人間の皮膚を叩き、軍犬の毛皮を叩き、機兵の装甲をたたく。小生の口から漏れた、ごきん、という音は、そういった雨の音に一瞬でかき消された。
小生の牙が頚椎に当たる部分を食いちぎり、頭部を失った機兵はそれでもまだ動いた。なにか悪い夢のような動きで機兵は反撃しようとし、次の攻撃でようやく沈む。
がらくたとなった機兵を雨が蹂躙していく。そこら中に転がる死体も、流れ出した血も、全て雨に踏み潰されていく。
戦場の絵。
「黒疾風、油断するでない!」
空翠の声。咄嗟に横に飛んだ。
小生がいた地面に機械の腕が突き刺さっている。
三機目。
軍犬にとってはパワー馬鹿でしかない機兵など処理しやすい。やつらが反応できない加速で視界から消えて、渾身の一撃を叩き込めばいいだけだからだ。機兵の装甲は厚いけれど、軍犬の牙は比べ物にならないほど硬い。
地面を蹴り、泥を跳ね飛ばしながら右に回り、
──追いつかれた!?
機兵の手が伸びる。
それを紙一重でかわし、バックステップで大きく距離を取る。
背後に戦闘音を聞きながら、小生の加速に追いついてみせた刃金を見上げた。
豪雨の中でそびえる無機。最後尾にいたやつだ。見た目は機兵と同じ姿だが、動きが違う。ささいなクセなどが明らかに普通の機兵ではないと語っている。──機械化生物?
「黒疾風、気をつけろ。そいつ、おかしいぜ」
いつのまにか静紅もいる。
どうやら前衛は済んだらしい。術師隊に対して軍犬は余程相性が良かったのか、想像以上に事は迅速に進んでいる。問題は、この機兵。
「ああ。静紅、被害は?」
静紅は機兵から目をそらさずに、
「人間が八人死んだ。セドウとワールスも死んだ。軍犬は全員無事だ」
背後からアレキアの声。
「よう無事だったか黒疾風。見ろよあいつ。冷てぇ鉄の身体のくせによ、こっち見て舌なめずりしてるのが分かるぜ。おっかねえ」
アレキアのすぐ傍にカズラがつく。
遅れて、マルセルとジェットがアレキアをガードするように構える。軍犬は灰斬と蒼焔と白雷が瓦礫の陰に潜んでおり、他は全員がここにいた。
壊滅した前衛を、機兵は何の感慨もなさそうな、しかし確かに意志のある目で見据えていた。その目は軍犬六匹と正面からぶつかり合う気でいる目だ。
そして、軍犬の誰もが、この機兵はそれが出来る存在であることを肌で感じていた。
ここからが正念場だ。
もう急襲は機能していない。あの機兵が前に出たせいで、あれより後ろには全くと言っていいほど混乱が生じなかった。
後衛の魔術師たちはおそらく三百以上。その数でありながら術陣は五割ほどが完成している。見れば、後衛には無傷の指揮官がいるし、ご丁寧にもそいつまで魔法使いだった。手際がいいわけだ。
時間がない。
術陣が完成すれば人間に避ける術はない。そして逃げることも出来ない。我々の任務は──
「黒疾風、命令だ。やつをバラして脳味噌引きずり出しちまえ」
我々の任務は、端的にいえば、
「走れ! 行くぞ殺すぞ総攻撃だ!!」
アレキアが、味方の人間が、軍犬全員が、雨粒を跳ね飛ばす勢いで吠えた。




