プロローグ
20××/08/06
暑さのまとわりつく夜。
錆と油の香る廃工場にて。
少女は、青年と相対した。
「何だ貴様は? 私に何か用事か?」
床面より僅かに足を浮かせた少女は言った。
彼女は、悪魔だった。
頭には二本角。背には三対六枚の翼。
手には黄金、真鍮、ダマスカス、オリハルコン、或いは緋々色金で精巧に細工された槍。
ゴスロリ風な漆黒のドレスには、金色の縁取りとラインが走り、その存在感を誇示している。
海の様な深き蒼の眼光が、向かい合う者を静かに睨め付けた。
あからさまな高位の悪魔。
脅威そのもの。
その証拠に高密度の魔力が可視化し、後光の如く彼女を照らし出している。
が、向かい合う青年は動じる事なく言った。
「夢色魔殺し…俺はそう呼ばれているんだ。君に用事というか、質問に答えて欲しいだけなんだ。君はサキュバスか?」
「ほぅ…この私がサキュバスか、だと?」
サキュバス、夢色魔といえば、女悪魔の一種。
少女もその存在は知識として知っていた。
夜な夜な人間の枕元に現れては、精気を貪るとされている色魔だ。
自分と比すれば、遥か下位の存在である。
無知蒙昧な人間にとはいえ、自分がそう見られるのは些か心外であったが、この日の少女は機嫌が良かった。
だから戯れた。
「そうだったらどうする? 人間風情がサキュバスの私を退治でもするのかな?」
と。
悪魔は、自分の身体を這い登る一匹の蟻を、眺める様な心地だったに違いない。
その気になればいつでも払い落とせる、と。
事実彼をこの世から消すなら、指の一本で事足りる。
「いやいや、退治じゃない。俺と一緒に来て貰いたいんだ」
「一緒に? 何故だ?」
「君に秩序を与える事が出来るからだ。サキュバスが生きるのに人間は不可欠だろう? でも食い過ぎればハンターに追われたりするじゃんか。飢える事なく、狙われる事もなく、人間世界で生きていければ最高だろ?」
「…何が言いたいのか分からんな」
「ま、そりゃそーだよなぁ。取り敢えずは俺を信用してくれないかね? アンタらの事だ、俺を抹殺するくらい簡単だろ。話の内容が気に食わなければ好きにしてくれていいからさ、どう? 絶対損はしないと思うし友達もみんなやってるよ〜?」
悪徳商法の誘い文句にも似た言葉だ。
が、悲しいかな少女は箱入りで有名なさる高位悪魔の娘。
着実に好奇心が刺激されつつあった。
更には初めて見る人間に、興味が無いと言えば嘘になる。
青年は見たところ魔力はおろか、存在さえ感じさせることはない程の、矮小で貧弱な存在。
脅威度は皆無。
が、気に入らかった。
そんな者が、自分の前で、笑みを浮かべる余裕が。
もしかしたら、相対する存在の力を理解していないだけなのかも知れない。
分かっていたら、畏れる筈。
きっとそうだ、無知から来る余裕なのだろう。
ならば敢えて、自信過剰な色魔を演じ、人間の下衆な企みごと叩き潰すのも悪くはない、と彼女は思った。
それに少女には絶対があった。
如何なる手段を用いようとも、自分を組み伏せられるのは本気になった父だけだ、との絶対。
「ふむ…面白そうだな。ひとまず着いていってやろう」
何者の気配も周囲に感じられない。
最低限の慎重さを持って、少女は答えた。
「おお、そっか、ありがとう。素直で助かるわ〜」
(滑稽なものだ。この私に軽口を叩く羽虫が…さぞかし、愉快な悲鳴を聞かせてくれる事だろう)
「ああそうだ。長旅で疲れたろ〜お近付きの印といっちゃナンだけど、精を君に補給してあげたいんだが」
ここで事件が起きた。
サキュバスに捧げる精。
それは勿論、精子のことである。
青年からすれば少女はサキュバスだ。
サキュバスの栄養源は精子。
すなわち腹減ったろう、何か食うか? のニュアンス。
これは彼なりに気を遣った言葉であった。
(ほぅ、自ら悪魔に精気を差し出す、か。殊勝な事だ)
齟齬。
彼女の受け取った精、という言葉は、生命エネルギーの意味だった。
そして繰り返すが、少女は箱入りだ。
サキュバスらが行う吸精の意味を理解していなかった。
「いいだろう、では早速寄越して貰おうではないか」
「こ、ここで? ちゃんとした部屋を用意するぜ?」
(コイツ、さては誘い込むつもりか?)
警戒した少女は結果として、あらぬ誤解を与える。
「ここでしろ。移動はしない」
(コイツ、見かけによらず屋外でヤリたい派か?)
「わ、分かったよ」
(残念だったな作戦失敗だ。無駄に私に精気を差し出すだけの結果にとなった訳−−)
刹那、青年は服を脱ぎ始めた。
「なっ!? き、貴様、何をしている!?」
「えっ…いや、精の補給だけど…まさか着衣でヤル派だった?」
少女は狼狽えた。
相手の言葉の意味が理解出来ない。
そもそも精の補給だとかは脱衣するものなのか、と。
そして青年もまた困惑していた。
眼前のサキュバスは特殊過ぎやしないか、と。
「もしかして…生まれたてとかでやった事ない、とか?」
青年の言葉に、青髪の少女の内面は激しく反発した。
高いプライド故に知らない等と、言える筈もなかったのだ。
「ば、馬鹿にしないで貰おうか。私は脱衣などしない派なのだ。着衣で良い」
(ああ…こりゃあ、吸精経験なしか)
そう悟った青年は、出来うるだけ少女をリラックスさせ、言葉巧みに誘導し、そして−−
供給した。
−−結果、二ヶ月後。
「じゃあ、行って来るぜ。夜には帰る」
夢色魔殺しの青年、イーザはそう言い屋敷を出る。
「行ってらっしゃいませマスター…イーザ」
青目、青髪の少女はそう言い、主を見送った。




