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 エセルが口を開こうとした瞬間、トントンと扉を叩く音が遮る。


「どうぞ」

「失礼致します、お嬢さま」


 開いた扉の向こうで、メイドが一礼する。


「お話し中、申し訳ございません。

 至急、お知らせしたいことがございまして」

「どうした」


 男は立ち上がって、きびきびと問い質す。


「大奥様のご指示で手配しておりました、コルンウッド様からお借りする予定の手袋が、この大雨で予定通りに届かないかもしれないとのことです」

「……そうか。

 コルンウッド様からのお返事が遅かった時点で、大奥様に進言するべきだった――私の判断ミスだ。メイド長はもうご存知か」

「いえ、まだです」

「それならば早急に知らせてくれ。代わりの手段を考え――」

「待って」


 エセルは男の声を遮るように立ち上がる。

 思いついたことはすぐに実行せずにはいられない。


 怖じ気づいてはだめ、エセル。


 ぎゅうっと両手を握りしめ、エセルはことさらはきはきと言う。


「メイド長には、お母さまの手袋を出して来るようにお願いしてちょうだい。

 花嫁衣装に手袋が欠けているのは問題ですもの。

 ドレスとヴェールが残っているならば、手袋もちゃんとあるはずでしょ」

「ですが、お嬢さま」

「コルンウッド様の手袋って、〈なにかひとつ借りたもの〉なのでしょう?

 他のもので借りる当てがあるから、そちらは心配しないで。

 ねえ、お願い。

 ひとつくらい、私に〈サムシング・フォー〉を決めさせてほしいの」

「しかし」


 渋る男をじっと見つめる。


「この結婚は、私がするのよ?」


 事実だがこれっぽっちもそうとは思っていないだめ押しの一言を投げかける。

 この言葉が、この事実が、どれだけこの男に効くのか――それを試してみたい気持ちもあった。


「……わかりました」


 思案した後に呟かれた言葉に、エセルはほっとため息をつく。


「君は、メイド長と一緒に手袋の件を頼む。

 手袋を出して来たら刺繍をヴェールと同じく新しくするように手配してくれ。

 コルンウッド様へは、私が対応する。すぐに行く」

「承りました。失礼致します」


 メイドが下がると、男はエセルの方を向いていつになく早口で言った。


「お嬢さま、いったい何をお考えなのですか。他に借りる当てのあるものなど――」

「借りたいものは、あるわ」


 ひるむな、と、エセルは自分に言い聞かせる。

 一歩も引いてはだめ。

 意味がわからない、という表情で、男はエセルを見つめている。


「ねえ、〈なにかひとつ借りたもの〉には、どういう意味があるんだったっけ?」


 立ったまま、身体の震えが声に伝わらないよう自分を制しながら、エセルは言う。

 言い出したら聞かないエセルの強情さを知っているからか、男はため息まじりに答える。


「……友人や隣人との縁を表し、幸せな家庭をもつ方にあやかるという意味がございます」


 百科事典を読み上げるかのような、機械的な模範解答。

 あまりに彼らしい答え方に、エセルは少しだけ哀しげに微笑む。


「私が嫁いだ後、あなたも結婚するんでしょ? メイド長の姪御さんと」

「どうして、それを……」


 初めて動揺したように眉をひそめる。

 戸惑った彼の瞳に、自分の姿が揺れている。

 知られたくないと隠していたことくらい、エセルはとっくに知っていた。

 決して乱されないはずの表情が乱れている。

 この男の内側を自分の言葉で乱したいと、ずっとそう思っていたのに、今はそれがたまらなく気に入らない。


 気に入らない、気に入らない、気に入らない。


「幸せになるんでしょ」


 私のいないどこかで。


「幸せな家庭を、築くんでしょ」


 私には呼びかけない名前を、そのくちびるに乗せて。


「それなら、あなたから〈なにかひとつ借りたもの〉を借りたって、問題ないのよね?」

「……いったい、何を――」


 お願い、もう何も言わないで。

 私の望まない言葉ばかり、いたずらにささやかないで。


 長いスカートの裾がひるがえるのも構わずに、エセルは男の首元にすがりつく。

 見た目ほど華奢ではない彼の身体に触れて。


「――」


 見たくない現実を見なくて済むように、今だけ、目を閉じて。


「――」


 彼が、目を閉じているかはわからない。

 でもその腕が、そっと自分の背中にまわって。

 ふれている部分から、熱が伝って。


 あなたの熱も、私の熱も、ぜんぶぜんぶ一緒にして。




 くちびるを、借りていく。




 ねえ。

 雨が、降っているよ。

 あの日みたいに。





 壊れた時計しかないこの部屋では、時間の感覚が消え去ってしまう。

 それが、くちびるを重ねている時間ならば、なおさら。


 そんなに長くはなかったのだろう。

 それでも、これから先、二度と訪れない時間であることを考えれば、十分すぎるほどに永かった――そう、思いたかった。



 背中に回された男の両手が肩に移って、そっと離される。

 くちびるから途端に、寂しさが戻る。

 息を整えるエセルの瞳を、男は覗き込む。


「返して頂けるのですか」

「……え」


 一点を見つめる視線に絡めとられ、エセルは身動きも返事もできない。


「今借りたものは、返して頂けるのですか」

「……」

「返す当てもないのに借りて行くというのは、無茶ですよ、お嬢さま」


 そう言って襟元を整え、男はさっと身体を離した。

 まるで何事もなかったかのような横顔を見せる男の隣で、エセルの身体は薄暗い部屋を浸す冷たい空気に、あっという間に取り囲まれる。


 前よりもいっそう、冷えていく。


「もう、行かなければなりません」

「……」

「以上で、〈サムシング・フォー〉の説明を終わります。

 お時間を割いて頂いて、ありがとうございました――失礼致します」


 そう言って一礼すると、男は踵を返して扉へと向かう。


「ねえ、待って!」

「何でしょうか」

「まだ一つ、説明が残っているわ」


 テーブルの上に残る首飾りのケースとレースの切れ端を見遣って、エセルは言った。

 〈なにかひとつ古いもの〉、〈なにかひとつ新しいもの〉、〈なにかひとつ借りたもの〉まではここに揃っているのに、ひとつ欠けている。

 振り向いた男の顔は、気づかれたか、と言いたげに眉をひそめていた。


「……お嬢さま、〈サムシング・フォー〉の四つが何かは、ご存知ですよね」

「ええ」

「それぞれ何を示すかも、おわかり頂けておりますよね」

「もちろん」

「では、ここに欠けているもの――〈なにかひとつ青いもの〉は、いったい何を象徴するものでしょうか」

「聖母様を表すものよ」

「正解です、お嬢さま」


 教師のように言って、男は一呼吸置いた。



「〈なにかひとつ青いもの〉が象徴するのは、聖母様の()()です」



 正解を補う言葉に、エセルは思わず目を見開いた。


 知らなかったわ、とも言えないまま立ち尽くすエセルの驚きを見透かしたように、男はじっとエセルを見つめて、言う。


「貴女は、嘘つきになりたいのですか?」


 彼の眸が、エセルを縛り付ける。


「できれば私は、貴女に嘘を吐かせたくない」


 何かに呆れたような、何かを嘲笑うような、何かを諦めるような、それでいてどこか甘やかな響きを残して、彼の言葉がエセルを貫く。


「貴女に〈なにかひとつ青いもの〉を身につけて、結婚式にご出席下さいなどと言う資格は――」


 そこまで言って、男はふうっと息を吐く。


()にはない。そうだろう?」


 エセルに向けられる眸の色が、変わる。


 ぞくり、と、艶やかな熱がエセルの背筋を駆け上がる。

 そうだ、私はこの熱を、とうの昔に知っている。

 男は右手の白い手袋を外すと、ポケットに手を入れる。


「だからこれは、俺のものだ」


 掲げて見せた男の右手。

 細い指に、青いリボンが絡まる。


 そう、あれは、私のリボン。

 髪飾りに使っていた青いリボン。

 小さい頃からずっと大切にしていた……転んで乱れれば必ず彼が直してくれた、髪飾りの青いリボン。


 でも、あの日だけは、直してくれなかった。


 この部屋で外したとき――いや、彼が外してくれたとき――乱れた髪がゆらりと肩へ落ちて、彼の指先に絡まって、今感じているのと同じ艶やかな熱がここにあって、そうしていつの間にか、髪飾りは消えていた。

 どこかへ失くしてしまったと、思っていた。


 〈なにかひとつ青いもの〉、髪飾りの青いリボン。


「この部屋ごとぜんぶ……あの日ごとぜんぶ、俺のものだ。

 これから先も、ずっと」


 そうして、彼は背を向ける。


「さよなら――エセル」


 扉を開けて、行ってしまう。


 すべての音が消えて。

 雨音に飲み込まれて。


「ああ……あぁぁ、ぁぁ……」


 あの日と同じように降る雨のこちら側で、エセルはあの日と同じように泣いた。


 彼は行ってしまう。

 借りたものを、返す当てもないまま。




 泣いて、泣いて、締めつけられる胸の奥で、教会の鐘の音が鳴る。


 いつかそれが、道を分つ二人の行く先を祝福する鐘の音だったと思える日が、来るのだろうか。

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