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現実のような悪夢

 「どうしたの? ぼうっとして」とムウナが言った。輻射式冷暖房機がごうごうと冷えた風を送る音が聞こえた。

「いや。なんでもないよ」ナトリの目が瞬いた。夢と現実の境にいた頭の中がすっきりとし、ぼやけた視界が晴れていく感覚はナトリには不快なものだった。ひどい悪夢を見ていたような気がする。ナトリはムウナに目をやった。彼女は椅子の上で前屈みになって目の前のテレビを食い入る目つきで見ていた。肘で押さえつけられた太ももに皺が寄り、Mと書かれたテープが剥がれかけていた。真っ黒な部屋で真っ黒な半袖服を着、ベージュのズボンを穿いていた。真っ暗な部屋の中でテレビの前に座る彼女の姿だけしっかりと見ることができた。チカチカと彼女の顔が照らされると、生気を失った瞳に映像が映る。テレビに映る人たちが笑っても、彼女はくすりとて笑わなかった。

「もう時間だから行かないといけないわ」ムウナは目線をずらすことなく言った。

「おれも行かないといけないのか?」ナトリは足をソファに上げて横になって聞いた。

「当たり前でしょう。すべきことなのよ」ムウナはリビングから洗面台に移動し、鏡に映る真っ白な顔を眺めると鼻っ柱から首にかけて冷水を浴びせた。テレビの電源を落とすとパシャパシャと水音が聞こえ、ナトリは心底嫌気がさした。

「どうせなら。化け物には支度をする間のおれの記憶を食って欲しいもんだ。おれは朝のこの時間がとてつもなく嫌いだからな。分かるだろう。いや…」彼女にはどの言葉も聞こえない。全ては水音にかき消され、たとえかき消されなくとも彼女は聞く耳なんて持たない。キュ、と蛇口を閉める音が鳴るとムウナが言った。「情けない。そんな暗い顔してないで、もっと明るくいかないと」今から化け物を倒しに行くのに明るくだって? 冗談じゃない。ナトリはしかしながらムウナの言葉を噛みしめて思った。明るくやらねば、これをずっと続けていくんだ。

ナトリは外出の準備を整え、せっせと動き回るムウナが立ち止まるまで待った。「鼠みたいによく動くな」

「当たり前でしょう。私たちは鼠のように這い回り、精神分身生命体フィードを倒すのよ。私たちは障害を乗り越えてはじめて先に進めるのよ。とっても当たり前なことでしょう」準備ができたみたいだった。ムウナが扉を開けて、と無言のうなずきを寄越したので、ナトリは扉を開けた。

黄色い光に包まれた街。よく日に焼けた男が目の前を通っていった。そのすぐ後には肌の白いご婦人が黒い日傘を差しながら通り過ぎていった。暗い部屋は背後で音を立てて閉じられた。鍵を回す音が聞こえるとムウナがナトリの前に立ち、言った。「さあ、行きましょう」きつい日差しの中をずんずんと突き進んでいく彼女の背中を追いかける。ナトリは奇妙な感覚を覚えた。ずっと彼女を信じていない自分がいる。彼女はきっとどこかで自分を裏切って今にも逃げ出すに違いない。ナトリは疑心暗鬼になっていた。きっと記憶を食う化け物のせいに違いない。あったはずの大切な記憶を食われたのだろう、とナトリは納得しようとした。不安が増していくにつれてフィードに対する怒りがふつふつと煮えたぎってくる。ムウナは気づいただろうか。ナトリは努めて平静を装った。ナトリは街並みの中に目線を泳がせた。人々の急ぐ足が地面をうち、熱気をかき混ぜた。雑踏がより一層この街の熱を上げているようだった。「街の気温を下げるためにみんなを屋内に閉じ込める政策とってくれないものかね。人の波を見ていると、余計に暑さが増していく感じがするよ。なあ、ムウナ? 引きこもり政策ってどうだ」

ムウナは頬を赤く染めて、涼しげな顔をしていた。「それじゃ病気になるわ」

「家を斜面に建てればいい。もしくは、でこぼこ道に。家にいてもほんの少し動くだけで結構な労力がかかるようにするのさ。まあ、リラックスはできないかもしれないが」

「もっといい考えが私にはあるわ。ナトリは聞きたい?」雑踏が消えた。ナトリが周囲に目を配ったとき、人々はいなくなっていた。いや、単に人目のつかない路地に入っただけだ、とナトリは思おうとした。背筋に寒気が走った。

「これ言ったかも知れない。私たちは実験台にされているの。証拠はないけど、そんな気がする。もし私の想像が現実なら、周りにいる人たちは皆、私たちの幻覚が見せる影だ。本当は存在しない。私たちは勝手に見ているだけ」ムウナは冗談めかして薄く笑っていた。邪気のない笑顔を見て、鼓動していた心臓がゆっくりになるのをナトリは感じた。ムウナは冗談だよ、と言った。

「調子が悪いようね。どこかで休みましょう」ムウナは向かいにある喫茶店を指さした。

「あそこにしましょうか」とムウナは聞いた。

「よさげなところだな」ナトリはつかつかと突き進む彼女の足音についていった。店内に足を踏み入れると空調設備が整った頬を伝っていく汗がすうっと引いていくのを感じた。店内には数種類のコーヒーと茶菓子が陳列されてあった。茶菓子の甘い匂いがナトリの鼻孔をくすぐった。よく見ると、そのすべてがドーナツだったが、この際何でもいいよとムウナに言った。「呆れた。私に買ってこいって?」

フィードという化け物は記憶を食うということをナトリは不意に思いだした。であればおれの食ったドーナツの味の記憶さえ彼らは食べることができる。食われる記憶がそんなちっぽけなどうでもいい情報なら誰も苦労はしないし、おれたちが彼らを始末する必要もなくなるかもしれない。ナトリは自然と前向きに考えるように変わり、彼女の言った暗い考えを頭から追い払おうとした。

ムウナはトレイにたった二つの、それもとびっきり地味なドーナツを載せて席に戻ってきた。

「さあ、どうぞ。好きなものを選んで良いわよ」ムウナは満面の笑みを浮かべて言った。

「二つしかない。しかもこれは、そうだな。きっとこの店で一番二番に安いものだろう?」

「あら。せっかく選んできて上げたのに、満足じゃないのかしら」ナトリはしぶしぶ荒く固い生地でできたゴツゴツした方を手に取った。がりりと噛みつくと、砂糖の甘い風味が鼻を抜けていった。

「そうだ。おれたち人間の記憶も地味でつまらないものに加工し、種類を減らせばいいんじゃんないか? そうすれば彼らも代わり映えしない味に飽き飽きして…。ムウナもそう思わないか?」

「そうね。きっとどこかの誰かもそう思ったし、あなたと同じように考えた。だから、私たちがここにいるんじゃないの? 私たちは記憶のバックアップデータの復元を禁止されてる。それがいい証拠じゃない」

暗い考えがナトリの脳裏をよぎった。「やっぱりおれたちはモルモットなのか?」言った後でムウナに聞いたところで意味などないことに気づき、ナトリは自然とうつむき加減になった。

彼女の目線から逃げていると二人の間に不快な空気が流れ始めたのを感じ取り、ナトリはそわそわして立上がった。「もう体調はよくなったよ。そろそろ行こうか」

ムウナは不安そうに顔をゆがめた。しかし、それは一瞬だったので見間違いだとナトリは思うことにした。彼女もまたナトリという男を信用していないのではないか。ナトリはどうしてもお互いに緊張している空気が流れている不快感をぬぐい去ることができなかった。ムウナはハッとため息のような吐息を吐きつけた。それがどのような意味を持っているのかナトリには分からなかったので、さらに不安感が募った。何の意味も無いよ。ムウナの口からその言葉が漏れ出るのをナトリはじっと待った。

外は相変わらずじりじりと焼け付くような日差しで黄色く光っていた。

黄色い光がしだいに赤く染まっていくのをナトリは見た。真っ赤な景色がナトリの気持ちを昂ぶらせた。ムウナは外を見て立上がり言った。「行きましょうか」「行くってどこに?」

ムウナは言った。「フィードのいる場所へ」ナトリが店から外に出たとき、目の前を再び男が通っていった。その後ろを女が追いかけるように歩いて行った。

「ねえ。どうしてあなたは彼らを無視するの? もしかしたら彼らは私達の追いかけているフィードかもしれないのよ」ナトリは遠ざかっていく男と女の背中をじっと見つめた。彼らがフィードであるはずがない。しかし、その根拠はどこにある? ナトリはどれが敵か味方か分からなくなった。目がぐるぐると回り始めた。

「ナトリ。あの人、とても怪しいわ」赤い空に照らされた人々の顔は怒っているように見えた。ムウナが指さすあの人も、この人も一体どこから湧いて出てきたんだ? ナトリはあっちへこっちへと視線を動かし、落ち着きのない手足が体のあちこちをまさぐった。疑うことの度が過ぎれば、おれは絶望を覚える。

「一番怪しいのは君だよ、ムウナ。だけれど、そんなことを考えてしまえばもうお終いじゃないか。おれたちはもう信じるしか道は残されていないんだ。基本的な信頼がないと。信じないといけないんだ。人とすれ違う度にすれ違った人が悪か善かを君は考えるのか? 確かに殺人者かもしれないし、フィードかもしれない。彼、彼女がポケットに突っ込んだ手に握られているものは何だ? ナイフか? 拳銃か? いや、ただの財布かもしれない。あらゆる人は全知全能じゃないのだから、みんな目の前にいる人をいい人だと信じるしかない。こういってしまうと信じる力は人の愚かさゆえの、人の弱さゆえの力に見えるかな。でも、本当は絶大な力なんだ! これでもムウナはおれを疑うのだろうか」

ムウナはほっと安堵の息をついた。「よく分かっているじゃないの。でも心外だわ。私はあなたを信じてる。信じていないのはナトリの方よ。ほら、もしナトリが敵の手に落ちたときや倒されてしまったとき、諦めないでほしい。あなたが倒れたときは私がきっと助けに行くわ。私は自分を貶めたやつを決して忘れたことはないし、どれほど醜いと言われようと絶対に復讐をするような惨めな女かもしれない。だけど、信じることを忘れてはいないつもりよ。生き残るためには必要なことだもの」

ナトリは空が黒く染まっていくのを見た。ムウナがもう隣にいないことは何となく分かっていた。男が目の前に立っていた。暗い道の上に明らかな警戒心を抱えて立っていた。今にも彼は殴りかかってきそうな勢いでナトリに向かって走ってきた。彼には見覚えがあった。


ナトリは背中を壁に預けて、足を伸ばして座っていた。現実感がなかったので拳を握りしめると、じわっと汗が噴き出るのが感じられた。「起きたのかしら? とてもうなされていたわ」とムウナが聞いた。心なしかムウナの物腰が柔らかくなったようにナトリは感じた。「おかしな夢を見た。君とお茶をする夢。そう言えば、おれを殴ったあの男は?」

「さてね。どこを探しても見当たらなくて。どっかに行ったんだわ、きっと」ムウナはそう言いつつ、血に濡れた右腕を掴むと手の中にあったナイフをポケットに隠した。ナトリは顔を歪めて言った。「そうか。おれたちはもうそこまで。そうだ。おれたちは早くみんなを救うためにフィードを倒さなければならない。ムウナはどうする?」

「私は真実が知りたかったの。だから、ナトリを殴ったあの男に聞いてみたんだけど、彼も何も知らないみたいだった。もしかしたら、私達は最後の人類かもしれない。精神分身生命体フィードに私達の大地はすでに奪われてしまったのかも。どうしようもないわね。けど私も進むわ」

ナトリは内に怒りを抱えていたがなんとか押さえつけた。ムウナが手を差し伸べようとすると、ナトリは立上がり壁に手をつきながら一歩一歩踏みしめていった。

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