悪夢のような世界
床がスライムのような弾力を持っていたので、ナトリは危うく転びそうになった。
「ムウナ? どうしてここにいるんだ?」部屋は暗闇に包まれ、ほかに何も見えない。彼女の姿だけがぼんやりと浮かんでいた。
「ここにいたら何か不味いのかしら?」ムウナは辺りを見回した。「何も見えないわね」
「殺されるぞ」
「誰によ?」
「組織のやつらにさ」ムウナはピンと来たようだ。「ああ。組織ね」
ナトリは急いでムウナの手を取り、引っ張った。「だから早く逃げるぞ」
「逃げても無駄よ」とムウナ。
「どうして?」ムウナはニヤッと笑って言った。「あいつらは人の精神を支配できるもの。敵は外にいるのではないわ。内にいるのよ」そう言うと、ムウナは胸の中央を拳で叩いた。
「じゃあ、おれたちはどこに逃げようと…」ナトリが渋るのを見て、ムウナは後を継いだ。「捕まって、殺される運命にあるってことね」
〈RESTROOM〉と書かれたプレートが光っている。二回点滅するとすぐに消え、また暗闇に戻った。近くからブチブチッと何かを引き抜く音が聞こえた。「ごめんなさい。夢ではないみたい。少し髪の毛を抜いてみたんだけど、すごく痛いわ」
ナトリが壁に背中を預けると、これはゴツゴツした岩肌だった。またブチブチと音が鳴った。
「おい、それをやめろ」ムウナはキョトンとした。どうやら頭のネジが一本抜けているらしい。
ナトリは欠伸をして、何とか眠気を噛み殺すがウトウトしはじめた。暗い。ここは現実か? 足音が遠くから聞こえてきた。次第に近づいてくるのが分かる。四方に広がる闇に耳をそばだてるが、ムウナの身じろぎと怪しい足音しか聞こえない。
「まずい。誰か来たぞ」ムウナはその長髪を肩で切りそろえ、短髪にしていた。手には長い髪の束があった。「おい。お前それをどうやって切ったんだ?」返事はない。「おい! お前…」
ムウナは言った。「ハサミに決まってるじゃない」
ナトリはムウナに噛みついた。反撃される前に奪ってやろうとナトリは思った。
ムウナの尻ポケットに鉄の感触を感じた。「やめて! 私に触らないで!」腹に何発も喰らったが、痛みなんてお構いなしにムウナにしがみつき、ハサミを引っこ抜いた。ナトリは気づけば床に腰を打ち付けていた。
ムウナはナトリをギリギリと締め上げ、肩に顔を載せて言った。「たいしたものね。でも賢くない」「くそったれ」首を絞められ、呻いた。「我慢していればさっきから口の悪いやつ。あんたみたいな愚かな男を絞め殺す以上の快感はないわ。指の一本くらい折ってもいいかしら…」
床はスライムのように柔らかく、踏ん張りがきかなかった。「くそ陰険…」口を開いたとき、ムウナに手で塞がれた。足音だ。すぐそこまで来ていた。靴音がエコーしている。彼女の手からは汗の臭いと石けんの匂いがした。
鉄の擦れ合う音。キィと扉が開く音が鳴った。生暖かい風が足下に流れてくる。嫌に長い緊張がピリピリと肌を突き刺した。ムウナの目は鋭く尖り、目の前の何かを見つめていた。
足音が離れていくのが分かったとき、ほっとした。「敵が何者かあんたは知っているの? 精神を支配できるという私の言葉に少しの疑問も抱かないなんて。まさかただの馬鹿ではないでしょう?」ムウナはナトリの口元から手を剥がして言った。離せよ。ナトリは立上がり埃を叩いた。
「知っているのは噂程度。みんな口を揃えて同じことを言うもんだ。きっとムウナも皆と同じで特別なことは知らないだろう。そう思ったんだよ」
それにムウナが敵か味方か分からない状況で、優位性を保っておきたいとナトリは考えていた。ムウナこそどこまで知っているんだ? ムウナのじとっとした監視の目がムウナの心の内を見抜こうと、探ってきている感覚がする。精神の支配。ならば心に隙間をつくれば最後、記憶を食い尽くされ自己を保てなくなる恐れがある…。
「私が皆と同じように見えるの?」いや、見えなかった。ムウナは恐れを知らない。今もナトリの懐にするりと入り、ナトリの鼻先から目をいっときも離さない。彼女は不適な笑みを浮かべていた。おれはいつだってお前をハサミで刺し殺せるんだぞ! だめだ。平静を保て! 心の内がぐるぐるとかき混ぜられる思いがした。「私が皆と同じように見えるの?」みんなとは誰で。同じとはどのように?
「いや、見えない。他人より気丈で陰険な点で」
ムウナは笑みを引っ込めて言った。「気丈な私に向かって陰険呼ばわり? いい度胸。あんたは未熟でナイーブな青年ってところだけど、他人に対する気配りに関してもっと成熟するべきよ」彼女はため息をついた。ため息をつきたいのはおれの方だ、とナトリは言いたかった。そのとき、また足音が響いてきた。鉄の擦れ合う音。同じだ。組織のやつらは一定の間隔をおいて見回っているのか? 生暖かい風が足下に流れてきた。足音が離れていくと、ムウナは言った。
「あんたが知っている噂話を教えてくれない? もしかしたら私が知らない情報が含まれているかも知れないじゃない」
早くしないとまたやつらはやってくる。ムウナは早く、と急かしてきた。ナトリは言った。
「噂ではおれら人間の精神の分身体って話だ。おれらの夢が巣らしい。彼らは、そこから抜け出してデータを食って生きている。もともとは人の記憶が主食だったらしいが、もちろんおれたち人間はそんなこと望まない。だから対策をした。しかし彼らも生きるのに必死なんだろう。彼らは消される前にこの現実に逃げ出したんだ。今の状況の原因は簡単に言ってしまえば、この頭の中にある精神」半ば独白のように喋っていると、ムウナは鼻をならして扉に向かった。扉の向こうを見ている。
「対策…」ムウナは左右を警戒しながらナトリを振り返った。「まさか。私たちの記憶をあらかじめ消しておいたの?」ムウナは眉を寄せて何かを思いついたようだった。「やつらに食われる前に。いや、嘘よ。嘘。そんなの嘘」
ムウナはナトリに近づき、問い詰めるように言った。「どうして? 私の記憶がないのは…」ムウナはそれ以上考えたくないと思い、頭を振った。
「おれたちの記憶がないのは、おれたちが意図して自分の記憶を安全な場所に移したからだ。やつらに食われたからじゃない」
「どうしてそう言い切れるの? あんたにも記憶がないのよね。でも、やつらが精神を支配できる能力を持っていることを忘れたわじゃないでしょう? もうとっくに私たちの頭はおかしくなっていて、トリップしちゃってるかもしれない」カツンと、足音が音高く鳴り響いた。ナトリはシッと口の前で人差し指を立てた。喋るんじゃない。やつだ。ナトリの心臓はバクバクと絶叫し、こだましていた。
ムウナは小声で怒りをのせた口調で言った。「きっとこれは実験だわ」
「私きっと洗脳されたのよ。ねえ、あんたどっちの人間なの? 被害者、それともやつらの手先? そうだわ。あんたを信用するかしないか、試されているのね」
ムウナは疑心暗鬼になっていた。どうやらやつら仕掛ける気らしい。荒い息づかいが微かに聞こえてきた。湿っぽい空気。
「信用してあげる」ムウナはそう言うと、足に力を入れて地面を蹴った。一人の男らしき人影がちょうど外から顔を覗かせると、びっくりした顔つきになった。ナトリも続いて外に出た。
何も変わらない。暗闇の中。彼女は髪の毛を束ねたもので敵の喉元を締め上げていた。
「もっと抵抗してくれない?」気づけば、やつは床にぐったりと伸びていた。あきれて物も言えないというように、ムウナはため息をついた。「残念」
ナトリは男の肩に刺繍が入れてあることに目がいった。奇妙な印だ。肩章だとすれば、彼らに階級というものがあるということになる。フィード? 組織名かもしれないとナトリは思った。ムウナとナトリは静かな足取りで手探りに周囲を警戒した。異常な感覚がナトリを支配していた。視覚がきかないのだ。
突然、ムウナが悲鳴をあげた。続いて絶叫が響いた。きっとおれたちはとっくに狂っているんだ、とナトリは思った。頭が沸騰しそうなのを、なんとか抑え込んでいる。つんざくような声を聞いて、遂になのかと思った。彼女は発狂したんだ! 気狂った者しか聞くことのできない生々しい音が鳴った。倒れていたはずの男は起き上がり、右手にナイフを持っていた。ナイフは血に濡れていた。
ムウナが呻くのを聞き、ようやく彼女が足を刺されたのだと分かった。「私の足が!」ムウナは走り出した。血がボコボコと溢れていることはお構いなしに、ムウナは逃げ去り、向こうの闇に姿をくらました。
ナトリがふるえる足を動かすと、関節が軋む感覚が走った。「もがくか?」男は刃先をナトリに向けて聞いた。そのナイフに目を止めたナトリは後ずさりし、逃げだそうと背後の闇に目を向けた。もし一歩先が崖下真っ逆さまだったとしても、走り出すしかなかった。やつは追いかけてきた! ナトリはどうしておれではなくムウナを追いかけないのかと不思議に思った。ナトリは勢い余って壁に鼻っ柱をぶつけた。鼻血がとめどなくあふれると、クラクラする頭が鮮明になり、反射的に腰を下ろした。自分の鼻形の汗がついている。その壁にナイフが突き立てられたが、すぐに折れてしまった。
助かったと思う暇なんてないままに、ナトリは転がってまた走り出した。風呂に浸かっている自分の姿を想像できるか? ゴキブリが視界の端を蠢いているみたいだった。左右に首を振って、確認して見てもそれはただの染みだった。安らぎから遠い所におれは来てしまった、とナトリは奥歯を噛みしめた。ここは無味の世界。やはりおれはモルモットなのだろうか、ナトリは暗い考えに支配されはじめていた。
足はガクガクとふるえ、全身の筋肉が緊張し続けた。氷の彫像のように手足が硬くなりはじめていた。
覚えているのは、やつの拳がおれの眉間に向かって飛んできたことだけだ。




