第22話 キスはゴールですか?
レイナルト様が、私の手を掴み走り出した。
まだ酒場の喧騒が耳に残っている気がします。
夜も深まり、月が隠れてしまったからか、いつもより、夜空に星が瞬いているように感じた。
前を走るレイナルト様に追いつこうと、必死に足を動かすけれど。
――待って!速すぎる……!
「……あっ!」
私が足を縺れさせて転びそうになった瞬間、ふわりと身体が浮いた。
いつの間にか、レイナルト様に抱き上げられていた。
「だ、だ、旦那様!?重いですから、降ろしてください!」
「……はは。そうだった。君は変なことを気にする」
無防備に笑う彼を直視できないのは、なぜでしょう。
レイナルト様が黒髪のかつらで、別人みたいに笑うから?
それとも、私の手を掴む力強さ?
その全部なのか、違うのか、それすらわからない。
わからないのが、少し怖くて……でも、覗き込みたくなる。
「なあクララ。青年は、走り出した時に恐怖を克服したと思うか?」
それは……。
レイナルト様は、抱き上げた私の耳元で囁いた。
擽ったくて、思わず首をすくめてしまう。
「……怖かったと思います。いつだって、本音を言うのは怖いです――」
「そうだな。そして、愛する女性の本音を聞くのも怖いよな」
中央広場にたどり着き、ようやくベンチに下ろしてくれた。
それだけでもホッとする。
微かな明かりに照らされたレイナルト様が別人のようだ。
「俺は、最初からずっと臆病だったのかもしれない。権力を使って走り出して、求めていた女性を手に入れてしまった」
真剣な眼差しで見つめられ、そっと手を取られる。
――やめて。
だって、私だって傷つきたくないんです。
このまま好きになってしまったら?
もし、本気になってしまったら……。
これから先、レイナルト様を失うことがあったら私は――。
「旦那様。あの、今日は楽しかったですね!また、来ましょう……」
視線を下げて、足元を見つめる。
庶民の靴は、本当に歩きやすい。
だから、また“旦那様”とお忍びデートも悪くありません。
「……クララ。目を閉じて。君の旦那が妻に口付けたいらしい」
「……!」
いきなり言われた言葉に、驚いて顔を上げた。
そうでした。
レイナルト様が、いつも求めてこないから忘れていた。
旦那様の求めに応える――それが妻の義務でした。
ギュッと目を瞑り、覚悟を決めて待った。
「――クララはいい伴侶だ。妻の役割も果たせるよな。俺もずっと求められていたように、夫の義務を果たそうか」
夫の義務?
その言葉を聞いた瞬間、胸に痛みが走った。
自分が、何度も何度もレイナルト様に言っていた言葉なのに。
私たちの関係は“義務”――。
夫婦の関係が進む。
それだけで、私は……レイナルト様は幸せになれるの?
唇に吐息がかかった。
思わず身体に力が入ってしまう。
これが義務だとしても、私は……。
しかし、レイナルト様が触れたのは唇の横だった。
しかも唇が当たったのかすらわからない。
指先だったような気もする。
「……やっぱり無理だ。夫の義務?俺は、そんな軽い感情でクララに触れたくない。もう、やめておこう」
目を開けると、レイナルト様が両手で顔を覆っていた。
掠れた声は痛ましげで、少し残念に感じた私の心に冷水をかけた。
「わ、私は嫌じゃありません!」
「無理はしなくていい。……なぁ、クララ。多分初夜をやり直すと、君が想像している以上のことをするんだ」
ですが、それが夫婦だと言われて育ちました。
旦那様に任せなさい。
何をされても拒否しないように、と。
「……無理じゃありません。わ、私にだってできるはずです」
「ああ、俺だって。あの夜、無理やり抱くことだってできたんだ」
それは、私が何度も責めてしまった夜のことでした。
レイナルト様は“私”を拒否したのではなく“義務”が嫌だったということ?
「……だが、君は俺が苦手だっただろう?」
自嘲気味な声が、頭の中で何度も反芻されます。
確かに最初は、レイナルト様が苦手だった。
だって、彼は伯爵様で私とは全然違う人で――。
……でも、普通に笑って、猫と喧嘩して、揶揄われて怒る、伯爵様じゃない。
レイナルト様だった。
私は、レイナルト様を見ていたのでしょうか。
それとも、私を“選んでくれた人”として見ていたのでしょうか。
レイナルト様から求婚されて、本当に嬉しかったのです。
ようやく、周りと同じように『普通の令嬢』として扱われた気がしたのでした。
そして今、私たちはどんな関係になっているのでしょうか。
――確かめたい。
「旦那様。あの、きちんと……キスしてください」
「……駄目だ。クララ、お願いだから」
レイナルト様の、どこか途方に暮れた声が少しだけ可哀想な気がします。
私は、なんて酷いんでしょう。
「……早く、してください」
目を閉じた瞬間に、軽く唇に温かいものが当たった。
それは、掠めるようにして、すぐに離されていく。
嫌だった?
――いいえ。
我慢して耐えていた?
――いいえ。
「ようやく、わかりました。今、私はもっと触れ合いたいと思ったんです。……レイナルト様。あの、目を閉じて」
彼の首筋に腕を回すと、少し汗ばんでいるのがわかった。
嫌いな相手なら、それすらも不快でしょう?
不安と期待がない混ぜになったような、複雑な表情で目を閉じているレイナルト様。
――私の旦那様です。
彼の髪に手を差し入れてかつらを引きはがした。
元の金髪が現れた瞬間、例えようもない感情が押し寄せました。
込み上げてくる、もどかしい気持ちが身体を動かした。
「……んっ」
そのまま、彼の頬に手を添えて口付ける。
まだ足りない。
どうしてかしら?
キスはクライマックスじゃないの?
……恋物語なら、一番幸せそうなのに。
それなのに、もっと、もっとレイナルト様に触れたくなります。
そう思った瞬間に、腰と頭を固定されてレイナルト様に深く深く口付けされたのでした。
「……クララ。クララ……!」
頭の中がふわふわして、彼に酔ってしまいそう。
何度も私の名前を呼んで、口付けてくるレイナルト様。
お互いに、熱に浮かされたような感覚に陥る。
でも、それすらも甘美な夜でした。
◇◇◇
何度も重なり合うシルエットを見て、猫は視線を逸らせた。
自分には届かない。
もう失った過去だった。
いや、あったかもしれない……そんな可能性だ。
『……今ならまだ間に合う。俺には一番遠い言葉だな』
今のレイナルトは、様々な追い風が応援してくれるだろう。
これまで踏み出せずにいた男が一歩踏み出した。
――それでも、まだ足りない。
未来を知る自分は、その変化ですら足りないと判断できる。
しかし、それすらも出来なかった男が、ようやく走り出した直後の人間に言える言葉ではない。
まだ、二人の夜は長く続くだろう。
背後をもう一度だけ振り返り、猫はそのまま暗がりに消えていった。
「諦めたら、そこで試合終了ですよ」
「先生ーー!書きたくありません!でもバスケもしたくありませんーー!」




