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大新月 6

 クラーエスが姫と約束した五日後は、アルムクヴィスト王国の太祖王の遠忌でもあり、霊廟での特別行事が行われる日となっていた。厳かで盛大な儀式だ。近衛たちも全員が参列した。

 そのため姫を連れ出せるのは夜になったが、クラーエスにはその方が都合がよかった。姫が行事で動けない昼、夜まで待てと説得せずに済んだ。

 おそらくエリノルの秘密がわかるのは、夜だ。

 それも、新月の夜。

 クラーエスはそう確信していた。

 エリノルには秘密がある。

 彼は本心をけっして明らかにしようとはしないだろう。

 けれどもクラーエスはあばく方法を思いついてしまったのだ。思いついたならば、実行したかった。

 彼の密かな思いが明らかになれば、姫の恋になにかしらの決着がつき、自分の選ぶべき道も決まるだろう。


 郊外の夜道を、二人はそれぞれ馬に乗って塔へ向かった。

 今夜は新月。それもベリトとブロルと、二つの月のどちらもが新月となる、年に一度の大新月の夜だ。

 新月の夜は外に出てはならない、という迷信がある。新月は魔物がもっとも暗躍する夜、とお伽噺は語る。そして、大新月は魔物の力がもっとも強まる夜、とも。大新月とは暗闇の中、何ものかがかたわらにに息づく夜なのだ。

 夜道は暗かった。

 クラーエスが片手に下げた角灯だけが、夜の底をぼんやり照らしていた。空の方がいっぱいの星で明るいくらいだ。リンドブラードの塔の姿が、星空に浮かぶ朧な影になって見分けられた。

 クラーエスは道中お寒くはありませんか、と何度か姫に尋ねようと思った気もしたが、とうとう声をかけずに塔までたどり着いてしまった。

 姫も無言だった。塔へと気持ちをはやらせながら、馬の歩みの遅さを辛抱強くこらえていた。

 塔にたどり着くと、クラーエスは真っ直ぐに扉に向かい、取っ手に手をかけた。

 エリノルは笑みながら無条件で扉を開く魔法の鍵をくれた。これまでもクラーエスはこの鍵を使って何度か扉を開けてきた。

 今まではそれを特別なこととは思わなかったが、今夜はどうだろう。

 一瞬、危惧が(きざ)した。

 今夜もこの扉は開くはずだ。

 クラーエスは力を入れた。

 蝶番(ちょうつがい)を鈍くきしませて、扉はゆっくりと開いた。

 姫が声にならない感嘆の声を放ち、満足げに目を輝かせた。

「さあ、行きましょう」

 姫が先に立って階段を上る。

 そうやって二人が暗い階段を角灯の明かりだけを頼りに上りはじめていくらも行かないうち、塔の上部から光がさし、螺旋に下ってくる階段が暗い影の中に永遠に続くかのようにくっきりと浮かび上がった。

 そして、

「なぜ来たんだ」

 冷たい声が降ってきた。

「エリノルさま!」

 姫が足を速めた。

「二人とも、すぐに帰るんだ」

 その有無を言わさぬ強さに一瞬足を止めはしたが、

「いいえ」

 姫はひるんだ自分を励ますように顔を振り上げ、裾を踏んでしまわないよう優雅にドレスをつまみ上げ、一歩一歩階段を上り続けた。

「わたしはエリノルさまのご様子を確かめに来たのです。エリノルさまはずっと塔に誰も来ないようになさってました。まだ本当は回復なさっていないのでしょう?」

 エリノルは沈黙した。

 やがて自分も降りてくる方を選んだようだ。石壁に映った彼の影が動き出し、足音が始まった。

「姫のお気持ちには感謝します。ですが僕はもう問題はないのです。ただ、しばらく不在にしていたから薬草などの準備が滞ってしまった。それを今急いで行っているのです。だから占いを休ませてもらっているだけで、姫にご心配いただくような事態ではありません。お帰りください。さあ。僕が余計な魔法を使ってしまう前に」

「いいえ。問題はなくわたしの心配が無用だというのなら、お会いするくらい何ともないはずです。一目エリノルさまのお顔を見て、本当に大丈夫なのだとわたしが安心するまでは帰りません」

 とうとう三人は螺旋階段の途中で出会った。

 姫とクラーエスは塔の(あるじ)を見上げ、エリノルはどこか苦々しげな様子で二人を見下ろした。彼はやはり冥衣(めいい)を着ていた。そして一度倒れたからなのか、以前よりもいっそう細さを増して見えた。

「クラーエス、今すぐ姫を連れて帰ってくれ」

「いえ」

「クラーエス!」

「わたしも、好奇心が強いのです」

 クラーエスが答えると、エリノルはこめかみを押さえ、思わず湧いた怒りに近い感情を押さえたようだ。

「後日、必ず王城へ行きましょう。そこであらためてお話を。だから、とにかく、今夜は帰ってもらいたい」

「なぜです?」

 姫が言いつのった。姫は体をこわばらせ、小さく震えてすらいた。エリノルの態度が姫の期待しないものだったことに、姫はひどく傷ついていた。再会の喜びや、いたわり、瞳に宿るまごころはどこにも見あたらないのだ。

 自分はこの方の愛がなければ生きていけないとすら思っているのに。

 だがそれでも必死にエリノルを見上げるのだ。

 あなたがわたしを望んでくれさえすれば、すべてが解決するのだと訴えて。

「不意の来客を断るのは、それほど無礼なことではありませんよ」

「なぜそんなことをおっしゃるのです? エリノルさまらしくありません。父の命令ですね? そんなので諦めてしまわれるなんて、エリノルさまはそんな弱い方ではないはずです。本当のご自分を取り戻してくださるまで、わたしは絶対に帰りません!」

「姫」

 エリノルは厳しい表情をみじんも崩さなかった。

 クラーエスはエリノルが本当に魔法を使う気を起こしたのだと感じた。

 ところが次の瞬間、エリノルがはっと息をのみ、失望を隠さず気を変えた。

 魔法使いは客と入れ替わるように素早く階段を降り、二人を背に、階段の遙か下へ目を向ける。

 ほとんど同時に塔の内部に大きく音を響かせて、扉が開いた。

 さっき姫とクラーエスが入ってきた、魔法の鍵がかかった扉だ。

 下から夜の闇が触手を伸ばすように差し込んで、上から階段を照らしていた光が押し返されたように力を弱めた。クラーエスの角灯も消える。遅れてこの世の冬という冬をかき集めたほどに凍えた風が吹き上がってきて、体に当たると氷の矢が全身に突き刺さったかのような痛みが走った。

 姫はその強さにあおられて、顔を真っ青にし、しりもちをついていた。

「登って」

 エリノルが命じた。

 上からの光と下からの闇に浮かび沈み、風を受ける彼のやや長い髪と冥衣(めいい)がざわめいて舞っている。

「急いで」

「姫」

 クラーエスが手を差し出した。

 姫は混乱していた。クラーエスとエリノルと塔のそこかしこをあてもなく見回して、結局なにも判断できないまま立ち上がれずに座り込んでいる。

 エリノルはクラーエスと姫の二人についてくるよううながすと、先に塔の最上階への階段を上りはじめた。小走りに。

 何かに余裕を失い厳しい表情を見せるエイジェルステット家の魔法使いを、この時姫は初めて目の当たりにしたのだ。そんな表情を姫に見せるなど、姫にはこれこそ心凍る、信じがたいほどに恐ろしい出来事だった。

 いったいどうして、エリノルさま。寂しさを秘めていても、わたしには本当にお優しい方のはずなのに。いつだってわたしにだけはとても優しくしてくださる方のはずなのに。

 今のエリノルは、姫の知らない彼であり、心の通じ合う人とは感じられなかった。

 舞踏会では、マデリーネさまのお茶会では、あんなにエリノルさまの心が痛むくらいにわかったのに。今は、もう、手も声も届かないほど見失ってしまった。

 階段を登る足がどうしようもなくがくがくと震えた。塔を満たした冷気のせいだけではない。クラーエスが手を貸さなければ、転けまろんでいたかもしれない。

 やっと塔の(あるじ)の部屋に入ると、エリノルがすぐさま扉を閉じた。念入りに封じの呪文を施している。

「エ、エリノルさま……」

 魔法がすむと、エリノルは声をふるわす姫の脇をすり抜け、右手を振って鏡を出現させ、左手を振って棚に並べた小皿の薬草をいぶしはじめた。それだけでは足りないと、薬草の束を暖炉に放り込む。

「姫、クラーエス、入って!」

 奥の壁まで行くと、タペストリーを開く。

 姫の目にはただの壁だったところが、エリノルが手を触れたとたんにタペストリーに変わり、彼の手でそれが持ち上げられて奥に小部屋があらわれたのだ。

 姫はどうやらその小部屋へ入れと言われているのだと悟り、尻込みした。この小部屋は現実ではなく、現実の塔からはみ出して具現した、ありもしない部屋なのだ。

「ま、待って」

 クラーエスが腕を引っ張ってその小部屋へ向かおうとし、姫は体を突っ張らせてそれを拒んだ。

 背後で扉に誰かが手をかけた音がした。

 無気味な金属音が冷たく響く。

 しかし扉はうまく開かず、金属音が何度も何度もしつこく響くばかり。

 エリノルの魔法がなんとか外の物の侵入を防いでいるのだ。

 だが魔法が力尽きる時が来た。

 カチリと弾みが合った気配があり、一瞬響きが止まると、扉がうっすらと開きはじめた。

 隙間から闇が侵入してくる。

 気付いたエリノルが素早く手を振りかざして魔法で扉を押し返し、闇がしぶしぶと扉の向こうへ戻っていった。

「急いで」

「失礼」

 クラーエスは姫を抱きかかえるようにして小部屋へ駆け込んだ。奥の壁際に姫を押しつけると、すぐにエリノルも入ってきてタペストリーを落とす。

 同時にエリノルが魔法で押さえた扉が勢いよく開いた。

 氷の冷風と漆黒の闇が解き放たれて、獲物を求める狼の群れのように一気になだれ込んだ。重いタペストリーがちぎれそうなほどめくれ、エリノルとクラーエスがなんとかそれを押さえた。

 その時、クラーエスは見た。

 部屋にエリノルの着る冥衣(めいい)に似た衣をまとった人物が立っているのを。

 その身をすべて黒衣に包み込み、目すらも影の中だ。

 闇も冷風も、その人物の中からわき起こっているように見えた。

 対抗する輝きが部屋を取り囲むタペストリーから駆け出てきた。

 布に織り込まれていたイェルハルドの霊獣たちが、夏のぬくもりと黄金の光をたなびかせて狼らに立ち向かい、木々が寒風に幹をしならせ枝々を(ひるがえ)しながら闇を押し戻そうと乗り出し、色とりどりの花びらや緑の葉がちぎれ飛びつつ冬風をからめて(くう)の彼方へ吹き上がる。

 しかし闇がなぶっていった後は、霜の降りた草花のように光がしおれていき、たわわに実っていた果実がぽろぽろと落ちて転がり(しな)び、木々は裂け、霊獣たちも(かけ)る力を失って次々に倒れ伏し、やがて気づけば塔の部屋は、沈黙と凍る冷気と闇で満たされていた。

 顔を背けても恐怖そのもののような気配が押し寄せてきて、こちらの心臓を圧倒し、握りつぶそうとする。

 あれは、人ではない。

 目を閉じ石のように固まって、ただじっとあれをやり過ごす以外、人に出来ることはない。

 クラーエスは歯を食いしばって、タペストリーを押さえ続けた。

「そなたの魂は、すでに我らが(あるじ)掌中(しょうちゅう)にある」

 外で虚ろな空洞から発せられたような声が語った。

「まだすべてを渡したわけではない」

 塔の(あるじ)が返答した。小部屋に隠れた彼ではない。いつかクラーエスも見た、鏡が見せる(あるじ)の幻だ。

「そなたの半身は毎夜そなたを呼ばわり、残されたそなたも毎夜その声を聞く。新月の夜はことに切なかろう。故にわれらはこうしてそなたを迎えにやってくる。すべてこの世の始まりの時に定められた摂理(せつり)に従って行われることであれば、もはやそなたに逃れられる(すべ)はない。目くらましは通じぬ」

「そうだね。この世の始まりの(ことわり)は、すべてに平等に働く。打ち寄せる波は必ず海へ還る」

「しかり」

 塔の(あるじ)諦観(ていかん)に満足した闇の声が聞こえた。

 エリノル、まさか行くつもりか?

 クラーエスはぐっと閉じていた目を、なんとか薄く開いた。

 となりにいる本物のエリノルの顔は蒼白で、唇を震わせて呪文をなんとしても紡ぎ続けている。

 魔法を続けてくれ、エリノル!

 祈っていると、外で衣擦れの音がし、

「では、まいろうぞ」

 気配が動き、闇と風がぐるりと大きく方向を変える。

 待て!

 思わずクラーエスの身体が乗り出した。

 と、突然、硝子の砕ける高い音が(とどろ)いて、耳をそばだてていたクラーエスの頭を貫き、すべてを飲み込んだ。

 何が起こったのかわからなかった。

 時が過ぎてゆく感覚がなかった。

 どれくらい倒れていたのか、やっと目を開いて、闇も寒風も甲高い音も止んでいると気がついた時は、聴力を失ったのかと思ったほどに、塔は静まりかえっていた。隠し部屋を(ふさ)いでいたタペストリーもくたびれたようにやっとぶら下がっていた。

 クラーエスはのろのろと辺りを見回した。

 エリノルはいない。

 姫は小部屋の隅にうずくまっていた。目を大きく見開き震えに歯を鳴らし、いっそ気を失った方がどれほど楽かと見えるほど我を失い怯えていた。

「姫」

 そっと声をかけると、弱々しく身を崩しかけてきて、クラーエスが手を放したら溶けた氷のように落ちてしまいそうだった。

 さっきの出来事に比べれば遙かに平和な床のきしむ音や人の動く気配がし、クラーエスが姫を支えたまま外をのぞくと、塔の(あるじ)がいつかのように床に散った硝子の破片を魔法の箒で集めているところだった。

 エリノルは唇の先に乗せたほんの一言の呪文で、ガラス片を血のような赤さと黒さに鈍る一塊の石のようなものに変えた。そのまま暖炉に放り込む。燃え残る薪の間に挟まって、それはじゅるじゅると音を立てて熔け、くすんだ煙となり果てた。

「いったいあれは何だったのですか」

 クラーエスがよろよろと小部屋を出てくると、その背でタペストリーが消え、ただの壁と小窓に戻った。

 エリノルはクラーエスの問いに沈黙した。

 クラーエスも重ねて問いただす前に、壁のあたりまで飛ばされながらも壊れることはまぬがれた椅子に姫を座らせ、落ちそうになるのを支えた。

 姫は目を閉じ、口をわずかに開いて浅い呼吸をしていた。

 顔が青白い。

 額が汗ばんでいる。

「帰るんだ、今すぐ」

 エリノルが無表情に言った。

「こんな状態の姫を夜に追い出すつもりか。せめて少し」

「普段なら使者を塔に入れたりはしない。だが今夜は君が魔法で扉を開けてしまった。君が外に出て、もう一度扉を閉めれば、再び塔の魔法が働き出す」

 エリノルは静かにクラーエスを見ていた。心許(こころもと)なげな火影の中、静かだがいっそ突き放すような、酷薄とも思えるまなざしだった。

「今夜は僕の魔力もすでに限界だ。次に彼らがやってきたら、今度は君たちを守ってあげられないよ」

 クラーエスは弱り切った姫を連れて、塔を出ていった。

 これをかぶっていくようにと塔の(あるじ)に渡された黒い布で姫をくるむ。棺を包むための布だった。

 彼らは死者には用はない。目くらましになるだろう。

 塔の(あるじ)はそう言った。

 二人で一頭の馬に乗り、姫を抱えて塔を離れる。

 今思い返してみると、塔の(あるじ)は嵐の後のようにめちゃくちゃになった部屋で、炉辺の作り付けの棚に片手をつき、それでかろうじて体を支えていたようだった。

 そうやってクラーエスの前では弱った自分を見せようとせず、二人を送り出した。申し訳ないことをした、などという感傷に浸ることすら許されない気配だった。

 苦さに顔をしかめながら、クラーエスは塔を振り返った。

 星々がいっそものすごいきらめきで天に散らばっており、塔頂の部屋の明かりが夜空の星と見分けられなかった。

 今夜、自分はいったい、エリノルの何を知ったのだろう。

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