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魂の半分 2

 「エリノルさまが目を覚まされたの?」

 姫は大あわてでベッドを降りた。

「すぐに着替えなくちゃ」

 まず顔を洗おうと器に手をひたす。

「冷たっ……」

 どうしたことか、それはいつものほんのり温かな薔薇水ではなく、なんとただのとても冷たい水だった。どういうことか、問いただそうとしたが、召使は背を向けて着替えを取りそろえている。

 いいわ。今は急いで着替えをしなくては。もうこんなに陽が高い。ああ、どうしてもっと早く教えてくれなかったの? じれったいったらない。

 姫は差し出されたドレスにいらだたしく両手をつっこんだ。一晩かけて泥を落とされ、暖炉の火でよく乾かされた昨夜のドレスだ。

「ぐっすりとお休みでしたので」

「そんなの! 」

 ドレスの両の袖口から手が、襟から姫の頭が出てきた。

「エリノルさまが目覚められたのよ。すぐに起こしてくれなきゃ」

 この召使、主人の意を汲むことができないのね。わたしの侍女はどうしてここにいないのかしら。クラーエスったら、呼び寄せてないのだわ。彼はそういう人。わかってはいたけれど、本当に気が利かない。悲しくて胸が痛んだ。

 やっとリボンを結び終わった召使が、よろめきながら膝を起こした。

「櫛を持ってきて」

 召使が軽く一礼して離れていく。なんだか背ばかりがひょろひょろ伸びたみっともない女なのだ。足を引きずったりして、よく王族の召使になれたものだ。召使の上等な衣裳がぜんぜん似合っていない。

「手鏡も持ってきてよ。早く」

 召使は小さな棚に並んだ道具から櫛と鏡を選び出し、戻ってきた。動作がどうにもまどろっこしい。その上、櫛も手鏡も古く重々しいばかりで可愛らしくなく、姫の心はうきたたなかった。

「まあいいわ。さあ、早くして。そうよ、そちらを使うの」

 姫は召使を急かして身支度を調えると、最後に召使に持たせた鏡で自分の顔や髪やドレスの皺の乱れを確認し、よく整えてから、部屋を出た。

 大急ぎで客間の扉を開けようとしたが、どうしてなのか、鍵がかかっている。

「どういうこと? この部屋で合っているの?」

 必死に取っ手を揺すり、扉を叩き、

「エリノルさま、エリノルさま!」

 叫んでいると、内側から扉が開いた。

「エリノルさま……」

 部屋へ駆け込み、姫はただ一途(いちず)にベッドにまなざしも思いも向けた。それ以外は目にとまらないほど、健気な思いを心にかきあつめて。両の手を強くからみ合わせ、それを胸元にきつく押しつけるようにして。いっそこの幸せに自分の胸がつぶれてしまえばいい、とうったえるほど懸命に。

「エリノルさま」

 ふらふらとベッドに駆け付け、枕元に身を投げる。姫の目にまぶたを閉じたエリノルの姿が映った。

「ああ、エリノルさま、どうなさいましたの? 目を開けて……、エリノルさま!」

 自分は遅れてしまったのかと、姫は息をのんだ。あの召使がもっと早く、すぐにでも教えてくれないからわたしだけ間に合わなかったの?

 わたしはこんなにたくさんの思いをエリノルさまに捧げているのに、どうして?

「エリノルさま! お願いです!」

「姫」

 誰かが姫の肩に手を乗せた。けれども姫はエリノルを見つめるばかりだった。

「エリノルさま……」

 昨夜はあんなに、もう枯れ果てたと思うほど涙をこぼしたのに、また新しい涙があふれてきた。

 姫は両手を投げ出し、エリノルの胸の上に身をあずけた。

「いやです、エリノルさま。どうかもう一度目を開けてください!」

「姫」

 身体を引き起こそうとされ、姫は身を揺すぶってあらがった。

「やめて。わたしをもう二度とエリノルさまから引き離さないで!」

「エリノルは眠っているだけですわ、姫。先生も今はゆっくりと休むことが大事だとおっしゃいました。わたしたちは静かに見守りましょう」

 マデリーネさまだった。姫は振り返った。

「マデリーネさま、ではエリノルさまは……」

「ええ。もう大丈夫。もう、危険は去りました」

「ああ……」

 姫はマデリーネさまに抱きつき、声をあげて泣いた。

「わたしの祈りが届いたのですね。よかったわ。本当によかったわ」

 次にエリノルさまが目を覚まされたときは、きっとおそばにいよう。

 姫はマデリーネさまに優しく背中を撫でられながらしばらく泣き、気持ちが落ち着いてくると涙をぬぐい、ベッドの脇にあった一人がけのソファーに座った。

 背もたれには膝掛けがかけてあったので、自分の膝に置く。あらかじめ暖炉の火に当てておいたのか、それは程よく温かかった。

「わたし、ここで、こうして待っています」

 エリノルさまの寝顔は、とてもお綺麗で、幸せな夢をごらんになっていらっしゃるように穏やかだもの。もうなんの心配もいらないのだわ。

 マデリーネさまが姫のソファーのそばに立って寄り添う。姫は自分のまなざしに全霊の真心を込めてエリノルを見つめた。

「エリノルさま、ゆっくりお休みくださいませ。わたしがおそばでずっと見守っていますから」


 さっきの召使が遅れてやってきた。彼女はトレイを手にしていて、そこからはよい香りが漂ってきた。

 気づいたマデリーネが声をかけた。

「姫、朝食ですわ。どうぞお召し上がりください」

 ドライオレンジとドライライムを詰めたローストチキン。その上にはローズマリーが散らしてある。パン。香茶。すべて温かな湯気を立てている。そして葡萄が一房。

「後でいいわ」

 今食事をはじめてしまった隙にエリノルさまが目を開けられたら、その瞳が真っ先にわたしに気付くすばらしい目覚めを失ってしまう。

「そうおっしゃらず、召し上がりくださいませ」

 マデリーネさまがさらに言葉を添える。しかし姫は首を振った。

「いいえ、本当にいらないの。今は朝食よりエリノルさまの方が大事ですもの」

 だってこの召使がすぐに起こしてくれないから、わたしはエリノルさまの最初のお目覚めに間に合わなかったのだもの。

 でもいいの。今は許してあげるわ。エリノルさまはもう大丈夫なんですもの。待っていれば、きっともうすぐ目を覚まされて、わたしを見てくださる。その時こそ、エリノルさまはきっと微笑んでわたしを見てくださるの。

 昨夜は馬車の中で何度も何度もエリノルさまの名を呼んだ。死の淵でわたしの声を聞いたエリノルさまは、わたしの声に導かれて生の世界へ戻ってこられたのよ。黄泉路にわたしの名を呼ばわる声は温かな命ある世界を思い出させたはず。そして目覚めたらそこには今度は本物のわたしがいるの。エリノルさまは自分が生きていることを強く実感されて、わたしに優しく微笑んでくださるのだわ。

「ですが、昨夜からなにも召し上がっていらっしゃらないと……」

 姫は立ち上がって振り返った。膝掛けが足下に落ちた。

「本当にいらないの。下げてちょうだい」

 トレイを持ったまま棒立ちの召使に命じる。

 せっかく朝の失敗は許してやったのに。こんな大事な時に朝食ですって。お願いだから、主人の気持ちくらい察してちょうだいよ。

「ああ、エリノル、目が覚めて?」

 後ろでマデリーネさまの声がした。急いで振り返ると、マデリーネさまが枕辺に腰をかがめている。そのせいで姫はエリノルがよく見えなかった。

 まただわ。あの召使のせいで。

「さっさと下げて」

 姫は召使に手を振り、素早くマデリーネさまの隣へ行った。

「エリノルさま」

 ふるえる姫の声に、ベッドの中からは芳しい反応がない。横たわるエリノルはぼんやりと目を開けていた。自分がどこにいるのかわからずに、心はまだどこか遠くを彷徨っているかのようだ。

 死のそばまで行かれたのだもの、無理もないわ。姫は辛抱強く待った。

 エリノルのまなざしがゆっくりと巡らされる。

 わたしです、エリノルさま。

 姫は指を絡み合わせた両の手をきつく握りしめた。

 だが、エリノルのまなざしは、ただ姫の顔の上をすべっていっただけだった。必死に見つめる姫をしっかりととらえることも、なにかの感情が浮かぶこともなかった。

 姫の心が一瞬で凍った。

 エリノルさま、わたしに気がつかないの?

「……夢を見ていたのかな」

 エリノルがつぶやいた。

「まあ、どんな夢を見たの?」

 マデリーネさまが小さくたずねる。

 エリノルは声を聞き取り答えを返すのに、しばらく時間が必要だった。

「……子供の頃に、姉さんが作ってくれたパイの夢……」

 マデリーネさまは二人だけの思い出に愛おしげに微笑んだ。

「変なものを入れて焼いては、僕に試食させた」

「また今度焼いてあげるわ。最悪だったのはクネルの内蔵だったかしら」

 エリノルも微笑んだ。

 それからふと力を抜くように目を閉じ気味にし、そうすると彼の長い睫毛の影がまだ青白い頬に濃く落ちた。

「きっとお腹がすいたのね。元気を取り戻しているからだわ」

 マデリーネさまがかがめていた身を起こした。

 そのマデリーネさまより先になるよう急いで姫が振り返った。

「そのトレイをこちらへ。エリノルさまに差し上げて」

 姫の朝食をささげ持ったまままだ控えていた召使に命じる。

「ですが、これは姫さまのご朝食で……」

 召使は本来の主人であるマデリーネさまに確認の視線を向けた。

「いいから、さあ、早く」

 マデリーネさまよりも身分は姫であるわたしの方が上なんだから、この召使だってわたしの命令に従わなければならないはずでしょう。そういうこともわからないの?

 召使はとうとうベッドに歩み寄った。

 姫がやさしく声をかけた。

「エリノルさま、どうぞ、朝食をお召し上がりくださいませ」

 サイドテーブルにトレイが乗せられる。カトラリーはどれも見事な重い銀製だ。

 姉に助けられて、エリノルが身を起こした。その膝にトレイが持ってこられる。

「ありがとうございます、姫」

 エリノルが手を伸ばしたのは葡萄だった。赤みがかった丸いそれを一粒、口に運ぶ。それだけでけだるそうに手を毛布の上に置いてしまった。

 姫はハラハラした。

 エリノルさまは食事をきちんと摂られなければ、このままではなかなか回復されないわ。

「もうよろしいのですか? もう少し召し上がりましょう?」

「姫」

 脇からマデリーネさまが声をかけた。

「重いものは体がまだ受け付けないのですわ。それもしだいに回復するでしょうから、今は無理に食べなくても口に入るだけでよいでしょう」

 姫に用意された朝食はローストチキンだった。

「ああ、そ、そうですわね」

 姫はあわててうなずいた。

 そんなこと……。そんなこと、わたしだってわかっていたわ。そうよ、わかっていたんだから。だってそんなの当然のことじゃない。

 わたしだって昔病気で、ずっと不自由な思いを強いられた。それくらいわたしも身をもって知っているもの。誰よりもわかっている。

 健康でいらしたマデリーネさまには弟のつらい気持ちなんて本当にはわからないでしょうね。エリノルさまのお気持ちはわたしが一番よくわかっているのよ。

 それでもお食事をお勧めしたのは、わたしはエリノルさまのことがとっても心配だったから。早く元気を取り戻していただきたかった。

 本当の真心なのよ。

 姫は耳を赤く染めて召使に命じた。

「これ、下げて」

「重湯をお持ちしましょうか?」

 召使が姫の命令に従う前に、マデリーネさまに控えめにたずねた。

「そうね。エリノル、それなら食べられそう?」

 エリノルが頷いた。

「用意してもらえる?」

 召使は腰を落とす礼をすると、トレイと一緒に部屋を下がった。

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