5.なめさん
その小さな体を存分に活かし、狭い路地裏や、人ごみの中、時にはよその家の壁に開いた穴を通り抜け、弥奈は異ヲの街の北西に位置する工業地帯に到着した。
既に時刻は午後七時を回り、天には星一つない暗闇の夜空が広がっている。その下で、人間たちが、まるで熱病に浮かされたかのような狂気にも近い衝動でもって建て続けた数多の工場は、絶えず明かりを灯し、作業音を響かせ、有毒な廃液を垂れ流し続けている。外灯と内部から洩れる様々な色の光によって、闇夜にぼんやりと浮かび上がるその巨大な外観は、硬質の皮膚を持つ巨大な生物のように見える。あちこちに開けられた空気穴は毛穴を、漏れ出す水蒸気は吐息を、そそり立つ煙突は巨大な角を思い起こさせる。
そばの道路をトラックが通る度に、もうもうと砂埃が立ち昇り、塵芥が舞い踊る。その中を、目を細め、口を手で塞ぎながら弥奈は一人駆けていた。
時折ごほごほとせき込みつつ、足を泥まみれにしながらも走るのを止めず、たどり着いたのは<異ヲ廃棄物処理場>だった。どこからともなく漂ってくる腐敗臭が、弥奈の鼻に襲い掛かる。しかし弥奈は素知らぬ顔で、その巨大な建物の敷地内に入ってゆく。
弥奈にとっては、この強烈な臭いは嫌悪どころかむしろ安堵の対象だった。何故なら彼の生家は、このすぐ近くを流れる川に沿って点在しているオンボロ長屋――通称『ゲボ川長屋』――だからだ。
弥奈は生まれた時からこの臭いをかいで育ってきた。久しぶりの臭いは、弥奈を温かく懐かしい気持ちにさせた。
しばらく敷地内を、外壁に沿って進んでいくと、端っこに、まるで追いやられたかのような立地の、一軒の小屋が現れた。綺麗に清掃してある他の施設とは違い、ススやらカビやら泥やら、暗がりでも十分判るほど汚れている。
弥奈はその小屋へ足を運んだ。歩くたびに、にちゃにちゃと、地面に生えた苔が潰れる音が生まれた。
小屋の中に入った。明かりは一切なく、真っ暗闇だ。
「おーい、なめさーんっ」
弥奈の叫び声が、小屋の中に反響する。
しばらくすると、
「はいなぁ」
と、気の抜けた老人の声が奥の暗闇から聞こえてきた。続いてひたり、ひたり、と濡れた何かが移動する音と、ずる、ずる、という何かを引きずる音が。
そして次の瞬間、弥奈の目の前に痩せこけた老人の顔が、天井から垂れ下がってきた。人間ならば、悲鳴を上げて逃げ出すか失神していただろう。弥奈はにぱっと満面の笑みを浮かべると、目の前の老人の顔に抱き付いた。
「ひさしぶりぃなめさん!」
「こらこらちいとは手加減せんかい、わしの頭蓋骨潰す気かいな弥奈」
弥奈が抱き付いた顔の主は、<天井嘗め>のなめさんだ。痩せこけた老人の身体にぼろい腰みの一丁という出で立ちで、非常に長い舌を天井に伸ばし、その状態でぶら下がっている。
なめさんは、当時ゲボ川長屋に住んでいた弥奈にとって、一番の遊び相手であり、親代わりであり、先生であった。妖怪のイロハを一から教わり、幼い身でこの異ヲの街で生きていくための術も教えてもらった。
天井嘗めはその名の通り、家屋の天井を舐め、シミを作る妖怪だ。天井のシミは放置しておくと、そこからよくカビが発生する。その特性を活かし、なめさんはこの異ヲ廃棄物処理場で働いている。彼の業務はこの小屋での、生ごみ分解用のカビの培養だ。人間では健康面の問題から防護服の着用が不可欠な業務だが、妖怪の天井嘗めが行えば、その対策も不要というわけだ。
弥奈が手を放すと、なめさんはくるっと器用に一回転し、着地した。
「ほいで、何か用かいな。弥奈や」
「うん、文車のねえちゃんが、頼みたいことがあるんだって」
「ほう、あの出不精の古書娘がか」
なめさんはどこか意地悪そうに笑った。
「言ってみ」
「うん」
そして弥奈は、今回の奇妙な事件の顛末と、文車妖妃からの依頼をなめさんに伝えた。
なめさんはしばらく腕を組んで考え込んだ後、にかっと笑って「よかろう」と言い、のそのそ小屋の外へ歩き出した。
弥奈はこっそりガッツポーズをとると、意気揚々といった感じでなめさんの後を追った。
弥奈となめさんの二人がたどり着いたのは、処理場から五キロほど離れたところにある、住宅地の一角だった。既に時間帯は深夜。光源は、ポツリポツリと点在する外灯のみ。周囲の住宅の明かりは、ほとんど消されている。空を見上げども、月明かりも星明かりも、次々に吐き出される工場の排煙に、全て呑み込まれてしまっている。
暗闇に近い夜。大気汚染云々は迷惑極まりないが、異ヲの街のような都会で、こういった限りなく暗闇に近い夜を体験出来るといった点のみにおいて、弥奈は汚染を嬉しく思っていた。
二人の目の前には、住宅一軒分のスペースがあった。広さはおおよそ二十坪といったところか。何もないただの土地。雑草がまばらに生えている地面がむき出しになっており、周囲には侵入者を拒む有刺鉄線が張り巡らされている。
かつてここに住んでいた人間は、閑静で住み心地の良い環境に幸福を感じていたのだろうか。つつましくも満ち足りた生活を享受していたのだろうか。それを確かめる術はない。何故ならここは――
「呪われた物件……の跡地じゃな」
なめさんが言った。
「どう? 判る?」
弥奈がひどく心配そうな顔つきで見上げる。なめさんはそんな弥奈の頭を、しわくちゃの手で撫でながら「待っちょれ」と軽く言うと、その細い体を器用に曲げて、有刺鉄線の間をするりと潜り抜けた。
土地の中に入ったなめさんは、あーうー呻きながら、地面に視線を落として何かを探し始めた。その様は、落としてしまった財布を探す腰の曲がったお年寄りの姿そのものだ。
それから十分ほど経過した時、なめさんは「よーしこれじゃ」と呟くと、地面にから小さい何かを拾い上げ、それをペロリと嘗めた。
ちゃ、ちゃ、ちゃ、ちゃ、と、舌鼓。すーはーと鼻から息を吸い口から吐く。まるでワインのテイスティングのようだ。そして、
「トウヒじゃな。樹齢は四、五十年といったところじゃ。ここいらじゃと、『痾ジの森』にしか生えとらん木じゃ」
「痾ジの森だね。ありがとうなめさん! 今度必ずお礼するから絶対来てよぉっ。じゃあねー!」
文車妖妃からの依頼――天井嘗めの能力である、嘗めただけでその木材の種類を言い当てる能力を使い、件の呪われた物件に用いられた木材の産出場所を特定する――を成し遂げた弥奈は、右手をぶんぶん豪快に振りつつ、暗闇へと消えていった。
残されたなめさんは、
「さてと、お礼か……。久しぶりに文妖堂の天井にありつけるわい。ひっひっひっひ」
文車妖妃からの“お礼”の味を想像し、よだれを垂らしつつ笑っていた。




