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3.溶解人間

 異ヲの街の中心街から少し離れると、決して豪邸とは言えないが質素とも言えない、いわば中流の家々が立ち並ぶ住宅街がある。ここの住人もほとんどが人間で、大企業あるいはその傘下にある中小企業に勤める社員が大半を占めている。


 規則正しく配置された家々の間を通る道路はしっかりとコンクリートが敷かれ、清掃も行き届いている。地面がむき出しで、ゴミがそこら中に散乱している貧困層の居住区とは雲泥の差だ。しかしそこを歩く文車妖妃は、むず痒さを伴うような居心地の悪さを感じていた。綺麗すぎるからだ。妖怪にとって最も心地よい環境とは、ありのままの自然の姿だ。例えそこが肥溜め並に不衛生極まりない場所であろうと、ある種の妖怪にとっては理想の場所となる。文車妖妃にとっての理想の場所は、言わずもがな本――それも手垢が付き色落ちした古書――に囲まれた書店だ。人間にとっては人工物で囲み切ったこのような無味無臭の環境が好ましいのだろうが、少なくとも文車妖妃にとっては、思わず顔をしかめたくなる嫌な場所だ。


 対して人間社会に上手く馴染んでいるコンコ、比較的感覚が人間に近い弥奈は、特にこれといった不快感も示さずに歩いている。コンコは若い男を見かけるたびにねちっこい声でナンパし、弥奈は文車妖妃の手を握りながら、よく判らない鼻歌を歌っている。そんな二人の様子を見て、文車妖妃は、軽蔑でもない、かといって憧憬でもない、不可思議な心境になった。


 道行く人々は、市松模様の着物に黒塗りの下駄と黒いポーチという文車妖妃の服装に、好奇と奇異の視線を送っている。対して文車妖妃はといえば、そんな視線などどこ吹く風。カランコロンと下駄を鳴らし、天下の往来をしゃなりしゃなりと歩いている。これがあたしですが何か問題でも? 文車妖妃は、自分に視線を送る人間全員にそう全身で宣言する。


 ここの住民らしき一人の人間が歩いてきた。住人はこちらを見た途端、即座に目をそらし、何事もなかったかのようにすれ違った。次の人間も、その次の人間も。見て見ぬふり、つまりいないことにされている。そうやった方が楽だからだ。彼らは自分の中に芽生えた差別や見下しといった醜い感情と向き合う勇気がない腰抜けだ。だから視線をそらす。この街における被差別者である妖怪が視界に入った瞬間に視界の外へと追いやって、自分は何も見ていない、だから何の感情も抱いていない、と必死に己を言い聞かせている。その行為こそが、最も卑劣な差別表現だとも気づかずに。


 文車妖妃は人間たちに思う。哀れだな、と。そして、人間には断じてなりたくない、と。


「ねぇねぇちょっと、あのコだけどさ、結構いい感じだと思わない? ふぐっち」


 返事がない。


「ふぐっち?」


「ちょっと今話しかけないで」


 文車妖妃はいつの間にやら、交差点の角に設置されているゴミ置き場の前にしゃがみ、大量のゴミ袋を漁っていた。


「ちょっとねえちゃん、おいらには卑しいことすんなって言っといてー」


 頬を膨らませ弥奈が抗議する。コンコはため息を一つ。


「しょうがないじゃないの。美味しそうなもの見つけちゃったんだから」


 と、文車妖妃は応えた。


 確かに、貧困層の居住区でたまに見かける、小汚い宿無しの人間のすることだ。はた目から見れば卑しいことこの上ない。しかし文車妖妃は、そんな人間に決して侮蔑の感情を抱いたり、ましてや嘲笑することは絶対にない。彼は生きるために、ただそれだけのためにゴミを漁っているからだ。そこには虚栄心はない。恥はあるだろう、人間としての誇りはズタズタだろう。しかしそれでもなお生きようとする彼らの姿は気高く、強いと思う。それと一緒ではないにしろ、今文車妖妃が行っている好意も、広義的には、それと似たようなものだった。即ち、生きるための必需品の調達だ。そしてほんのちょっとの、ハエがたかって雨風に汚れた本への、悲しい気持ち。


 ゴミ袋をかき分けて、奥から本の束を取り出した文車妖妃は、その中から一冊の本を抜き取った。余った本は元の位置に戻し、抜き取った本を大事そうに懐にしまった。


「何の本なのよ」


「取るに足らない本よ。人間にとってはね」


「あんたにとっては?」


「生活の必需品とだけ言っておくわ」


「さいですか」


 コンコはそれ以上質問することはなく、苦笑に近い笑みを浮かべた。




「もう何でもいいんで早く解決してください。今朝の早くに息子が……あ痛っ」


 ベルを鳴らした途端、中年の頭の薄い男性が顔を突き出し助けを請うてきた。その頭に何かが当たった。ミシンに使うボビンだ。


「あんたっ! 一体いつになったら病院へ連れて行ってくれるのよ!」


 家の奥からは、ぎゃあぎゃあやかましい初老の女性の声。


「あぁもう……勘弁してくれよ」


 男性は尻に敷かれていること丸わかりな態度で、眉毛を八の字に曲げてぼやいた。


 コンコに案内されたのは、閑静な住宅街の一角に建てられた庭と噴水付きの、階級でいうところの中の上のお住まい。家主はターウィル夫妻。今から約四か月前、件の物件に住んでいた夫婦だ。


 玄関先のポーチには、“Welcome”という言葉が、マットの上に刺繍の柔らかな文字で描かれている。文車妖妃はその文字の端に、決して見えない“without YOUKAI”の言葉を読み取った。こちらを見たターウィルが、ほんのわずかに頬の端を嫌そうに歪めたのを見たからだ。


 ターウィルの案内で、文車妖妃、弥奈、コンコが家の中に入った。


「ひどいわねこれは」


 文車妖妃は呟いた。足下には花瓶と思しきガラスの破片をはじめ、クマの手編み人形やらウールのセーターなどが、あちこちに散乱している。居間兼キッチンと思しき奥の部屋から、車椅子に乗った鬼の形相の女性が、キーキー喚きながら、手当たり次第にあらゆる物を投げつけている。こう言っては何だが、全く可愛げがなく、明らかな肥満体型だ。テレビに出ているモデルを見ながら、痩せたいわぁと言いながらお菓子を食うのを止めないようなタイプだろう。夫の右足にはギプスが巻かれているというのに、一切の容赦がない。溜めていた不満が爆発したという類ではなさそうだ。声にならないキーキーとした悲鳴と、完全に自己制御できてないその様子から察するに、恐らくヒステリーの発作の類だろう。


「今朝早くに息子さんが高熱出して入院して、連れて行った先の病院で旦那さんが車椅子に轢かれて足の指を骨折。そして帰ってきて、奥さんを息子さんのいる病院へ連れて行こうとしたら、車椅子が謎の故障を起こして動かなくなったんだって。で、現在に至るってわけ」


 と、コンコが言った。


 それは悲惨だ。その一連の騒動を撮って、どこかのテレビ局に売りつければ、『恐怖! 悲劇は連鎖する……呪われた夫婦』というようなタイトルで、オカルトものの番組に即採用されるだろう。


「散々だね」


 弥奈が無邪気に感想を述べた。


 さて、いわゆる“調査”を始めるのはいいが、こうお二人さんが目下戦争中(夫が圧倒的劣勢だが)では、出来るもののできやしない。


「ふぐっち、頼むわねん」


 コンコが催促してきた。こちらの事情も知らないで。そこで、


「あんたも手伝うの。まずは二人を落ち着かせなさい」


 補助員として働いてもらうことにした。


「えー私ぃ? キツい役じゃーん」


「何なら今ここで帰ってもいいのよ。『ゴッホの手紙』初版本は惜しいけど、風味が似てる新訳版持ってるし」


「あぁもう、分かったわよやるわよ」


 コンコは一歩前に出ると、懐からコインを二枚取り出し、ぽいと抗争中のターウィル夫妻の間に放った。


「この役立たず!」


 夫人が叫びながら手編み用の毛糸玉を投げつけた。空中で毛糸玉とコインがぶつかったその瞬間。グバァと毛糸玉がぱっくり割れ、牙をむき出し涎を垂らした口が現れた。


「ひぃ」と叫び、夫人は気を失った。対して夫は、


「ひぃ」


 こちらはコインと夫人の首を結ぶ直線に道ができ、その上を夫人の生首がケタケタ笑いながら転がってくるという光景を見て、気絶した。


 二枚のコインが床に落ちる。同時に、お化けの毛糸玉と夫人の転がる首は消えてなくなった。コンコは二枚のコインを拾い上げると、


「はぁん快感」と悶絶した。


 やはり腐っても狐。幻術はお手の物だ。どんなに金銭欲が豊富でしこたま稼ごうとも、人を化かすという原初からの行動は、何物にも耐えがたい快感であるらしい。傍から見る分には気持ち悪いことこの上ないが。


「そりゃあんたの十八番だろうけど、仮にもお年寄り相手なんだから少しは加減しなさいよ」


 人間が驚くのは妖怪の文車妖妃としても心地よいものではあるが、そのはずみでぽっくりと死んでしまったりなんかしたら、警察のご厄介になってしまう。ご丁寧にも、妖怪に対する罰則も、この異ヲの街の行政はしっかりと作ってくれている。妖怪の力を恐れてのことだろう。実際は、進んで人を殺すような妖怪はほとんどいないのだが。


 妖怪を生み出したのはほかでもない人間の心だ。文車妖妃はその愚劣さに辟易してこそいるが、人間が書いた書物が無かったら、存在すらしていなかった。年月を閲した豊かな文章を吟味できることもなかった。だからこそたちが悪い。ありがとう、だが反吐が出る、というのが文車妖妃の人間観だ。


「私の幻術ごときでくたばるようなタマじゃないわよこの奥さん。さ、次はふぐっちの番よ」


 まるで舞台役者のような大げさな身振りで、コンコは文車妖妃に道を譲った。


 やる気はある。だが乗り気にはなれない。この術――いやむしろ能力と表現した方がいいか――を用いると、あまり好ましくない副作用をもたらすからだ。だが、ゴッホの日記初版本という超貴重なごちそうが待っていることを思い、意を決して文車妖妃はそれを行おうとした。


 だしぬけに玄関脇の窓が弾け飛んだ。ガラスの破片が無数に宙を舞う。


 文車妖妃、コンコ、弥奈がそちらを振り向いた。


 骨がいた。正確には、溶解し切ってない肉が身体中にへばり付いている、“溶解人間”とでも言うべきモノが、割れた窓のサッシに猿のように座っていた。突然のことに文車妖妃は動くことができなかった。それが間違いだった。


 溶解人間は、一気に文車妖妃に飛びかかった。


「きゃあ」と悲鳴を上げ、顔をかばった。


 成功した。


 しかし代わりに左肩を、着物もろとも切り裂かれた。床に倒れる文車妖妃。その上に溶解人間は馬乗りになり、今度は首筋に己のむき出しの歯を持って行った。首を食いちぎるつもりらしい。


 しかし、その歯が文車妖妃の首筋にめり込む寸前、


「やめろぉ!」


 弥奈が怒声と共に溶解人間につかみかかり、頭蓋骨の二つの眼窩に指を突っ込で、ボウリングの玉のように掴み上げた。そして腕を一振り。溶解人間は近くに壁に思いっきり叩きつけられ、溶けかけた肉と骨が破裂するように四散した。曲がりなりにも鬼。その力は折り紙付きだ。


「驚いた……。ちょっとちょっと一体何なのよこのきもっちわりぃの」


 恐る恐る歩み寄るコンコ。


「もしかしてこれって……」


 コンコは腕の骨を見つけた。その手首に、入院患者用の赤いタグが巻きつけてある。識別番号と名前が記されており、名前は――


 ボビー・ターウィン。


 それによく見ると、骨はどれも細く、明らかに未発達のそれだ。


「まさかこれって、ここの息子さん?」


「わぁぁぁぁぁぁ!」


 その時唐突に聞こえてきた大声に、コンコは慌てて振り向いた。そこには、両手を顔に当て、床に突っ伏し、号泣している文車妖妃の姿があった。コンコは我が目を疑った。気性の強い文車妖妃が、確かに凄まじい恐怖を味わったであろうにしても、知人の前で外聞を気にせず号泣する姿は、いまだかつて見たことがない光景だったからだ。


「どうしたのおねーちゃん? 傷がいたいの?」


 弥奈が心底心配そうに声をかけた。が、文車妖妃の号泣は止まない。


 文車妖妃は、自身が感じた恐怖から泣いているのではなかった。左肩につけられた傷から受けた情報に、心が耐え切れなかったのだ。


 文車妖妃は書物から生まれた妖怪として、書物に記してある文字から、それを書いた人物が執筆している当時の感情や心境、そして抱いていたイメージを読み取る能力を持っている。それは文字に限定ではなく、例えば壁などにつけられた傷からも、読み取ることが可能だ。文字になっていないとはいえ、人が記したものであれば、ある程度は読み取れる。


 つい先ほど、あの溶解人間が付けた傷から読み取ったのは、暗い森、孤独と圧迫感、そして途方もない寂しさだった。その寂しさはあまりにも純粋で、あまりにも重く、あまりにも切実で、あまりにも激しかった。


 寂しさという単語は知っていても、感じることはほとんどなかった文車妖妃にとっては、到底処理できる代物ではなかった。体の中から寒くなり、この世のあらゆるものが冷たく感じられた。心では温かさを切望するも、それが決して叶えられないことを自覚すると同時に、全身が引き裂かれそうなほど痛み、心が氷に包まれてゆく。


 文車妖妃の視界は闇に閉ざされた。その闇の中、二つの淡い光が、並びながら左右に移動しているのを見た。その直後、文車妖妃の意識は完全に闇に沈みこんだ。

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