牧場主の事情
「あの柵から、あの柵までが私たちの管理している敷地です」
表に出て、老夫婦が指された方を見ると、そこには緩い高低のある広い草原が広がっていた。
柵はヒツジたちが逃げないようにするためにあるものかと思っていたけれど、それだけではなく、敷地の境界を示す役割もしているという。
説明を受けて驚いていないのは羊飼いと団長だけで、セルビアたちは土地の広さに目を泳がせる。
しかし父親がこんなに立派なものなのにもったいないと感じたことを思わず口に出した。
「まだ到着したばかりですが、こうして遠くから眺めただけでわかります。立派な牧場ですね。手放すのは惜しくないのですか?」
ここまで立派な牧場なら、子供さんたちでもやっていけるだろうし、二人もまだまだ現役で経営を続けられそうに見える。
愛着も見えるし、子供だってここが故郷なら、見たら気が変わるのではないか。
そのあたりが気になったのだが、そこについては話がついているらしい。
「私たちだけでは経営が難しくなってしまいましてね、特に飼育が、身体に堪えるのです。この先、動物たちのことを考えたら、隠居の算段を付けておいた方がいいだろうということになりましてね」
置いておくことはできても面倒を見ることを放棄されたら動物が可哀そうだ。
これまで自分たちの生活を支えてくれた動物たちにできる最大限のことをしたいのだと牧場主は言う。
「牧場の仕事は多岐にわたる。力仕事も多いんだ」
羊飼いがそう補足すると両親はうなずいた。
「なるほど」
この広大な敷地を管理するだけでも大変そうだが、それに加えて力仕事があると言われたら、年齢を考えて早めに対処した方がいいと判断するかもしれない。
農地もそういった力仕事が多く、若者に敬遠されてなり手が減っているというので、それと同じことだろうと質問したセルビアの父親はうなずいた。
「まあ、仕事ができなくなるぎりぎりまで頑張ってるのもたくさんいるんですけどね、私たちには後継ぎがいないので、仕事ができなくなってからでは、引き取り手を探すのも難しくなりますし、動物たちの世話もおろそかになってしまう。そうなる前に、誰かに渡したかったんですよ」
街中の小さな家や、建物の一角を住居やテナントとして貸し出すのとは違う。
完全に手放すことにしたのだから、それを最後までやり遂げなければならない。
それが経営者としての責任だ。
そして一番気になっているのは残されている動物たちの行く末である。
生き物を扱っている身として、見届ける責任がある。
自分たちで面倒が見られないのだから、せめて良い飼い主に大切に育ててもらえたらと思っていた。
「元気なうちはいくらでも手伝えるし、毎日やらなくてよくなるだけでこっちは大助かりなんで。まあ、売る以上、ここに居続けることはできないでしょうが、たまには様子を見に来たいので、近くの街に居を構える予定です。なので困ったことがあったら力にはなれると思います。少なくとも元気なうちなら。そして元気なうちでないと、引き継ぐ相手に仕事を教えることができない」
とりあえずここを離れたとしても徒歩圏内、セルビアたちがいた街で、住まいを探すことになる。
そこには子供夫婦や孫もいるし、勝手がわかる街の方が顔見知りもいて安心だからだ。
ここを離れるのは重労働が難しいからであって、嫌いになったわけではないし、近くにいるのだから何かあれば相談に乗ることもできる。
これまでの経験から、話を聞けば状況を察して的確なアドバイスもできると思うと彼らは言う。
でもそれならば募集はこの街の周辺だけでよかったのではないかと尋ねると、彼らは小さくため息をこぼした。
「もちろん牧場主の家の出身の人が買い手ならその家が助けてくれるでしょうが、この近辺の牧場主に、該当するような子を持つ人はいなかったので、公募の範囲を広げたわけです」
ご近所付き合いがあるので、最初は周辺の牧場主に、うちの牧場を任せられないかと相談したが、自分のところだけで手いっぱいだと断られてしまったらしい。
そこで遠くからでも来てくれる人を募集しようということになったのだ。
まず募集が広がるまでに時間がかかる。
そこから検討期間を経て、さらに距離があるところから、今回のように見学として来ることを決めても、すぐには来られない。
それに長く住む場所になるのだから周辺環境のことも調べるだろうし、慣れない土地なので、見るだけで帰ってしまったりする可能性もある。
なので決まるまでにかなりの時間を要することも考慮した上での募集だったという。
「まさかこんなに早く見学者が来るなんて思いませんでしたけどねぇ」
「そうだな。もっと気長に待つことになるだろうと思っていたからな」
もちろんまだ決まったわけではない。
ただ見学者が来るということは情報がきちんと拡散されているという証拠だ。
それなら彼らで決まらなくても次がある。
しかも仲介役として同伴している羊飼いが近くの住人ではないことはわかっているので、少なくともそこまでは情報が流れているということだろう。
セルビアたちの来訪は、本当に牧場を買い取ってもらえるのかという不安を抱えた彼らが、期待を寄せるのに十分だった。
ここでおしゃべりに花を咲かせて、また仲介役に急かされるわけにはいかない。
それで心証を悪くするのは本意ではないからだ。
それに自分たちも、彼らに自慢の牧場を見てもらいたい。
話している限りとても良い人たちに見えた。
ここまで大切にしてきたものだし、親族に残せないのならせめて良い購入者に渡したい。
それで打算かもしれないが、たまに遠くから様子を見るくらい許してもらえたらいいなとひそかに考えている。
「まずは敷地を案内しましょう」
牧場主がそう言って歩き出したため、皆はそれについていくことになるのだった。




