エピローグ
病院から出てきた小野寺は赤く目を腫らしていた。
きっと美月佐奈の家族にいろいろなことを言われたのだろう。なにを言われたのかは想像には難くないし、小野寺が話したいと思ったときに聞かせてもらおうと思う。
彼女の罪をどうこうする気は、僕には初めから無い。小野寺と美月佐奈の間にあった出来事は、二人のものであって、僕には介在する余地はないしするつもりもない。小野寺の心境が何も変わらないなんてこともないだろう。小野寺は二年間抱え続けたものを吐き出したことで、きっと変わる。僕にとって大事なことはそれだけで、後のことは時間を掛けて消化していけばいい。
――帰り道、僕は小野寺さんをカフェ『バッハ』に誘った。
小野寺は戸惑ったようだけど、甘い物を食べて気持ちを落ち着かせたほうがいいという嘘の提案に乗ってくれた。本当はただ、小野寺にプレゼントを渡すタイミングが欲しかっただけだ。今日は色々あったけれど、小野寺の誕生日でもある。出来ればプレゼントを渡すだけに留まらず、告白をしてしまいたいと僕は考えた。
カランと音が鳴る。入店した僕らは奥のボックス席に通された。カップルキャンペーンがもう終わっているせいか、客は僕ら以外にはいなかった。
にしても、バッハに行くのは二度目だけれど、カフェの雰囲気にはまだ慣れない。鼻をつくコーヒーの香りに酔いつつ、メニュー表を取り出す。
「うーん……」
小野寺は病院を出てからは落ち着いた様子で、メニューを見ながらああでもないこうでもないと品定めを始めている。僕は頭の中で注文はビスキュイにしようと決めて、それから小野寺が以前口にした誕生日についての話題を出すことにした。
「バースデーブルーについて話してくれたことがあったよね?」
「ああ……うん。そんなこともあったね」
「あれって、やっぱり美月さんに関係してるの?」
「ううん。単にカフカについて調べたときに見つけた言葉なの」
「カフカについて?」
「うん。カフカの小説を読んだときになにか感じなかった?」
「えっと……」
まだ全部読み切れていないとは言えない。でもまあ、一応短編を何作か読んでいたおかげで、小野寺の言いたいことはわかる気がした。
「死ぬことに関する話が多かったね」
「そう。カフカは死に関する話をよく書いていた人なの。最近の本にはどうしてカフカは自殺しなかったのかを解説している本もあるくらい」
「へえ……変わった人だったんだね」
「そうね。まあ、文豪は大体変わり者なんじゃないかな。日本だと昔の作家はよく自殺するイメージもあるでしょう?」
「まあ」
たしかにイメージはあるけど、具体的な名前が浮かんでこない。知ったかぶりで頷いて、僕は店員のコールボタンに指を置いた。
「小野寺さんは注文決まった?」
「決まったよ」
「じゃあ押すね」
コールボタンを押すと、店員は待ち構えていたようにすぐやってきた。手短に注文を済ませて、最初に出された水を一口飲む。誕生日プレゼントを渡すならこのタイミングだろう。
「小野寺さん、今日誕生日だよね?」
「あ……うん。楓さんから聞いたの?」
「いや、佐藤さんだよ」
「ああ……そういえばあの子にも話したことがあったっけ」
「これ、つまらないものですが……」
鞄から筆箱くらいの大きさのラッピングされた包みを出す。
「はは……そんな畏まって言わなくても」
苦笑しながら、小野寺はプレゼントを受け取ってくれた。
「ありがとうね、篠崎くん」
言いながら、包みを開けていく。中から出てきたのは革製の栞だ。
正直、我ながら変なプレゼントを選んだものだと思う。でも、小野寺と言うと本を読んでいる印象が強いから、他に良いプレゼントも思いつかなかった。
「へえ、革の栞って珍しいね」
「誕生日おめでとう」
「十七歳になってしまいました」
「そんな残念そうに言わなくても」
「ええ~、だって十六歳って特別な感じがするよ」
「小野寺さんのそういう心境がバレンタインブルーってことだね」
「はは……」
小野寺さんは開けたプレゼントを片付ける。そうしている間にコーヒーとお菓子がやってきた。
やはり、バッハのお菓子は美味しい。その事実を再確認して、僕は口を開いた。
「小野寺さん、好きだ。僕と付き合ってください」
「……え?」
なんの前触れもない告白に、小野寺はきょとんとした顔をして手に持っていたサブレを落とした。
僕はそれ以上なにも言わず、返事を待つことにした。というか、全身が自分のものじゃない感じで身動きがとれない。いままでなんともなかったのに、告白を済ませた途端に顔が自分でもわかるくらい紅潮して熱くなっている。
うわあ……。
そんな感想しか湧いてこない。この場から逃げ出したい気持ちに駆られて、僕は半ば無意識のうちに窓の外に視線を向けていた。なにをしているんだろう僕は。出来ることならこのまま地球の裏側まで逃げてしまいたい。
「いいよ」
「……え?」
「実はね、最初からなんとなくわかってた」
「えーっと……?」
「話をするようになったばかりの頃、人の気持ちが匂いでわかるって言ったでしょ?」
「え、あの話をした時点で僕の気持ちに気づいてたってこと?」
「うん」
「はは……」
結局石上の言う通りか。
僕が苦笑しながら店内に視線を戻すと、小野寺と視線が合った。
「付き合うか、私達」
小野寺は恥ずかしげに顔を赤らめて、俯きがちに僕を見ていた。艷やかな唇が告げた言葉の意味を理解して、僕は全身に力が入らなくなった気がした。
「それって……小野寺さんも僕のことが好きってことで、いいの?」
「うん。私も、篠崎くんのことが好きだよ……」
「……」
たったそれだけのやり取りで、僕と小野寺さんは付き合うことになった。
思い出したように僕はビスキュイの最後の一口に手を付ける。そして、口に広がった甘ったるい味を拭うようにコーヒーを飲み干した。
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