Chap.3 八岐大蛇は岐(わかれ)が七つなのにヤマタノオロチ
羽田翔は平凡な高校一年生である。少なくとも彼自身はそう思っている。
彼は今日もいつものように始業五分前に登校し、いつものように靴箱を開け、いつものように1―Cの扉を開けた。
ただ一ついつもと違うところがあったとすれば。
いや、ある意味においていつも通りだったのは。
教室の内側がパイ投げスナイパー養成所になっていた事であった。
「いいかぁ、パイには適度な堅さが必要なんだ。相手を傷つけず、それでいてしっかりと形を保つコシが(前略)重要なのは砂糖を控え目にする事で単に(中略)というわけで、パイ投げには無心の(後略)」
理想のパイについて延々と語る者。
「もっと生クリーム持ってこいやぁ!!!」
手動泡立て器で力の限り生クリームを泡立て続ける者。
「そこ、紙皿切れかけてる!! 急いで補充して!!」
指示を出し、パイの補充に勤しむ者。
「もっとターゲットの動きを見定めろ! そしてフットワークを生かせ!」
「「「はい!!!」」」
「……………」
椅子に縛り付けられ、パイ投げのターゲット役に徹する者。
最後の一人は、クリーム塗れでもはや人間の輪郭を留めていない状態であったが。
教室のあちこちで翔の級友同士がペアを作り、互いにパイをぶつける隙をうかがっていた。
そこは単に教室と言うにはあまりに殺伐として、それでいて隙が無く、そして怒りと遊び心に満ちていた。
そこはまさに戦場だった。
あっけにとられて立ち尽くしている翔に最初に気がついたのは、隣の席の園宮希美であった。
「あ、羽田君おはよ~」
「園宮、聞きたいことがあるんだが」
翔は希美の挨拶が終わらないうちに、もう質問していた。
「どうしたの?」
それを訝しみながらも、希美は翔の質問に答えようとしてくれる。翔はただ一言、短く聞いた。
「会長か?」
「うん、そうだよぉ。お兄ちゃんに鉄槌を下すの」
猫科の猛獣のような笑みで、希美は言った。
翔は関わり合いになる事を避けて、1―Cから立ち去った。
※余ったクリームは後でスタッフがおいしくペロペロしました。
翔が生徒会室に入ると、中に居たのは会長の園宮薫と副会長の柏葉美幸だった。
「由々しき事態だ」
開口一番、薫が重々しく告げる。しかし声とは裏腹に、薫はどこか落ち着きがない。落ち着きが無い事自体はいつもの事であるが。
「あんたの頭の中は常に由々しき事態ですが、一体どうしたって言うんですか」
翔の言葉には最初から容赦がなかった。
「私から説明します」
狼狽した薫が口を開こうとするのを、美幸が制して言う。
「現在、1―Cでパイ投げの練習が行われているのはご存じですか」
「それは、知っています。というよりも、それを知ってここへ来たんです」
美幸は頷いて、答えを告げようとする。
「実は昨日の事なのですが」
「会長、希美に嫌われちゃったんだよぉ~」
何かに耐えきれなかったのだろう。美幸の声にかぶせるように、突然、薫が情けない声を上げた。
「好かれていると思っていた事自体が驚きですが、それが何でこんな事態になるんですか?」
「会長、口を挟まないで下さい。話がややこしくなります」
もはや誰も落ち込んでいる薫を気に掛けるつもりは無いようだ。
「昨日、会長が帰宅した際、家で妹さんと言い争いになったそうなんですが、これが会長が希美さんの勘に障る事を言ったかららしく」
翔は思った。薫が勘に障らない事など天地開闢以来一度も無かったでは無いか、と。
「それで、彼女がそれをクラスメイトに相談したところ、会長にパイをぶつけよう、という事になったらしいのです」
「前後の文脈が著しく乱れているのですが、これは一体どういうことなんでしょうか」
会長←パイ投げ に疑問はないが、相談→パイ投げ の辺りが翔には今一つ腑に落ちなかった。
美幸は翔の言葉に眉一つ動かさず、話を続ける。
「あなたのクラスの出し物ですが、寸劇喫茶になりましたよね」
「はい。というか、先輩と一緒に決めたじゃないですか」
1―Cの出し物が出展内容調整会議までに決まらず、クラスでそれぞれが意見を出した後、最終的に翔と美幸が話し合って決めたのは、ほんの1週間前のことである。
因みにその時薫も同席していたが、彼はスーパーボールが天井と床との間で最大何往復するかを確かめるのに忙しかったため、話し合いには参加していない。
「寸劇喫茶で、希美さんは寸劇の演者になった。ここまではいいですか」
「そうですね。けど、本人も喜々として立候補してましたし、何も問題は無いように思うんですが」
翔がそう疑問を返すと、美幸は深く溜息をついた。
「希美さんは家に帰ってから、会長にそのことを報告したんです」
「なるほど、それが、会長は気に入らなかった、と」
ようやく翔が現状に追いついたところで、合の手が入る。
「そうなんだよ。このままだと、会長は妹のウエイトレス姿が見れない、ってことになっちゃう。羽田君、会長はどうしたらいいのかなぁ?」
「そんなことは家でやって下さい。で、最終的に園宮を怒らせた決定的な一言は、何だったんですか」
翔の問いに、美幸は珍しく言葉に詰まった。僅かにしかわからないが、美幸の頬は赤く羞恥の色に染まっている。それほど恥ずかしい内容なのだろうかと翔が訝しんでいると、
「だから、会長言ったんだって。『文化祭で見れないんだったら、せめて今着て見せてくれ』って」
薫が口を挟んだ。それを聞いても、翔には美幸が照れた理由も、希美やクラスメイトたちがこれほど怒っている理由も、やっぱりわからなかった。
「……まあ、何でもいいです。それで、どうやって皆を落ち着かせたらいいんでしょうか。僕にはさっぱり思いつかないんですが。とりあえず、会長に謝らせてみます?」
翔がそう言うと、美幸は頭を振って答える。
「私もそう言ったのですが、会長は納得してくれなくて」
「会長、どうして謝らないんですか。会長が皆に一言謝ってクリーム塗れになれば、それで解決するんじゃないですか?」
副会長の言う事は常に正しい。それが、県立狛※高校の常識なのだ。
しかし、
「……黙秘する」
いつもならすぐに下らない答えを長々と続ける薫が、このときは珍しく短く一言で返答した。
「どういうことですか? 会長、ちゃんと答えて下さい」
「男には、兄には、守らなければならない矜持、というものがある。これだけは、譲れないんだよ」
いつになく、意志が固い。翔が厳しく問い詰めるも、やはり薫は答えなかった。
何もこんな時に真人間にならなくても、と、翔は溜息をついた。
「最初からずっとこの調子なんです」
美幸が諦めたように言った。
「ええ、私もそう言っているのですが、あなたのクラスメイトは聞き入れようとしなくて」
美幸の声にはいつもの冷徹さが欠けているように、翔には思えた。
翔はクラスメイトを落ち着かせるために、美幸と共に1―Cに向かっていた。
今日は週に一度、ロングホームルームがある日であり、文化祭の準備を全員で進める数少ない機会である。ただでさえ他のクラスより準備が遅れているのだ。これ以上の遅滞は許されない。
二人はすでに薫を説得する事を諦めていた。いかに言葉を重ねようとも、薫は決して首を縦に振ろうとはしなかった。最初の軽口は誤魔化しの類であったらしく、翔が厳しく問い詰める程に薫の軽佻浮薄さは鳴りを潜め、巌のように押し黙ったのだ。
結局、とりあえず翔がクラスメイトの説得に当たることになった。
「けど、僕から言ったところで皆が聞くかどうかはわかりませんよ?」
「構いません。一度試してみればすんなり上手くいく、と言う事もあるのです。百聞は一見に如かず、ですよ」
副会長様のお言葉があろうとも、翔の足取りは重い。対して、美幸はためらいなく足を進める。どのような結果になろうとも、彼女にとって問題にならないからである。
美幸は翔が入学してきた時の事を思い返していた。クラスメイトたちとは纏っている気風が全く違った翔が今のようにクラスに溶け込む事など、当時の彼女には想像も出来なかったのだ。朱に交われば赤くなる、であり、人間を育てるには先ず環境を整えろ、孟母三遷、である。
もちろん1―Cがよい環境であるかは論を待たないし、翔は幼児ではないのだが。
「一応全力を尽くしますけど、結果は期待しないで下さいね」
「わかっています」
「それじゃ、行きますよ」
「はい。お願いします」
二人は頷き会う。
そして翔は勢いよく扉を開き、室内へと侵入した。
翔ならきっとどうにかなると、その時の美幸は信じていた。
「どうしてこうなった」
翔は頭を抱えていた。とは言え、もちろん比喩的な意味である。実際のところ、頭を抱えようにも、今の彼は腕を身体から離すことすら出来ない。翔は荒縄で簀巻きにされ、芋虫のようにされて教室の隅に転がっていた。
「人質を解放し、速やかに投降しろ! あと希美ちゃんはお兄ちゃんの所まで出頭しなさ~い。待ってるよ~」
「抵抗は無意味です。直ちに武器を捨て、投降して下さい」
薫と美幸が、交互に1―Cに投降を呼びかけている。薫が毎回異なる内容を呼びかけるのに対して、美幸は一言一句違わない内容を繰り返す、というバリエーションが、翔の集中力をなんとか維持していた。
今の時間はホームルームであり、他のクラスでも文化祭の準備が行われているはずだが、他クラスの面々は1―Cの喧噪に見て見ぬ振りを決め込んでいる。耳栓は既に配給済みだ。
翔から見て教室の対角線上の隅には、担任教師がパイプ椅子に掛けているが、彼は携帯ゲーム機に熱中して教室内外の魑魅魍魎に関わろうとしなかった。賢明な判断である。
『我々は断固として圧力には屈しない』
『こちらの要求を聞き入れ、大人しく生徒会長を生け贄に捧げろ』
『要求が聞き入れられない場合、10分ごとに一つ、人質にパイを投げつける』
『繰り返す。我々は断固として、圧力には屈しない』
『大人しく生徒会長を生け贄に捧げろ』
1―Cは、翔を除いて一丸となっていた。
希美はどのようなプロパガンダを行ったのであろうか。ナチス・ドイツのゲッペルスもびっくりの集団洗脳である。
そしてその希美は、簀巻きにされた翔の上に足を組んで腰掛けていた。
「ふふ……最初のパイが投げられるまで、残り時間はあと4分よ、羽田君。お兄ちゃんが心変わりすることを祈りなさい」
いつもの気の抜けたコーラのような呑気さは無く、今の希美は死の天使の如く狂乱している。人間がこのような状態に変わり果てるのに、一体どれほどの業が必要なのだろう。薫はそれほどむごい行いをしたと言うのだろうか。翔は想像すら出来ないそのおぞましさと罪深さに、恐れ戦いた。
翔の心情など眼中になく、希美は言葉を紡ぐ。立ち上がり、声を張り上げ、級友達の魂を奮わせる。
「これ以上、会長の圧政を看過することは出来ない!!」
『『『そうだ! 看過出来ない!!』』』
「我々は今こそ立ち上がる! そしてこの狛※に新たな秩序を与えるのだ!!」
『『『新秩序樹立の刻は今だ!!』』』
「今こそ生徒会長に鉄槌を!!」
『『『鉄槌を!!』』』
「正義は、我らにあり!!」
『『『悪に報いを!!!』』』
既に最高潮かと思われた教室内の熱気は、希美の扇動によって更に高められてゆく。
もともと1―Cには、自分たちがそれぞれ提案した出し物が受理されなかったことに対する不満が募っていた。現在の出し物を決定したのが狛※の不文律たる美幸であっても、わだかまりは残る。
希美はそこを突いたのだ。チープなアジ演説であろうとも、それまで方向の揃っていなかった不満に一つの出口を与えてやることで、大きな流れを作り出した。そしてそのうねりは、もはや誰にも止めることは出来ない。希美自身にさえも。
「結局、何でも良かったのかよ……」
翔が小さく独りごちる。それを耳にすることができたたった一人が、にやり、と猫科の猛獣のような笑みを見せる。
「そうだよ。皆は別にお兄ちゃんに強い不満を抱いてたわけじゃないし、今日突然正義に目覚めたわけでもない。皆の不満を私の不満にすり替えて、統一しただけなのよ。私の『お兄ちゃんを許さない』っていう不満にね」
翔はようやく理解した。目の前にいる女は、腐ってもあの生徒会長の妹であるということを。普段は回転の遅い蛍光ピンクの脳細胞だが、悪巧みをする時にその能力を最も発揮する類の人種であるということを。
「じゃあ、後でね」
希美は最後に翔に向かって艶然とした笑みを見せると、熱狂する級友達の群れの中へとその姿を消した。
級友達の声は益々大きくなっていく。もはや人間の声とも獣の吠え声ともつかないそれを身体から絞り出している。瞳孔は大きく開ききり、呼吸は荒い。もはや、正常な精神を保っている者は残っていない。全身の皮膚が朱に染まり、発汗を続けているが、その表情は、恍惚感に支配されていることがわかる。
その様を、人はトランス状態と呼ぶ。
あるいは、洗脳と言った方が正しいのかもしれないが。
まだその精神が人であった時、最後に刷り込まれた言葉に従って、彼らは薫を襲撃するだろう。
今はもう、人と呼べなくとも。
希美はそれが自分でなくても構わないのだ。手段が何であっても構わないのだ。
薫に痛撃を与えることが出来るならば。
だが、それにしても、だ。
「…………兄妹喧嘩は…………家でやれ……………………」
そのつぶやきは今度こそ誰の耳にも届くことなく、虚しく宙を彷徨って、消えた。
『羽田翔』という希望(ネタ元)は潰えた。これ以上現状を維持することに時間を費やしても、劇的な展開は訪れないし――面白いことにはならない。
美幸がそのことを理解したのは、翔が突入してから8分が経過した頃であった。
それまで室内から間断なく発せられていた要求は既に途切れ、今1―C教室から聞こえてくるのは獣のような唸り声ばかりである。このままでは、説得が終わるまでただ漫然と待つか、あるいは襲撃者から隠れて時間を措くか、ぐらいしか選択肢がない。
それでは面白くない。美幸は新たに燃料を投下することを決意する。
彼女は視界の端で薫の様子を確認し、小さく微笑んだ。
美幸の隣で、薫は未だに1―Cに投降を促している。あくまで説得によって事態を解決するつもりである。
薫にとって希美に危害を加えることは――例えそれが躾という意味合いであっても――南極を裸で横断することに等しく、生身で大気圏に突入することに等しい。
やる、やらない、の前に、不可能なのである。仮に達成しても、その後死ぬ。
薫は現在、妹への愛だけで人間として最大限に幸福である。その彼が、その幸福を全て失った時、果たして命をつないでいけるだろうか。
いや、薫にとっての妹とは道標であり、人生の全てであった。これまで妹と自分の意志が食い違うことなど皆無であったし、妹の意志に従うことに喜びを感じ、その喜びと共に生きてきたのだ。
そして今、薫は初めての事態に追い込まれている。彼は、妹からの好意を失うことを、これ以上なく恐れている。神の怒りを恐れる、従順な子羊のように。
いかに彼の蛍光ピンクの脳細胞と言えど、その性能が遺憾なく発揮されるのは、妹以外に対してのみだ。薫の頭に浮かぶのはただ一つ、妹の怒りが解けるまで、ただじっと耐え、愚直に説得を続けるという、長く険しい道を歩く事だけである。
そしてそれこそが、彼にとっての王道だった。
人はそれを、妹原理主義、と呼ぶ。
そんな薫の傍に寄り沿い、美幸はそっと囁いた。
「会長、問題を解決できるプランがあるんですが」
薫は思わず声を止め、驚きと歓喜、そして恐れの入り交じった複雑な表情で美幸を見た。
柏葉美幸は嘘を吐かない。柏葉美幸は常に正しい。それは狛※高校の常識である。美幸の提案は確かに、薫の抱える問題を解決しうるプランの一つであった。
ただし、今の薫にとって最良のプランではなかった。
1―Cという名の過激派集団が告げた交渉期限は10分間。今はそこから更に5分が経過している。
室内の熱狂は遂にピークを迎え、その熱は今にも外界へと迸らんばかりだ。教室の扉は内側から何度も叩かれ、今にもレールから外れそうである。
獣と化した1―Cの面々は、もう大事なことをたくさん忘れてしまっているのだ。
つまり――教室の扉はスライド式である、ということを。
そして――教室には後ろにも扉がある、ということもだ。
その教室後方の扉の前で、薫は待機していた。内側から跳ね飛ばされんばかりの前方の扉は、美幸が全力で押さえつけることで何とか今も収まっている。
突入する前に、薫はぎゅっと目を閉じ、美幸のプランの内容を再度確認する。それから目を開けて顔を上げ、美幸の方を見る。
美幸はじっと薫を見ていた。その瞳はいつも通りの怜悧さに満ち、その美貌はいつも通り冷淡さに縁取られている。だが、
(何となく、楽しそうに見える)
薫は、いつもなら思いつきもしないことを、珍しく考えていた。
美幸が薫に授けたプランは、非常に単純だった。
それはつまり、教室内にいる有象無象共を全て吹き飛ばす、というものである。
「おいおい、一体どうやって吹っ飛ばすっていうんだ。いくら会長でも、野獣を三十九匹+希美ちゃんを相手にしたら、勝ち目ないよ」
「心配ありません。これを使います」
美幸は屋内消火栓の扉を開け、中からノズルを取り出して、薫に手渡した。薫がノズルを握りしめるのに合わせて、消火栓からずるり、とホースが引き出される。
美幸は、消火栓の中で折りたたまれたホースを解しながら、薫に言う。
「ホースにねじれや折れ曲がりがあると、水圧で破裂する危険があるので、注意して下さい」
美幸に消火栓の前まで引っ張って来られた時から薫の予想の範疇にあったとは言え、まさか本当に放水すると思っていなかった彼は言葉もない。
沈黙する薫に、美幸は淡々と説明を続ける。
「海外では暴徒鎮圧に用いられる事もありますから、効果の程は十分のはずです。注意点としては、先程説明した点に加えて、近づきすぎないことが挙げられます。接近されると取り回しが難しい事に加えて、近距離で高圧の水流を受けた場合、部位によっては……」
「ちょっと、待ってくれ!」
そこで、薫は美幸の言葉を遮った。
「教室の中には希美ちゃんもいるんだ。しかも今は理性を失ってる。もし俺の手元がほんの少し狂ったら、希美ちゃんに怪我をさせてしまうかもしれない。そんなことになったら――俺は自分を許せそうにない」
薫は、美幸を睨み付けるようにしながら、怒りを交えた声で言った。
薫の怒声を浴びた美幸は、しかしそれまでと変わらない表情で、再び口を開く。
「心配要りません」
「なぜそんなことがわかる!!」
「希美さんは、教室の隅の方、おそらく羽田君と同じ所に居るでしょうし、理性も失っていないはずです。教室の中央方向に向けて放水しながら、先に希美さんの位置を確認すれば、安全は確保出来るはずです」
「だから! なぜそんなことがわかるのかって聞いてるんだ!!」
薫はもはや激昂する寸前であるが、美幸は、説明している時と同じ冷淡な――しかしどこかきょとんとした――無表情である。そして薫が爆発する寸前に、言葉を紡いだ。
「だって、あなたならそうするでしょう」
その一言で、薫はすっかり毒気を抜かれてしまった。
(そう、俺なら) (目の前にいるこの人はどうして) (だからってなぜ)
(そんなことは理由に) (…………だがなぜか納得できる)
幾つもの疑問が、稲妻の如く蛍光ピンクの脳髄を駆け巡る。けれど、答えを導き出せない。
どうして自分が選択する事を、希美も同じように選択するとわかるのか。
希美は自分にとって何なのか。道標なのか、崇拝の対象なのか。
それとも、それ以外の何かなのか。
希美にとって、自分は何なのか。
(決まってるじゃないか)
薫は、ごくごく当たり前の事に、ようやく気が付いた。
「今まで気が付いていなかったんですね」
薫はただ美幸の言葉を聞いている。美幸は猶も続ける。
「会長と希美さんって、すごく似ているんですよ。やっぱり、兄妹なんですね」
そう言って、微笑んだ。
翔は、男子特有の、複雑な心境だった。見えそうで見えない、というやつである。
教室の扉側から窓際後部までずるずると引きずられ、椅子に掛けた希美のふくらはぎの下にいる今の彼は、希美の足置きなのである。
実際の所は、ちょっと頭を動かすと見えるのだが。
「なかなか良い感じだねぇ、羽田君。天気もいいし。ねえ、今度からうちで喋るオットマンとして働かない?」
その口調に、翔は薫の影を見る。兄妹だけあって、こういうときの態度はそっくりである。薫に対してなら激昂している翔だが、今は腹を立てたりしない。それぐらいの分別と処世術は身につけている。
それよりも。
「なあ、さすがにこれはやり過ぎなんじゃねえの? いくら会長でも、単純な数の暴力には勝てないと思うけど」
翔は人間の肉体の限界というものをよく理解している。八極拳の功夫を積む際に、自分の身体で覚えたものだからだ。どんな達人であっても、トランス状態で痛覚の鈍った、痛みを恐れない人間を、数十人も同時に相手にすることは難しい。
翔自身ならば、せいぜい同時に三人がいいところであり、翔の見るところ薫も同程度である。
つまり、薫はこの教室に入り込んできたら為す術なくやられてしまう、ということだ。
では、仮に一対一なら? それで薫が不覚をとらない保証はどこにもない。
あるいは打ち所が悪ければ?
そして、理性のない獣を相手にして、それはただやられてしまう、という事を意味しない。
「下手すりゃ死んじまうんだぜ。しかもぼろぼろに」
そう言って、翔は希美を睨め付ける。だが希美は翔の忠告を歯牙にも掛けない。
「お兄ちゃんがこの程度でやられるわけないでしょ。私のお兄ちゃんはサイキョ~☆ なんだから」
希美はそう言い、翔は溜息を吐いた。結局どうにも似たもの兄妹なのだろう。翔はそれで納得することにした。
「けど、もう交渉期限過ぎてるぜ。どうすんの? 俺のことクリーム塗れにするの?」
「ん~~、じゃあ、校内で鬼ごっこしちゃおう。そろそろ扉開けてあげないと、かわいそうだしね」
希美はクラスメイトたちの方にちらと目を遣り、翔の上から足を下ろす。
そして、扉を開け放つために椅子から立ち上がったその時。
けたたましいベルの音が学校中に鳴り響き、教室後部の扉が勢いよく開け放たれた。
薫と美幸は頷きあい、準備ができたことを確認しあった。既にホースは薫の手元まで伸ばされている。薫は打ち合わせ通り、美幸にも見えるように指を折ってカウントを取る。
そして、
(――2,1,GO!!)
合図と同時に美幸は扉から離れる。これまで押さえられていた力がなくなって、内側からの激しい圧力で扉が教室の廊下側に湾曲する。
だが、
(あと数秒、持てばいい)
今の薫に必要なのは、美幸が消火栓まで駆け寄ってスイッチを押し、両手でバルブを開くまでのほんの数秒なのだ。よほど焦って失敗しない限り、必要なのはそれだけの時間で良い。
そして美幸は絶対に失敗しない。彼女は『絶対零度の女王』なのだから。
そう思えることが、今の薫には心地よかった。
美幸が右手の親指で、警報ベルのスイッチを押し込むのが見えた。
学校中にベルが鳴り響き、これまで1―Cで起こっていた事に静観を決め込んでいた他のクラスも、ざわつき始めるのがわかる。
時間がゆっくりと流れて行くように感じられる。
美幸の右手は、まだスイッチから離れたばかり。
左手は既にバルブに掛けられている。
右手がゆっくりと下へスライドしていく。
焦れる――耐える――焦れる。
そして美幸が確かにバルブに手を掛けた時、
(今っ!)
薫は扉の引き手に手を掛けると、扉を開け放ち、同時に斜め後ろに小さくバックステップ。
ノズルを腰だめに構えて、教室の中を見据える。
薫が開いた扉の正面、教室の窓際後方にいた希美ににやりと笑いかけた時。
ノズルの先から激流が噴き出した。
初めは絞られていた水流は、見る間に勢いを増し、教室内にある全てを吹き飛ばしていく。鞄も、机も、そして、人間だったものも。
教室内に侵入した薫は、教室の前方にあるもの全てを水流で、文字通り舐めるように押し流してゆく。
ノズルの先から飛び出した水流は、何かに衝突する度に分たれ、細かい流れへと変わって行く。それでも薫は、動くものが目に映るなり、そこを水流で狙い撃っていく。
それは圧倒的な力だった。人間だろうが、人間でないものだろうが、どうしようもない力の顕現。力による蹂躙。
そして薫は、分たれた流れが飛沫となり、教室中が靄に包まれた様になるまで、放水をやめなかった。
教室に残っている生徒は、美幸と翔、翔の上に尻餅をついた希美、そして、薫だけになった。
教室中水浸しになり、壁や天井の所々にホイップクリームが張り付いている。それはこの教室にいた生徒全員もそうである。薫も、希美も、翔も、制服の至るにクリームの油分が染み込み、それ以外の部分は水浸しになって、まだら模様を作っている。
美幸は、消火栓のバルブを閉めてから来たので、被害を免れていた。
他の生徒達は気絶していたが、美幸が1―Cの様子を覗きに来た他クラスの野次馬達に指示して、とりあえず生徒全員が運び出された。
薫は教室の中央に腕を組んで仁王立ちし、希美と、ついでにその下の翔を睥睨している。
美幸は薫の半歩後ろに、秘書のように佇んでいた。
希美の顔には、激流を目の当たりにした恐怖が色濃く浮かんでおり、みる間に憔悴していきそうだが、それでも薫から目を逸らすことができないでいた。
薫はただじっと、希美を見つめている。その視線の圧力に、希美は何度も視線を逸らしそうになったが、それでもただ薫を見ていた。
「頭は冷えたか?」
薫がぼそりとそう言うと、希美はゆっくりと頷く。
それを見た薫は目を伏せ、しばらく考え込んでいるようであったが、やがて目を開けた。
何かを躊躇っているようであったが、美幸がまるで背を押すように薫の肩に手を置くと、おもむろに口を開いた。
「いいかい、希美ちゃん。お兄ちゃんとの約束だ。
アイスは一日二つまで! 守れるね?」
それを聞いた希美は、初め驚いたような顔をしていたが、やがて、
「おにいぢゃ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ん゛、ごめんなざぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛い」
堰が切れたように涙を零し始めた。
薫は慌てて希美に駆け寄り、ポケットからハンカチを取り出して涙を拭おうとしたが、取り出されたハンカチもびしょ濡れだった事に気が付いて、苦笑する。
それを見た希美の顔にも思わず笑みが浮かび、やがて二人は固く抱き締めあった。自分の胸に顔を埋め、背に腕を回して猶もしゃくり上げる希美が泣き止むまで、薫は希美の頭をなぜ、優しくあやし続ける。ごく普通の兄妹のように。
そんな二人を、美幸は柔らかい表情で眺めていた。それは、今日一日の間に稀有でも何でもなくなってしまった、美しい微笑みだった。
そして翔は二人の下、教師は折り重なった机の間から、死んだ魚の様な目で二人を見ていた。
教師の携帯ゲーム機は、防水カバーが装着されていたために、危ういところで難を逃れたのだった。
怪傑篇に続きます




