本日の営業は終了しました
激しい嵐が嘘のように去り、数日後の下町は、抜けるような美しい青空に恵まれていた。
路地裏にひっそりと佇む「藤堂療術院」の入り口には、いつものように『営業中』の年季の入った木札がかけられ、中からは白檀の穏やかなお香の煙がのんびりと漂っている。
「――あー。お客さん、完全に『憑かれて』ますねぇ」
院内に響くのは、聞き馴染みのある大らかな大男の声。
施術ベッドにうつ伏せになっているのは、深刻な冷え性に悩まされて来院したOLの緑川ゆかりだった。
「そうなんですよ~。本当に、今週は新しいプロジェクトの立ち上げがあって、『疲れて』るんですよ〜。おまけに、なんだか肩のあたりが妙に重苦しくて……」
「でしょうね。特に左の肩甲骨の裏。何かがいとおしそうにしがみついてるみたいに、ゴリゴリに固まってます」
そう言って、ゆかりの華奢な肩に肉厚な親指を沈めているのは、院長の藤堂 義明だ。
前回の幼馴染・拓海の除霊という大バトルのあと、葵の血の滲むような食事管理とドカ食いにより、体重はきっちり百キロ超の「通常モード(熊男)」に戻っている。プロレスラーのような安心感のある巨体から繰り出される、信じられないほど繊細で優しい指圧に、ゆかりは「あぁ〜、効くぅ……」と幸せそうに深い吐息を漏らした。
だが、義明の視線は、ゆかりの肉体……ではなく、彼女の背中にとことこと乗っかっている、手のひらサイズの小さな犬の霊に注がれていた。
悪意や邪気は微塵もない。ただ、「大好きなご主人様と、まだ離れたくないよ」と寂しそうに潤んだ瞳で、ゆかりの肩にちんまりとアゴを乗せているのだ。
(なるほどね。この子はただ、最後のお別れのハグが少しだけ足りなかったんだな。よしよし、寂しくないようにちゃんとほぐして、優しく空へ還してあげよう)
義明は心の領域でチワワの霊の頭をよしよしとそっと撫でながら、ゆかりの肩甲骨のキワをやわらかく揉みほぐしていった。
「あ、そうだ先生」
ゆかりがふと思い出したように、顔枕の中から声をこもらせて言った。
「私、一昨日くらいにこのお店の前をたまたま通ったんです。その時、お店からすっごい儚げな、少女漫画からそのまま飛び出してきたみたいな超絶イケメンが出てくるのを見たんですけど……あの方、先生の弟さんか何かですか? ほら、少し雰囲気が似てたような……まさか先生がここ数日で激やせしてまた太ったとかないですよね~」
ピクッ、と義明の親指が綺麗に止まる。
受付カウンターで帳簿をつけていた葵が、必死に笑いを堪えてぷっと吹き出した。
「あー……。いや、それはですね、都市伝説みたいなものです。この下町の路地裏には、たまにそういう、哀れな幻影が出るんですよ」
「えぇ? 幻影ですか?(笑) ずいぶんリアルなイケメンでしたけど」
「そう、ただの幻影です。そんなことより緑川さん。最近、ご実家のワンちゃん、亡くなったりしませんでしたか?」
「えっ!? なんで、それを知ってるんですか……!? そうなんです、一昨日の夜、実家でずっと飼っていたチワワが、老衰で息を引き取って……」
「きっとね、そのワンちゃん、今もあなたのことが本当に大好きなんですよ。だから『寂しがらないで、ちゃんと前を向いて歩いてね』って、最後にあなたの肩を優しく押しにきたんだと思いますよ」
義明がゆかりの首筋の凝りをすうっと優しく上へ流すと、バチッと小さな、温かい静電気が弾けた。
ゆかりの背中にいたチワワの霊は、もう寂しくないよと満足したように「ワンッ!」と元気よく一吠えすると、光の粒子になってフワフワと天井へ、そして青空へと昇っていった。
「あ……。なんだか急に、肩がぽかぽかして、すっごく軽くなりました……」
「それは良かった。はい、本日の施術はこれですべて終了です。お疲れ様でした」
義明がのんびりと目尻を下げて笑うと、ゆかりは「先生、本当に不思議な整体師さんですね」と満面の笑みを浮かべ、すっきりとした軽い足取りで療術院を後にした。
パタン、と心地よい音を立てて引き戸が閉まる。
「ふぅ……。やっぱり、こういう平和で優しいお客さんが一番癒やされるねぇ」
義明が大きな身体を伸ばして深く息を吐くと、受付から葵が呆れた顔で歩み寄ってきた。
「何寝言言ってるんですか、師匠。ゆかりさんが帰るのを見計らったように、さっき次の予約の電話が入りましたよ。……なんでも『最近、背中がゾクゾクして身の毛がよだつ』んだそうです」
「おっと。本物か、あるいはただの重度な筋膜の突っ張りか……」
義明は苦笑いしながら、白衣の袖をもう一度、力強くまくり直した。
「よし、葵さん。とりあえず夜の分の出前、今のうちに頼んどいて。次は……そうだな、国産豚のカツカレー(五人前)で。お野菜もルーにたっぷり溶け込んでる、一番健康的なやつね」
「だから! カロリーの戻り方がバグりすぎるって言ってるでしょうが! 師匠が通常モードよりデカくなると、廊下ですれ違うとき狭くて迷惑なんですってば!」
「いいじゃん、これくらいの蓄えがないと、次のお客さんの重みに耐えられないんだから」
葵の声を心地よいBGMにしながら、義明はベッドの消毒をする。
外からは、夕暮れ時ののどかな下町の営みの音が聞こえていた。
見えない世界の歪みを正し、傷ついた心と体をほぐしていく。
下町の路地裏、白檀のお香の煙が優しく揺れる小さな整体院で、藤堂義明の「のっぴきならない施術」は、これからもきっと続いていく。




