つかれてますね
「……あー。お客さん、完全に『憑かれて』ますね」
薄暗い路地裏の奥、お香の煙がどこか厳かに、かつのんびりと揺れる「藤堂療術院」。
施術ベッドの顔枕にすっぽりと顔を埋めた女性客――緑川ゆかりは、肉体の限界を告げるようなどろりとした溜息をつき、くぐもった声で力なく笑った。
「そうなんです先生……。本当に、笑っちゃうくらい仕事が忙しくて。毎日毎日、終電間際まで残業続きで、体も心もクタクタに『疲れて』るんですよぉ……」
「でしょうね。かなり『重い』のが乗ってます。特に首から肩にかけてのライン。普通じゃありえない、石でも埋め込まれてるみたいなゴリゴリの塊になってますよ」
そう言って、ゆかりの薄い肩口にそっと親指を沈めたのは、この療術院の院長――藤堂 義明だ。
身長185センチ、体重は余裕で100キロを超える巨漢。仕立ての大きな白衣のせいで、マッチョなのか太っているのか判別がつかない。まるで冬眠前の熊がそのまま白衣を着て二足歩行しているような大男だが、その指先のタッチは驚くほど繊細で、羽毛のように優しい。
「ひゃうっ……! そこです……! 痛い、けど、すっごく気持ちいい……。先生、やっぱり体格が良いから指圧の圧が芯まで響きますね、効くぅ……」
「はは、これでも一応プロですから。力任せに押してるわけじゃないですよ」
義明はのんびりおっとりした声で微笑む。
だが、彼の細められた視線は、ゆかりの肉体そのものではなく――彼女の背中に、文字通り「おんぶ」の状態で隙間なく張り付いている、一人の老人の霊へと真っ直ぐ注がれていた。
霊の正体は、ゆかりが先月まで勤めていた前職の、業界でも頑固で有名だった元上司だ。半月前に病死したと風の噂で聞いていた。
透けた老人の霊は、ゆかりの華奢な肩に骨張った顎を乗せ、何かを必死に訴えかけるようにぶつぶつと唇を動かしている。だが、その喉からは「ヒヒ……、グ、ゥ……」と不気味に空気が漏れるような音が鳴るだけで、まともな言葉になっていない。
見れば、霊の喉元には、どす黒い怨念のモヤが引き攣った血管のような筋となって、蛇のようにへばりついていた。
(なるほど。このじいさん、喉がつかえて言葉が出ないんだな……)
義明は指先の感覚だけで、霊の未練の深さを測る。
(生前、彼女が会社を辞める時に、どうしても言えなかった本音を遺したまま死んじまったんだ。その強い心残りが『霊的なコリ』になって自分の喉を締め付け、言葉を奪っている。……で、その霊的な冷気と重圧が、おんぶされてる彼女の喉まで物理的に圧迫して、呼吸を浅くさせてるわけだ。よし、まずはこのじいさんの喉のコリから、じっくり解きほぐしてやるか――)
義明は小さく息を吐き、隣の受付カウンターでバインダーを抱えてカルテを整理している見習い弟子の葵に声をかけた。
「葵さん。お昼の出前、いつものやつ頼んどいて」
「え、またですか?」
十九歳の受付兼弟子、葵がピシャリと容赦のないツッコミを入れる。
「師匠、まだ十一時半ですよ。それに朝だって、お米二升分の塩むすびをペロリと平らげてたじゃないですか!」
「いや、午後からの仕事に備えてね、今のうちに『アーマー』を補充しておかないと。いつものお相撲さん御用達の店から、地鶏ちゃんこ鍋を頼む。あと、トッピング用に豆腐五丁と、あと、奥からバナナを一房、プロテインを大ジョッキで持ってきて」
「ちゃんこは野菜たっぷりで健康的ですけど、量が完全におかしいんですよ!そもそもプロテインをバナナで流し込む整体師がどこにいますか、ただのドカ食い大魔神じゃないですか! 整体師が自分の体重管理できなくてどうするんですか! 戻りすぎて廊下ですれ違うとき狭いんですからね、圧がすごいんです!」
ぷんぷんと肩を怒らせる葵を、「まあまあ、これも業務の一環だから」と大らかな笑みで宥めながら、義明は再び、手元のゆかりの施術へと意識を集中させた。その瞬間、のんびりとした空気が微かに引き締まり、彼の瞳が職人のそれへと切り替わる。
「緑川さん。前のお仕事、急に辞められたって言ってましたよね。……何か、心残りでもありました?」
義明は、ゆかりの首の付け根へと触れる指先にじわりと力を込めた。ちょうど、老人の霊の透けた『手』が、ゆかりの喉を力任せに締め付けている、まさにその部分だ。そこを、凍えた氷を溶かすように、手のひらの熱でじっくりと温めながら揉みほぐしていく。
「あ……。はい」
顔枕の向こうから、ゆかりの小さく震える声が漏れた。
「前の職場に、すっごく厳しい上司がいて。私、毎日毎日怒られてばかりで……。自分の不甲斐なさに耐えられなくなって、最後は逃げるように辞めちゃったんです。でも、そのすぐ後に、その上司が病気で急に亡くなっちゃって。ちゃんとした挨拶も、謝罪も、何もできないままお別れになっちゃったなって……。最近、そのことを思い出すと、なんだか喉の奥がキュッと詰まって、本当に上手く言葉が出なくなっちゃうんです」
つぶやくと同時に、ゆかりの目からポロリと大粒の涙がこぼれ、ベッドに小さなシミを作った。
後悔と申し訳なさ。彼女がずっと喉の奥に押し込めていた本音が、涙となって溢れ出していく。
そのとき、義明の太い親指にグッと重い力がこもった。
(……よし、ツボは捉えた)
義明はゆかりの強張った首筋を、優しく、しかし確実な圧で押し込みながら、彼女の背後にいる老人の霊に向けて視線を定めた。肉声ではなく、他者には決して聞こえない「心の中の領域」で、静かに語りかける。
『あんたもさ。本当は、こんなところで彼女を責め立てたいわけじゃないんだろ。……自分の喉をそこまで締め上げて、言葉を詰まらせてまで、一体何を伝えたかったんだ?』
問いかけながら、義明の指先から、じんわりと温かく力強い霊気を注入していく。それはまるで、頑固に凍りついた雪解けを促すかのような熱量だった。
すると、その温もりに導かれるようにして、老人の霊の喉元を縛り付けていたどす黒いモヤが、フッと糸が解けるようにして解きほぐされていく。
老人の霊は、驚いたように大きな目を見開いた。しばらく唖然と義明を見つめていたが、やがて、堰を切ったように、ぽつり、ぽつりと不器用な言葉を漏らし始めた。
『……すまなかった、と。期待の裏返しだったんだ。だが、厳しくしすぎた。お前をそこまで追い詰めるつもりはなかったんだ……。お前は、本当に、よく頑張っていた……』
それは、生前どうしても自身のプライドや立場が邪魔をして口にできなかった、不器用すぎる上司の、偽らざる「本音」だった。
「緑川さん」
義明は、ゆかりの首の凝りを、手のひら全体で包み込むようにして、すうっと流しながら、現実の言葉として彼女に語りかけた。
「その上司の方、きっと怒ってなんかいないですよ。むしろ、あなたに厳しくしすぎたことを、すごく申し訳なく思っているんじゃないかな。『本当によく頑張っていた』って。だから、もう自分を責めなくて大丈夫ですよ」
「え……?」
ゆかりが、息を呑んだ。
その瞬間、義明の指先から、バチバチッと静電気のような、何かが弾ける音が室内に響いた。
同時に、彼女の背中に縋り付いていた老人の霊の姿が、憑き物が落ちたような、驚くほど満足げで穏やかな笑顔を見せ、薄暗い空気の中に溶けるようにして、綺麗に消え去っていった。
「あ……。あれ……?」
ゆかりはゆっくりとベッドから顔を上げ、不思議そうに自分の首や喉元を何度も触った。
「すごい……! 先生、今、喉の奥のつかえが、すっごく綺麗に消えました! 呼吸がめちゃくちゃ楽です……! ずっと苦しかったのに、急に声が出しやすくなりました……!」
「それは良かった。心のコリが、体に悪さをしていただけですからね。……はい、本日の施術は終了です」
義明は傍らのタオルで額の汗を拭いながら、いつものようにのんびりと笑ってみせた。
ゆかりはベッドから立ち上がると、何度も何度も深々と頭を下げ、「先生、本当にありがとうございました!」と、見違えるほど晴れやかで明るい笑顔を見せ、療術院を去っていった。
パタン、と静かにドアが閉まる。
「ふぅ……」
誰もいなくなった院内で、義明は受付横のソファーにどさりと力を抜いて体を預けた。
その直後。
「……あーあ。やっぱり」
呆れ果てたような、葵の声が冷ややかに響く。
ソファーに横たわっている男の姿は、さっきまでの「体重100キロ超の熊男」では到底なかった。
大きな白衣は布切れのようにぶかぶかと余り、手首は折れそうなほど細くなり、顎のラインはカミソリのようにシャープ。切れ長の瞳にはどこか憂いがあり、儚げな空気を纏った、誰もが振り返るような「超絶イケメン」がそこに横たわっていた。
強い霊の頑固な「言葉のつかえ」を、己の肉体エネルギーと引き換えに無理やりこじ開けて除霊したため、文字通り身を削って激痩せしてしまったのだ。
「うぅ……葵……。限界だ、本当にお腹と背中がくっつく……。今、細胞レベルで命の危機を感じてる……」
「はいはい。悔しいけど、痩せてる時だけは無駄に顔が良いですよね、師匠。ほら、ナイスタイミングでさっきの出前、届きましたよ! 早くそれ全部胃袋に詰め込んで、いつものデカい肉体に戻してください!」
葵がドタドタと運んできたのは、すり鉢のような大鉢に並々と注がれた、湯気を立てる特大地鶏ちゃんこ鍋。そして、うず高く積まれたバナナの房と、プロテインの巨大ジョッキだ。
「……ちゃんこ、バナナ……ありがたい……」
超絶イケメンの姿をした義明は、飢えた獣のような目でそれらを見つめると、弱々しくも必死な手つきで箸を握りしめ、驚異的なスピードで健康的かつ破壊的なカロリーを口の中へと流し込み始めるのだった。




