第1話 赤い眼の少女
「第3波、接近!」
伝令の声が吹雪の中を奔る。それを聞いたサフィラ・フォン・ヴァルターは剣身を振り払い、前方を睨んだ。雪煙の向こう。黒い影が蠢いている。狼。ゴブリン。オーク。コボルト。本来なら同じ群れを作ることなどあり得ない魔物たち。だが今は違う。その全身を覆う黒い靄だけが共通していた。
終末の獣。――ヴォイド。
一体一体は脅威ではない。問題は数だ。地平線の果てまで埋め尽くすほどの圧倒的な物量。
「……まだ来るか」
吐き出した息が白く消える。
三日。
三日間、この防衛線は持ちこたえてきた。昼も夜も関係ない。兵士たちの顔からは既に覇気が消えているただ使命感だけで立っているように見えた。銃声も。爆音も。最初の頃よりずっと疎らだ。
「少佐! 北区画に穴が開きそうです!」
「第2中隊を北区画へ回せ」
「それではこちらが!」
「構わん。壁に穴が開くよりマシよ」
即答だった。迷っている時間など無い。防壁を抜かれれば民間人が死ぬ。それだけは避けなければならない。部下は敬礼し、雪の中へ駆けていく。サフィラは再び前を向いた。その時だった。地響きが鳴り響く。群れの中央。他の個体より二回りは大きい巨体が姿を現した。黒い外殻。異常なまでに発達した腕。まるで防壁を破壊するためだけに生まれてきたようなオーク。
「大型個体確認!」
「砲撃準備! 照準――」
命令を出そうとした瞬間だった。空が鳴いた。誰もがそう錯覚した。黒雲に亀裂が走る。空が割れた。空間そのものが引き裂かれたかのように。兵士たちが息を呑む。ヴォイドたちですら動きを止めた。そして。裂け目から一つの影が落ちてくる。
少女だった。
白い髪。
黒い外套。
血のような赤い瞳。
少女は雪の上へ静かに着地すると、周囲を見回した。まるで知らない街へ迷い込んだ旅人のように。
「……ん」
空を見上げる。黒い雪。崩れた防壁。そして。延々と敷き詰められたかのような死体の山。少女は視線を落とし、小さく呟く。
「ここもか」
慣れた口調だった。まるで。こんな光景を何度も見てきたかのように。サフィラは剣を構える。
「何者だ」
赤い瞳が向けられる。感情が読めない。恐怖も。焦りも。何も。だが敵意だけは感じなかった。
「旅人」
少女はそう答えた。意味が分からない。だが考えている暇は無かった。敵は既に目前まで迫っている。
「簡潔に聞くぞ」
サフィラは言う。
「君は味方でいいんだな?」
少女は頷いた。サフィラは納得するしかない。本来なら説明を求める。拘束して尋問してもいい。だが今は戦場だった。すると少女は徐に刀を抜く。顔の前へ掲げるように。
(……ん?)
サフィラは眉をひそめた。
(さっきまで手に何も持っていなかったはずだが)
そう思った瞬間。
「緋依」
少女が呟く。次の瞬間。少女の背後に六本の剣が現れた。兵士たちがざわめく。宙に浮かぶ六振りの刃。意思を持つかのように少女の周囲を巡っている。
「君は能力者か?」
問い掛ける。だが返事は無い。
「舞姫」
少女はさらに呟いた。その瞬間。大型のオークが咆哮を上げる。巨体が雪を砕きながら突進した。兵士へ。防壁へ。全てを破壊するために。皆が恐怖した。だが少女は逃げなかった。それどころか。駆けた。速い。目で追うのがやっとだった。世界が赤く瞬く。次の瞬間。オークの上半身が滑り落ちた。
あまりにも綺麗な断面。そして思い出したかのように血が噴き出す。
沈黙。
誰も言葉を失った。少女は刀を鞘へ戻す。それから首を傾げた。
「……あれ?」
少し考えるように。そして。
「コアじゃないんだ」
その言葉の意味を理解できた者は、この場には一人としていなかった。しかし理解する必要も無かった。ヴォイドたちはまだそこにいる。それも大量に。大型個体が倒れたことで一瞬だけ足を止めていた群れが、再び動き出した。咆哮。怒号。雪を踏み砕く音。黒い波が防壁へ押し寄せる。
「総員迎撃!」
我に返ったサフィラが叫ぶ。銃声が響く。砲撃が空気を震わせる。しかしヴォイドは止まらない。倒れても。吹き飛んでも。後ろから次が来る。終わりが見えない。少女はそんな光景を見ながら首を傾げていた。
「多いなぁ」
まるで他人事だった。その言葉にサフィラの眉がぴくりと動く。多いなぁ、で済む数ではない。
この三日間、何百人もの兵士が死んだ。街一つの命運が掛かっている。だが少女は本当にそう思っているらしかった。そして。
「ん」
再び刀に手を添える。
「ヒヨリ」
六本の剣が少女の周囲を巡る。
「舞姫」
次の瞬間。六本の剣が飛び出した。砲弾より速く。矢より鋭く。銀色の軌跡が吹雪を切り裂く。
一体。
二体。
三体。
十体。
二十体。
ヴォイドたちの身体が次々と崩れ落ちる。それは戦いではなかった。収穫だった。麦を刈るように。
草を薙ぐように。ただ切り伏せていく。
「なっ……」
近くにいた兵士が絶句する。サフィラも同じだった。強い。そんな言葉では足りない。今まで見たどんな能力者とも違う。少女は歩いているだけだ。剣が勝手に敵を殺している。まるで六人の達人が同時に戦っているようだった。いや。それ以上かもしれない。すると。一体のヴォイドが少女の背後から飛びかかった。
狼型。素早い個体。普通なら反応できない。しかし。少女は振り向きもしなかった。一本の剣が勝手に飛ぶ。狼型の頭部が消し飛んだ。そのまま剣は別の敵を貫く。
さらにもう一体。さらにもう一体。止まらない。
「少佐!」
部下の声。サフィラは我に返る。
「何をしている! 敵はまだ残っている!」
「は、はい!」
兵士たちが再び動き出す。少女だけに任せる訳にはいかない。サフィラも前へ出る。迫るオークの腕を斬る。凍結。砕け散る。さらに一歩踏み込む。首を落とす。血が舞う。だが。気付けば。周囲に敵が居ない。ほんの数十秒。それだけで防壁前のヴォイドたちは壊滅していた。
静寂。
吹雪の音だけが聞こえる。少女は周囲を見回した。
「終わり?」
「……終わりだ」
サフィラが答える。少女は少しだけ考える。
「そう」
興味が無さそうだった。あまりにも。あまりにもあっさりしている。
三日間。
この防衛線を苦しめ続けた敵だ。それを。
まるで散歩の途中で道端の石を蹴飛ばした程度の感覚で片付けている。少女は空を見上げる。黒い雪。
灰色の空。死にかけた世界。そして。ぽつりと呟く。
「ここにも居ないか」
「何がだ」
サフィラは聞き返す。少女は少しだけ考える。答えるべきか迷ったように。そして。
「コア」
その単語を口にした。
「この世界を壊してる元凶」
サフィラは目を細める。元凶。そんなものが居るのか。
「待て」
少女が歩き出そうとする。
「どこへ行く」
「探しに」
「一人でか?」
少女は振り返る。
「うん」
本気だった。本当に一人で行くつもりらしい。サフィラは頭を押さえた。突然空から降ってきた謎の少女。ヴォイドを虐殺するほどの能力者。元凶を知っている。そして。放っておけば勝手に居なくなりそうな旅人。
「……まず話を聞かせろ」
少女はきょとんとする。
「話?」
「そうだ」
サフィラは溜息を吐いた。
「君が何者なのか」
「コアとは何なのか」
「なぜ空から落ちてきたのか」
「聞きたいことは山ほどある」
少女は少し考える。本当に少しだけ。
そして。
「ご飯ある?」
真顔でそう言った。サフィラは固まる。兵士たちも固まる。数秒の沈黙。
「……あるが」
「じゃあ行く」
少女は頷いた。まるで今世界を救った本人とは思えないほど気楽な様子で。その姿を見て。サフィラは初めて思った。もしかするとこの少女は。
強いだけではなく。
とんでもなく変な奴なのかもしれない、と。




