戻る道の準備
青い扉の店へ戻る頃には、リーヴェルの街に少しだけ夕方の色が混じり始めていた。
水路の表面に、赤い屋根の影がゆらゆらと揺れている。
市場通りの賑わいはまだ続いているが、昼間よりも人の流れは落ち着いていた。
ハクトは歩きながら、何度も地図を確認した。
赤屋根のパン屋。
修理屋マルタ。
中央広場の詰所。
それぞれの場所に、聞いた言葉が短く記録されている。
南の麦。
朝の荷馬車。
開けるな。
どれも、ただの情報ではなかった。
その場所にいた人の生活や記憶が、地図の上に少しずつ重なっていく。
「……クト、ハクト!!」
リクに呼ばれて、ハクトは顔を上げた。
「……はい?」
「地図を見ながら歩くのはいいけど、水路に落ちないでね。」
「落ちません。」
「今、ちょっと危なかったよ。」
「……気をつけます。」
ハクトは地図を閉じた。
リクが少し笑う。
「でも、気持ちはわかるよ。地図が育っていく感じ、見ていて面白いもんね!」
「育っていく。」
「うん。最初はただの線だったのに、店の名前とか、人の話とか、どんどん増えてるでしょ?」
「たしかに、そうですね。」
地図が育つ。
その言い方は、少ししっくりきた。
自分が歩いた分だけ、聞いた分だけ、考えた分だけ。
この地図は、ただの紙ではなくなっていく。
「商人の視点だと、こういう地図って売れそうですか?」
「売れると思うよ!」
「本当に?」
「ただし、売り方次第、かな。全員に同じ地図を売るより、目的別にした方がいいかも。初心者向けの買い物地図とか、安全な通りだけをまとめた地図とか、安い宿と食事処の地図とか。」
「なるほど。」
「あと、商人向けなら仕入れ先と運搬ルート。冒険者向けなら狩場と危険地帯。NPC向けなら……うーん、道案内そのものかな。」
リクは楽しそうに指を折っていく。
ハクトはそれを聞きながら、自分では考えていなかった地図の使い道を思い浮かべた。
道を知ることは、誰かの役に立つ。
それは、少しだけ嬉しい発見だった。
「リクは、商売のことを考えるのが好きなんですね。」
「好きだよ!お金が増えるのも好きだけど、それだけじゃなくて、何が誰に必要なのか考えるのが楽しいんだっ!」
「何が誰に必要なのか。」
「そう、安く買って高く売るだけだと、すぐ嫌われるしね。欲しい人に欲しいものを届ける方が、長く続く
はず!」
リクはそう言って、青い扉の店の前で足を止めた。
「だから、旧街道が開くなら面白いと思う。道がつながれば、必要なものが動くから。」
「……そうですね。」
ハクトは店の看板を見上げた。
『小瓶と旅具の店 セイル』
青い扉の向こうにいる元案内人は、この道をどう思っているのだろう。
開けたいのか。
閉じたままでいいと思っているのか。
それとも、どちらでもないのか。
ハクトは小さく息を吸って、扉を開けた。
小さなベルが鳴る。
店内は相変わらず静かだった。
瓶、紐、布袋、携帯用ランプ、方位針。
旅に必要な道具が、整然と棚に並んでいる。
カウンターの奥で、セイルが革紐を結んでいた。
顔を上げたセイルは、ハクトたちを見ると、手を止めた。
「……早いな、戻ったか。」
「はい。エマさん、マルタさん、ダレスさんから話を聞いてきました。」
セイルの表情がわずかに変わった。
名前を聞いただけで、何を聞いたのか察したようだった。
「話してみろ。」
ハクトはうなずいた。
まず、赤屋根のパン屋のエマの話をした。
南のファルカ村から麦を仕入れていたこと。
今は東の商会を回るため、時間もお金もかかっていること。
道は、誰かが思い出すところから始まると言っていたこと。
次に、修理屋マルタの話をした。
朝の荷馬車の音。
車輪の修理。
人が通らない道は、人の道ではなくなるという言葉。
最後に、衛兵ダレスの話をした。
戻らなかった調査隊。
傷を負って戻ったセイル。
危険な道を軽い気持ちで開けてはいけないという警告。
進む道だけでなく、戻る道も見ろという言葉。
セイルは一度も口を挟まなかった。
ただ、静かに聞いていた。
話し終えると、店の中に短い沈黙が落ちた。
水路の音が、扉の外からかすかに聞こえる。
「……ダレスは、まだそんなことを言っているのか。」
セイルが小さく言った。
「戻る道を見る、ですか?」
「ああ、あいつらしい。」
セイルはカウンターの上に置いていた古い筒へ視線を落とした。
旧リーヴェル街道の古い写し。
ハクトが借りる条件になっていたものだ。
「3つの声を聞いて、どう思った。」
「簡単には行けないと思いました。」
「それだけか?」
「開けたい人がいて、覚えている人がいて、開けない方がいいと思っている人もいました。どれか1つだけ聞いて決めるのは、きっと違うと思います。」
セイルは黙っている。
ハクトは言葉を探した。
うまく言えている自信はない。
それでも、今思っていることをそのまま出すしかなかった。
「俺は、旧街道を調べたいです。でも、無理に開けたいわけじゃありません。危ないなら戻るべきだと思います。だけど、何も知らないまま閉じておくのも、違う気がします。」
セイルの目が、ハクトを見た。
静かで、少しだけ鋭い目だった。
「案内人は、道を開ける者じゃない。」
「はい。」
「道を知り、伝え、必要なら止める者だ。」
「……止めることも、案内人の仕事なんですか?」
「ああ。進むだけなら、誰でもできる。案内人がいる意味は、進むべきかどうかを見極めることにある。」
その言葉が、ハクトの胸に残った。
進むべきかどうかを見極める。
戦う力ではない。
派手な魔法でもない。
けれど、それは確かに、誰かの命に関わる力だった。
『案内人の知識が更新されました』
『進むべきかを見極める』
表示が浮かび、すぐに消えた。
セイルは古い筒を手に取った。
「約束だ。これを貸す。」
ハクトは両手で受け取った。
筒は思ったより軽い。
けれど、その重さ以上のものが入っている気がした。
『旧リーヴェル街道の写しを入手しました』
「ありがとうございます。」
「礼を言うには早い。これは道を安全にする道具じゃない。危険を知るための道具だ。」
「はい。」
ハクトが筒の紐をほどくと、中には古びた地図が入っていた。
紙は少し黄ばんでいる。
線はところどころ薄れていたが、南門から山沿いを抜け、南のファルカ村へ続く道筋が描かれている。
途中には、小さな橋、崩れやすい崖、休憩所、古い石標。
いくつかの印があった。
ハクトの地図が反応する。
『旧リーヴェル街道の写しを確認しました』
『未踏破区域が追加されます』
『南門外縁』
『山沿いの崩落地点』
『古い休憩所』
『ファルカ方面分岐』
自分の地図の端に、薄い線が現れた。
まだ確定した道ではない。
古い写しをもとにした、淡い予測線。
本当にその通りに道が残っているかは、行ってみなければわからない。
「これ、すごいですね。」
リクが横からのぞき込んだ。
「地図が一気に広がった。」
「広がっただけだ。使えるとは限らない。」
セイルが言う。
「古い地図は、信じすぎると危ない。道は変わる。崖は崩れる。橋は落ちる。昔あった安全は、今もあるとは限らない。」
「だから確認が必要なんですね。」
「ああ。」
セイルは棚から小さな木札を取り出した。
札には、簡単な印が刻まれている。
矢印のようにも、足跡のようにも見えた。
「これも持っていけ。」
「これは?」
「道標札だ。地面や壁に刺すと、短い間だけ目印になる。迷った時の戻り道に使え。」
「戻る道……。」
ハクトはダレスの言葉を思い出した。
『旅具:道標札を入手しました』
『所持数:5』
「少なく感じるだろうが、最初はそれで十分だ。無駄に置けば、肝心な時に足りなくなる。」
「わかりました。」
「それから、門の外へ出るには戦える者がいる。案内人と商人だけで行くな。」
リクが小さく手を上げた。
「それは相談してもいいですか!冒険者を雇うなら、どこに行けばいいですか?」
「中央広場の冒険者詰所だ。正式なギルドほど大きくはないが、街の依頼を受ける冒険者が集まる。」
「雇う時の相場は?」
「初級の護衛なら半日で50リルからだな。腕のいい者ならもっと高い。」
「50リル。」
リクがハクトを見る。
ハクトもリクを見る。
「俺、残り95リルです。」
「僕は初期資金を使ってないから、100リルあるよ。」
「合わせて195リル。」
「でも、全部使うのは危ない。道具代もあるし、報酬が確定してるわけでもないからね。」
リクは腕を組んで考え込んだ。
その顔は、完全に商人のものだった。
「1人雇うなら、50リルの初級護衛。2人雇うなら100リル。安全を買うなら2人だけど、僕たちの手持ちだとちょっと重い。」
「1人では危ないですか?」
「雇う相手次第だと思う。盾役か、回復できる人がいると安心だけど。」
セイルが横から言った。
「……旧街道の入口を確認するだけなら、1人でも足りる。奥へ進むなら足りない。」
「入口確認。」
「まずは南門の外縁と、街道の状態を見ろ。崩落地点まで行く必要はない。地図と現地が合っているか。魔物の気配がどこまで近づいているか。それを確認するだけでいい。」
ハクトは地図を見る。
南門外縁。
そこまでなら、最初の確認としては現実的かもしれない。
門の外へ出ること自体は緊張する。
けれど、目的を絞れば、無理な探索にはならない。
「最初は、入口確認にします。」
「それがいい。」
セイルはうなずいた。
「冒険者を雇う時は、強さだけで選ぶな。」
「どういうことですか?」
「案内人の指示を聞ける者を選べ。前に出たがるだけの剣士は、狭い道では邪魔になる。」
「案内人の指示……。」
「そうだ。戦うのは冒険者でも、道を見るのはお前だ。」
その言葉に、ハクトは少し緊張した。
自分が指示を出す。
戦闘職に。
まだゲームを始めたばかりで、スライムにも苦戦した自分が。
不安はある。
けれど、それが案内人の役目なら、逃げてばかりもいられない。
「できるでしょうか。」
「できるかどうかではない。必要なら、やるんだ。」
セイルの声は厳しかった。
だが、突き放すような冷たさはなかった。
「案内人は戦士ではない。だが、戦士の後ろを歩くだけでもない。道を見る者が黙っていれば、全員が危険な方へ進むこともある。」
「はい。」
ハクトはうなずいた。
『案内人の知識が更新されました』
『道を見る者の指示』
リクが少しだけ笑う。
「ハクト、仕事が増えてきたね!」
「思っていたより責任が重いです。」
「でも、向いてると思うよ!」
「そうですか?」
「うん。少なくとも、危ないって言われてむきになって突っ込むタイプじゃないしねっ!」
それは褒められているのだろうか。
ハクトが少し困った顔をすると、リクは楽しそうに笑った。
「ふふ、褒めてるよ!」
「……なら、ありがとうございます。」
セイルは棚からもう1つ、小さな紙片を取り出した。
そこには、数人の名前が書かれている。
「冒険者を探すなら、このあたりに声をかけろ。」
「紹介ですか?」
「ただの候補だ。全員が空いているとは限らない。」
ハクトは紙片を受け取った。
『護衛候補一覧を入手しました』
名前は3つあった。
『ガルド:盾使い』
『ニナ:短剣使い』
『トーマ:見習い神官』
リクがすぐにのぞき込む。
「盾、短剣、見習い神官か。悩むね。」
「セイルさんのおすすめはありますか?」
「入口確認だけなら、ガルドだ。前に立って止めるのがうまい。無理に追わない。」
「無理に追わないことが大事なんですね。」
「ああ。今回は倒すことが目的じゃない。」
ハクトはうなずいた。
今回の目的。
南門の外縁を確認すること。
街道の状態を見ること。
魔物と戦って倒すことではない。
それを忘れてはいけない。
「ガルドさんを探してみます。」
「そうしろ。」
セイルはそこで少しだけ目を伏せた。
「それから、ハクト。」
「はい。」
「セイルさん、ではなく、セイルでいい。」
「え?」
「案内人同士なら、その方がいい。」
ハクトは少し驚いた。
セイルが自分を、同じ案内人として扱ってくれたような気がしたからだ。
まだ案内人として、何かを成し遂げたわけではない。
それでも、その一言は素直に嬉しかった。
「わかりました、セイル。」
「ああ。」
短い返事だった。
けれど、さっきより少しだけ距離が近くなった気がした。
「行きましょう、リク。」
「うん、冒険者詰所だね。」
2人はセイルに礼を言い、青い扉の店を出た。
外の空は、さらに赤くなっていた。
水路沿いの風が少し冷たい。
ハクトは地図を開いた。
古い写しによって追加された淡い道。
南門外縁。
ファルカ方面へ続く、まだ確かめられていない線。
その手前に、今の目的が浮かんでいる。
『途切れた街道』
『南門外縁を確認しましょう』
『推奨:護衛を雇う』
リクが横から、ハクトの地図をのぞき込んだ。
「地図にも推奨って出るんだ。」
「みたいですね。」
「なら、従った方がいいね。無視するとたぶん痛い目を見る。」
「そう思います。」
中央広場に向かう道は、もう迷わなかった。
地図を見なくても、足が自然と進む。
最初は知らなかった道が、少しだけ自分のものになっている。
それが不思議な感覚だった。
広場に着くと、噴水の周りには多くのプレイヤーが集まっていた。
戦闘職らしいプレイヤーたちが、今日の成果を話している。
スライムを何匹倒したとか、レベルが上がったとか、ドロップ品がどうとか。
その中で、ハクトとリクは少し違う目的地へ向かった。
広場の端。
衛兵の詰所とは反対側に、木造の建物がある。
入口には、剣と盾を組み合わせた看板が掲げられていた。
『冒険者詰所』
中に入ると、酒場ほどではないが、にぎやかな空気があった。
丸いテーブル、壁に貼られた依頼書、武器を持ったNPC。
それに、何人かのプレイヤー。
戦闘職らしい者が多い。
ハクトは一瞬だけ気後れした。
自分は案内人、隣のリクは商人。
場違いに見えないだろうか。
そんなことを考えた時、リクが軽く背中を押した。
「行こう!依頼を出す側も、お客さんなんだからさ!」
「お客さん。」
「そう、堂々としていいんだよ!」
リクはそう言って、受付らしいカウンターへ向かった。
ハクトも続く。
カウンターには、眼鏡をかけた女性が座っていた。
NPCだろうか。
落ち着いた表情で、2人を見る。
「冒険者詰所へようこそ。依頼ですか? それとも護衛の雇用ですか?」
リクがすぐに答える。
「護衛の雇用です。南門外縁の確認に、半日ほど付き合ってくれる人を探しています。」
「……南門外縁ですか?」
受付の女性の表情が少し引き締まった。
「門の外へ出る予定はありますか?」
「外縁確認です。奥へは進みません。」
ハクトが答える。
受付の女性はハクトを見た。
そして、腰の方位針に気づく。
「案内人の方ですね。」
「はい。」
「では、道の確認依頼として処理できます。戦闘目的ではなく、調査目的ですね。」
「そうです。」
表示が浮かぶ。
『護衛依頼を作成しますか?』
『目的:南門外縁の確認』
『雇用時間:半日』
『推奨護衛:防御型』
リクが小声で言う。
「これ、依頼内容がちゃんとしてると値段も変わるかも。」
「そうなんですか?」
「たぶんね。討伐依頼じゃなくて、調査護衛なら受ける側も目的を誤解しにくい。」
受付の女性が数枚の札を並べた。
「現在、この条件で対応可能な冒険者は2名です。」
札には名前が書かれていた。
『ガルド:盾使い 50リル』
『ニナ:短剣使い 45リル』
セイルがすすめていた名前がある。
ガルド。
盾使い。
前に立って止めるのがうまい。
無理に追わない。
「ガルドさんにお願いしたいです。」
ハクトが言うと、リクもうなずいた。
「僕も賛成。5リル差なら盾役がいい。」
受付の女性は札を手に取った。
「では、ガルドを呼びます。前金として25リル、完了時に25リルです。」
「前金制なんですね。」
「はい。途中で依頼を取りやめた場合でも、拘束時間に応じて返金されない場合があります。」
リクが財布を取り出した。
「前金は僕が出すよ。」
「いいんですか?」
「あとで精算しよう。報酬が出たらそこから引く感じで!」
「わかりました。」
リクは25リルを支払った。
『護衛依頼を作成しました』
『ガルドが同行候補になりました』
受付の女性が奥へ声をかける。
少しして、奥のテーブルから大柄な男が立ち上がった。
年齢は30代くらい。
厚い革鎧。
大きな丸盾。
腰には短めの剣。
歩き方は重いが、無駄がない。
男はカウンターまで来ると、ハクトとリクを見下ろした。
「依頼人はあんたたちか?」
低い声だった。
威圧感はある。
だが、乱暴な感じではない。
「はい。ハクトです。職業は案内人です。」
「リクです、商人です!」
「ガルドだ。南門外縁の確認だと聞いた。」
ガルドはハクトの方位針と地図を見た。
「戦いに行くわけじゃないんだな?」
「はい、目的は道の確認です。危険が大きければ戻ります。」
「……いい答えだ。」
ガルドは短くうなずいた。
「無駄に突っ込む依頼人は面倒だからな。」
「俺は、突っ込めるほど強くないので。」
「弱いと自覚してるなら、それでいい。」
少し厳しい言い方だった。
けれど、嫌な感じはしなかった。
ガルドは盾を背負い直す。
「出発は今からか?」
「できれば、明るいうちに南門の内側だけ確認して、外縁は明日の朝にしたいです。」
ハクトがそう言うと、ガルドの眉がわずかに上がった。
「ほう、理由は?」
「夕方から外に出るのは危ないと思います。まだ地図も古い写しを重ねただけなので、暗くなる前に無理をしたくありません。」
ガルドは少しだけ口元を緩めた。
「ますますいい答えだ。」
「ありがとうございます。」
「なら、今日は南門まで行き、明日の集合場所と門の様子を確認する。外へ出るのは明日の朝だ。それでいいか?」
ハクトはリクを見る。
リクもうなずいた。
「はい、それでお願いします。」
表示が浮かぶ。
『護衛予定が更新されました』
『本日:南門内側の確認』
『明朝:南門外縁の調査』
ハクトは少しだけ息を吐いた。
いきなり外へ出ない。
明るい時間に準備し、明日の朝に進む。
それだけで、不安が少し小さくなる。
準備をしている、戻る道を考えている。
今の自分にできる範囲で、ちゃんと進んでいる。
「じゃあ、南門まで案内してくれ。」
ガルドが言った。
「わかりました。」
ハクトは地図を開かずに歩き出した。
中央広場から古い鐘楼へ。
鐘楼の横道を抜けて、南門へ。
もう、その道は地図の中だけではなかった。
自分の足も、覚え始めている。
リクが横に並び、ガルドが少し後ろを歩く。
案内人に商人、盾使い。
戦うためのパーティーとしては、変わっているかもしれない。
けれど、今の目的には合っている気がした。
やがて、閉ざされた南門が見えてきた。
灰色の門。
古い鎖。
通行注意の札。
夕方の光の中で見ると、昼間よりも少し重たく見えた。
ハクトはダレスから受け取った許可札を取り出した。
『南門確認の許可札』
門の前に立つと、視界に表示が浮かぶ。
『許可札を確認しました』
『南門内側の調査が可能です』
鎖は外れない、門も開かない。
けれど、門の内側の状態を確認するように、近くの地面や壁に薄い光がともった。
ハクトはゆっくり近づいた。
門の下の土、壁の傷、錆びた金具、古い足跡の跡。
普通に見れば、ただ古い門だ。
だが、方位針がかすかに揺れた。
北を指しているはずの針が、一瞬だけ門の向こうへ引かれるように動く。
「……道の気配。」
ハクトがつぶやくと、ガルドが目を細めた。
「何かわかるのか?」
「はっきりではありません。でも、門の向こうに、まだ道が残っている感じがします。」
地図を開く。
南門の線と、古い写しの淡い線が重なる。
完全には一致しない。
少しだけ、ずれている。
『南門外縁の予測線にずれがあります』
『現地確認が必要です』
「地図と古い写しが、少しずれているみたいです。」
「道が崩れたか、門の位置を基準にした写しが古いか、だね。」
リクが言う。
「明日、確認する価値はありそうです。」
ハクトはうなずいた。
その時、門の向こうから、かすかな音が聞こえた。
石が転がるような音。
昼間にも聞いた音だ。
ガルドがすぐに盾を手に取る。
リクは一歩下がり、ハクトは息を止める。
音はすぐに消えた。
だが、門の下の隙間から、黒っぽい小さな影が一瞬だけ横切った。
「……今のは?」
「小型の魔物だな。」
ガルドが低く言った。
「門のすぐ外まで来ている。」
「危険ですか?」
「今すぐ門を破るほどじゃない。だが、明日は気をつけた方がいいな。」
ハクトの視界に表示が浮かぶ。
『南門外縁に魔物の気配を確認しました』
『明朝の調査時は護衛の同行を推奨します』
すでに護衛はいる。
それでも、表示を見ると緊張が増した。
本当に門の向こうには魔物がいる。
ゲームだとわかっていても、目の前の空気は軽くなかった。
「今日はここまでにしましょう。」
ハクトが言うと、ガルドはうなずいた。
「それがいい。」
「僕も賛成。暗くなる前に戻ろう。」
リクもすぐに同意する。
ハクトは地図に南門内側の確認結果を記録した。
淡い線の横に、小さな注意書きが追加される。
『門外すぐに小型魔物の気配』
『予測線にずれあり』
『明朝確認』
ハクトは地図を閉じた。
進む道は見えた。
けれど、今は進まない。
戻る道を選ぶ、それも案内人の仕事だ。
南門に背を向けると、夕方の街の灯りが遠くに見えた。
赤い屋根の街、水路の音、人の声。
戻る場所がある。
だから、明日進むことができるのかもしれない。
「明日の朝、ここで集合だ。」
ガルドが言った。
「はい。」
「遅れるなよ。」
「わかりました。」
リクが横で軽く手を上げる。
「僕もちゃんと来るよ。前金払ってるしね。」
「そこなんですね。」
「大事なところだよっ!」
リクが笑う。
ハクトも少し笑った。
緊張はまだ残っている。
けれど、不思議と怖さだけではなかった。
地図の端にある、まだ確かめられていない道。
そこへ向かう準備が、少しずつ整っている。
ハクトはもう一度だけ南門を振り返った。
門の向こうは見えない。
でも、明日。
その向こうを、自分の目で確かめる。
そして、危ないと思ったら戻る。
それを忘れないように、ハクトは胸の中で静かに繰り返した。
『途切れた街道』
『明朝、南門外縁を確認しましょう』
表示が消えると、南門の前には夕方の風だけが残った。
広場へ向かい、リクとガルドと別れると、急に1日の疲れが出てきた。
ゲームの中なのに疲れるというのも不思議だが、それだけ今日は気を張っていたのかもしれない。
ハクトは近くの安い宿屋に入り、部屋を借りた。
『宿屋の部屋を借りました』
『ログアウト可能エリアです』
部屋は狭かった。
ベッドと小さな机。
それから、赤い屋根の街が少しだけ見える窓。
それだけの場所だった。
けれど、今はその静けさがありがたかった。
ハクトはベッドに腰を下ろし、ログアウトの項目を選んだ。
『ログアウトしますか?』
『はい』
『いいえ』
少しだけ指が止まった。
まだここにいたい気持ちもある。
けれど、続きは明日でいい。
ハクトは『はい』を選んだ。
『ログアウトします』
視界がゆっくり暗くなっていく。
最後に見えたのは、窓の外に灯り始めたリーヴェルの明かりだった。




