戻るための準備
探り棒は、思っていたよりも手になじんだ。
新品ではない。
けれど、マルタが削ってくれた先端は丸く、草の下や湿った土を探るには十分そうだった。
ハクトはそれを片手に持ち、リクと並んで市場通りを歩いていた。
行き先は、ラナの店だ。
もう、何が足りないかはわかっている。
細縄はまだ買えない。
目印布は南門詰所で受け取る。
リク用の滑り止め爪は、貸与できるか確認する。
その前に、昨日使った手当て布を補充する。
橋の先へ進むためではない。
次も戻ってこられるように、使った分を補うための買い物だった。
ラナの店は、市場通りの端にある。
店先には乾いた薬草の束が吊るされていて、風が通るたびに、少し苦い匂いがする。
中に入ると、ラナは棚の前で小瓶を並べ直していた。
「いらっしゃい。昨日の子たちだね。」
「はい、こんにちは!」
「こんにちは。」
ラナはハクトの手元の探り棒を見て、それから膝に巻かれた手当て布へ視線を落とした。
「それ、昨日使ったんだね。」
「はい、帰り道で小型魔物に接触しました。」
「歩けているなら、大きな傷ではなさそうだけど、見せて。」
ハクトは少しだけ膝を曲げ、手当て布の上から傷の位置を示した。
ラナはしゃがみ込み、布の巻き方と、膝の動きを確認する。
強く触るわけではない。
それでも、確認する目は細かかった。
「このくらいなら、手当て布でいいね。回復薬を使わなかったのも悪くないよ。」
「そうですか。」
「うん。歩いて戻れる傷なら、手当て布で足りることもある。」
ハクトは少しだけ息を吐いた。
昨日、回復薬を残した判断が完全に間違いではなかったとわかって、胸の中が少し軽くなる。
けれど、ラナはすぐに続けた。
「でも、使わないことだけを正解にしない方がいい。」
「使わないことだけ、ですか?」
「そう。動けなくなる前に使う判断もある。残すことだけ考えていると、使う時を逃すよ。」
ハクトは、傷物の初級回復薬を思い出した。
中身は問題ない。
ただし、瓶に傷がある。
長く持ち歩くには向かない。
昨日は使わなかった。
でも、使わなくてよかった、だけで終わらせるものでもなかった。
「はい、使う時を逃さないようにします。」
ラナはうなずき、棚の下から手当て布を取り出した。
「それで、今日は補充?」
「はい。使った分を戻しておきたいです。」
「いいね。戻ってこられたから大丈夫、で終わらせない方がいい。」
その言葉は、昨日の橋と似ていた。
渡れたから大丈夫、戻れたから大丈夫。
そう考えるだけでは、次は危ない。
使ったものは戻す、足りないものは確認する。
次に進む前に、元の状態へ戻しておく。
「手当て布は2枚で5リルだったよね?」
リクが聞いた。
「そう。前と同じで、2枚5リル。」
リクは共同資金の小袋を出した。
中には6リルある。
探り棒を買った後に残った分だ。
そこから5リルを出すと、残りは1リルになる。
リクは小袋を見て、少しだけ笑った。
「ほとんど空になるね……!」
「でも、手当て布は必要です。」
「うん、そこは削らない!」
リクは5リルをラナに渡した。
『共同資金:6リル → 1リル』
表示を見て、ハクトは残りの少なさを改めて感じた。
1リル。
これでは細縄は買えない。
けれど、手当て布を後回しにしていいとは思えなかった。
ラナは手当て布を2枚、机の上に置いた。
「まとめて持たない方がいいよ。」
「まとめて、ですか?」
「片方が転んだ時、もう片方が出せるようにしておく。2人で動くなら、2人に分ける。」
「はい。」
ハクトは1枚を受け取り、リクも1枚を受け取った。
リクは自分の布袋を開け、他の道具と混ざらない場所に手当て布を入れる。
「こういう時、《荷物整理》があると助かります。」
「見ていると、ちゃんと分けてるね。」
「混ざると、使う時に困るのでっ!」
ラナは少しだけ笑った。
「薬も布も、持っているだけじゃ意味がないからね。」
「はい。」
ハクトは探り棒を握り直した。
探り棒も同じだ。
持っているだけでは、足元を見たことにはならない。
使う前に、使う場所を決めなければならない。
店を出ると、市場通りの音が少し変わっていた。
昼よりも人は減っているが、片付けを始める店の音が増えている。
木箱を動かす音、布を畳む音、遠くから聞こえる東門帰りのプレイヤーの声。
同じ街の中でも、時間が進んでいるのがわかる。
「共同資金は1リル!」
「はい。」
「細縄は12リル!」
「……今は買えませんね。」
「……うん。でも、調査協力で使うなら、詰所で貸してくれるかもしれない!」
リクは帳面を取り出しかけて、少し迷ってから閉じた。
歩きながら細かく書く必要はない。
今は、南門詰所へ向かえばいい。
「目印布と滑り止め爪のことも確認したいです。」
「僕用の滑り止め爪だね!」
「はい。昨日は、僕が橋の途中まで確認する形でした。でも次にリクも渡るなら、1組では足りません。」
「シアさんに言われるまで、僕もちゃんと考えてなかった……。」
「僕もです。」
ハクトは、昨日の橋の感触を思い出した。
湿った石、足を置く前に迷った場所、ガルドの声。
滑り止め爪があったから進めた一歩。
次は、リクも同じ場所に立つかもしれない。
それなら、ハクトだけの準備では足りなかった。
南門詰所に着くと、ダレスは門の内側で木札を確認していた。
ハクトたちに気づくと、手元の札を別の衛兵に渡してからこちらを向く。
「また来たか。」
「はい。調査協力の道具について、確認したいことがあります。」
「言ってみろ。」
ハクトは探り棒を少し持ち上げた。
「探り棒は用意できました。手当て布も補充しました。」
「そうか。」
「ただ、細縄はまだ買えていません。足場を確認する時に使います。なので詰所から貸与できるか聞きたいです。」
「あと目印布と、滑り止め爪も確認したいです!」
リクが続けると、ダレスは短くうなずいた。
「調査協力として出す分はある。」
「本当ですか?」
「全部を渡すわけではない。目印布は古布を5本。細縄は1本貸与。滑り止め爪も予備を1組貸与できる。」
「ありがとうございます。」
ハクトは思わず頭を下げた。
ダレスは表情を変えずに続ける。
「目印布は、戻れるなら回収しろ。無理なら捨てていい。」
「捨ててもいいんですか?」
「回収するために戻れなくなるな。」
「はい。」
「細縄と滑り止め爪は貸与だ。戻ったら返せ。壊したら報告しろ。黙って持ち帰るな。」
「はい。」
システム表示が浮かぶ。
『調査協力物品:目印布×5』
『貸与品:細縄×1、滑り止め爪×1』
『返却条件:調査終了後、南門詰所へ返却』
リクが帳面に同じ内容を書き写す。
支給と貸与。
使ってよいものと、返すもの。
そこを間違えると、あとで困る。
「集合は明日朝、南門詰所前だ。」
ダレスが言った。
「同行はガルドとシア。目的は、古い橋を渡った先の入口周辺確認まで。奥へは入るな。」
「はい。」
「帰還は昼鐘前。遅れそうなら、進まず戻れ。」
「はい。」
「記録は帰還後に提出しろ。見たものと、見ていないものを分けて書け。」
「わかりました。」
見たもの。
見ていないもの。
昨日、橋の先は入口らしき場所まで見えた。
奥は未確認。
その線を曖昧にしてはいけない。
ダレスは一度、ハクトの探り棒を見た。
「荷物は増える。持てる量で考えるな。」
「動ける量で考える、ですね。」
「そうだ。」
ハクトはうなずいた。
セイルにも、同じことを言われた。
リクは《運搬上手》がある。
でも、持てることと、橋の上で動けることは同じではない。
詰所を出る頃には、空の色が少し淡くなっていた。
まだ夕方ではない。
けれど、今日のうちに外へ出る時間ではない。
明日のために、戻る準備を整える時間だった。
初心者宿へ戻ると、2人は小さな机に道具を並べた。
地図。
探り棒。
手当て布3枚。
目印布5本。
貸与された細縄1本。
滑り止め爪。
貸与された滑り止め爪。
匂い玉。
傷物の初級回復薬。
道標札2枚。
並べると、多く見える。
けれど、どれも持っていけば安心というものではなかった。
「リクに荷物を寄せすぎると、橋で危ないです。」
「持てる量と、動きやすい量は違うもんね!」
「はい。」
リクは布袋の中身を分け直した。
目印布はリクが持つ。
手当て布はリクが2枚、ハクトが1枚。
匂い玉と回復薬は、すぐ取り出せる場所。
細縄は、明日ガルドかシアに確認してから使う。
探り棒はハクトが持つ。
道標札は、残り2枚、使うとしても、置く場所を決めてから。
「目印布は、全部リクが持って大丈夫ですか?」
「軽いから大丈夫。でも、すぐ出せるようにしておくね。」
「お願いします。」
「細縄は?」
「僕たちだけで使い方を決めない方がいいと思います。明日、ガルドさんかシアさんに確認してからにします。」
「うん。その方がいいね。」
ハクトは地図を開き、端に書き込む。
『次回調査:明日朝』
『集合:南門詰所前』
『同行:ガルド、シア』
『目的:橋の先の入口周辺確認』
『帰還:昼鐘前』
『支給品:目印布×5』
『貸与品:細縄×1、滑り止め爪×1』
『共同資金:1リル』
書き終えてから、ハクトは少しだけ手を止めた。
共同資金は1リル。
それでも、昨日より準備は進んでいる。
使った手当て布は戻した、足りない細縄は借りる、リクの滑り止め爪も借りる、目印布は、詰所から出る、探り棒は、自分たちで用意した。
全部を買ったわけではない。
全部を自分たちのものにしたわけでもない。
でも、次に戻るために必要なものは、少しずつ形になっていた。
使った分を戻す、足りないものを借りる、持てる量ではなく、戻れる量にする。
ハクトは地図を閉じた。
橋の先へ行く準備は、今日のうちに少し整った。
けれど、準備が整ったからといって、進める場所が広がったわけではない。
明日見るのは、橋の先。
ただし、入口周辺まで。
その先は、まだ白いままだ。




