赤屋根の街
ハクトは、中央広場の端に立ったまま、もう一度あたりを見回した。
赤い屋根の家々が、ゆるやかな坂道に沿って並んでいる。
白い石畳の道は広場から何本にも分かれ、それぞれ別の通りへ続いていた。
正面には大きな噴水、右手には人通りの多い市場通り、左手には、少し落ち着いた住宅街らしい細い道。
遠くには門のようなものも見える。
たぶん、あれがプレイヤーたちの言っていた東門だろう。
「まずは……どうするかな。」
腰の鞄から白紙の地図を取り出す。
広げてみても、まだほとんど何も描かれていない。
そこに視線を落とした瞬間、視界の端に小さな表示が浮かんだ。
『《経路記録》を使用しますか?』
「お。」
ハクトは表示された『YES』を押した。
『《経路記録》を使用しました』
『現在地:リーヴェル中央広場』
白紙の地図の中央に、淡い線が浮かび上がった。
丸い広場の形。
中央の噴水。
そこから伸びる数本の道。
まだ細部はほとんど白いままだが、ハクトが立っている場所だけが、薄く描き込まれている。
「おお……。」
派手な魔法ではない。
敵を倒す力でもない。
けれど、自分が今いる場所が地図に刻まれていくのは、不思議なくらい楽しかった。
「東門行くぞ!」
「まずはスライム狩りだろ!」
「初期クエ受けたやついる?」
「とりあえず外で戦闘確認しようぜ!」
周囲のプレイヤーたちが、次々に東門へ向かっていく。
ハクトは地図を丸めながら、その背中を見た。
自分は《案内人》だ。
職業説明には、戦闘能力は低いと書かれていた。
それでも、まったく戦えないわけではないだろう。
一度くらい、自分の強さを確認しておいた方がいい。
「……外、行ってみるか。」
ハクトはプレイヤーたちの流れに乗り、東門へ向かう。
市場通りを抜けると、石造りの門が見えてくる。
門の前には衛兵が立ち、外へ出ていくプレイヤーたちを見送っていた。
門の外には、なだらかな草原が広がっている。
遠くには森、近くには小さな丘。
草の間を、丸いゼリーのような魔物が跳ねていた。
『リーヴェル東草原』
視界の端に地名が表示される。
周りでは、剣士や魔法使いのプレイヤーたちが次々に魔物へ向かっていった。
「スライム発見!」
「こっち1体!」
「魔法いくぞ!」
「よっし、経験値入った!」
楽しそうな声があちこちから上がる。
ハクトも短い杖を握り直した。
杖といっても、魔法使いのような立派なものではない。
道を歩くための補助具に近い。
それでも、武器として使えないことはないはずだ。
草むらの近くで、小さなスライムが1体跳ねていた。
半透明の体、ぷるぷると揺れる丸い姿。
見た目だけなら、それほど怖くない。
「よし。」
ハクトはスライムに近づいた。
すると、スライムがこちらに気づいたように体を震わせる。
『草原スライム Lv1』
名前が表示される。
ハクトは杖を構えた。
「いくぞ。」
一歩踏み込み、杖を振る。
だが、思ったよりも体が動かない。
攻撃の動作が遅く、杖の先はスライムの横をかすめ、空振りした。
「え。」
次の瞬間、スライムが跳ねた。
ぽよん、と軽い音とともに、ハクトの腹にぶつかる。
「ぐっ。」
痛みは強くない。
けれど、体勢が崩れた。
視界の端にHPバーが表示される。
『HP 27/30』
「3減った……。」
ダメージ自体は小さい。
ただ、問題はそこではなかった。
ハクトはもう一度杖を振る、今度は当たった。
しかし、スライムの体が少しへこんだだけで、ほとんど手応えがない。
『草原スライムに1ダメージ』
「1?」
思わず声が出た。
スライムのHPバーは、ほんの少しだけ減っている。
周りを見ると、剣士のプレイヤーが同じスライムを2撃で倒していた。
魔法使いは火の玉で一気に焼いている。
「いや、これは……。」
ハクトが言い終える前に、スライムがまた跳ねた。
今度は足に当たる。
『HP 24/30』
ハクトは慌てて後ろへ下がった。
スライムが追ってくる。
足は遅い、逃げられないほどではない。
けれど、倒せる気もしない。
「ちょっと待った。」
もう一度杖を振る。
また1ダメージ。
さらにスライムの体当たり。
HPがじわじわ減っていく。
『HP 21/30』
「これ、普通に負けるやつだ。」
近くにいた槍使いのプレイヤーが、ちらりとこちらを見た。
「大丈夫ですか?」
「たぶん、大丈夫じゃないです。」
「手伝います?」
「お願いします。」
槍使いのプレイヤーが苦笑しながらスライムを突いた。
それだけで、スライムのHPが大きく減る。
もう1撃で、草原スライムは光になって消えた。
『草原スライムを討伐しました』
『経験値を獲得しました』
表示は出た。
けれど、経験値の量はかなり少ないようだった。
おそらく、ほとんど槍使いのプレイヤーが倒した扱いなのだろう。
「ありがとうございます。」
「いえいえ。初期職、何ですか?」
「案内人です。」
「案内人?」
槍使いのプレイヤーは首を傾げた。
「βで聞いたことないかも。生産職ですか?」
「たぶん、違います。道とか人とか記録とか、そういう感じみたいです。」
「へえ、珍しいですね。……戦闘はきついですね。」
「今、よくわかりました。」
ハクトがそう言うと、槍使いのプレイヤーは少し申し訳なさそうに笑った。
「ギルドでパーティ募集してみたらどうですか? 探索系なら、遠出の冒険とかダンジョンとかで需要あるかもしれませんよ。」
「そうしてみます。」
「では、頑張ってくださいね!」
槍使いのプレイヤーは軽く手を振り、別のスライムへ向かっていった。
ハクトはその背中を見送ってから、自分のHPを見る。
『HP 21/30』
死にかけたわけではない。
けれど、Lv1のスライム相手にこの有様だ。
これで森や洞窟に行ったら、たぶん普通にやられる。
「やっぱり無理だな。」
ハクトは短い杖を見下ろした。
戦えないわけではない。
けれど、少なくとも1人で魔物を倒して進む職業ではなさそうだった。
無理に剣士や魔法使いの真似をしても、たぶん楽しくない。
「戻ろう。」
ハクトは東門へ引き返した。
門をくぐると、草原のにぎやかな戦闘音が少し遠くなる。
街の中には、パンの匂いと人の声が戻ってきた。
なぜか、少しほっとした。
中央広場まで戻る途中、ハクトは市場通りの前で足を止めた。
東門へ向かう前には気づかなかったが、通りの端で小さな女の子がきょろきょろと周囲を見回している。
年齢は7歳か8歳くらい。
茶色の髪を2つに結び、手には小さな布袋を持っていた。
泣いてはいない。
けれど、明らかに困っている。
ハクトは少し迷ってから、ゆっくり近づいた。
急に声をかけると驚かせるかもしれない。
相手がこちらに気づけるくらいの距離で足を止める。
「こんにちは。」
「……こんにちは。」
「道、探してる?」
女の子は少しだけ目を見開いた。
「なんでわかったの?」
「なんとなく、あちこち見てたから。」
「おつかいに来たんだけど、帰る道がわからなくなっちゃって……。」
女の子は布袋をぎゅっと抱えた。
「お母さんに、赤屋根のパン屋でパンを買ってきてって言われたの。でも、帰ろうとしたら、いつもと違う道に出ちゃった。」
赤屋根のパン屋。
ハクトは東門へ行く前に、その前を通っていた。
店の場所は、地図にも記録されている。
「名前を聞いてもいい?」
「ミルカ。」
「ミルカだね。俺はハクト。」
「ハクト?」
「うん。ハクト。」
「お兄ちゃん、旅人さん?」
「そんな感じかな。職業は案内人。」
ミルカはぱちぱちと瞬きをした。
「案内人って、道を知ってる人?」
「たぶん、そうなれる予定の人。」
「予定?」
「まだこの街に来たばかりだから。」
ハクトがそう言うと、ミルカは少しだけ笑った。
その瞬間、視界の端に表示が浮かぶ。
『《聞き上手》が反応しました』
『ミルカとの会話が進みやすくなります』
表示はすぐに消えた。
ハクトは心の中でうなずいた。
無理に聞き出すのではなく、相手が話しやすいように待つ。
たぶん、それがこのスキルの使い方なのだ。
「ミルカ、家までの道で覚えているものはある?」
「えっと……パン屋さんからまっすぐ行って、右に曲がって、猫がいるところを通って……。」
「猫?」
「白い猫。いつも塀の上で寝てるの。」
「白い猫のいる塀。」
ハクトは地図を広げた。
自分が通った道が、薄い線で記録されている。
中央広場。
市場通り。
赤屋根のパン屋。
東門へ続く道。
まだ街の大部分は白いままだ。
けれど、今の話をつなげれば、探せそうな気がした。
「その猫の近くに、井戸とか看板はある?」
「んー……魚の絵の看板がある!」
「魚の絵の看板。」
市場通りで見た。
たしか、水車の看板がある店の近くに、魚の絵が描かれた小さな看板があった。
その横の路地を右に曲がれば、住宅街へ入れそうだった。
「たぶん、こっちだと思う。」
「本当?」
「絶対とは言えないけど、一緒に探せるよ。」
「うん。」
ミルカが少し安心したようにうなずいた。
その瞬間、表示が出た。
『簡易依頼を受注しました』
『迷子のミルカを家まで送り届けよう』
ハクトは思わず表示を見つめた。
スライムと戦った時とは違う。
この依頼は、自分に向いている気がした。
ハクトはミルカの歩幅に合わせて歩き出した。
市場通りへ戻り、赤屋根のパン屋を通り過ぎる。
途中、ミルカは布袋を大事そうに抱え直した。
「赤屋根パン、お母さんが好きなんだ?」
「うん。スープにつけるとおいしいんだよ。」
「そのまま食べるんじゃないんだ。」
「そのままだと、ちょっと硬いもん。」
「なるほど。」
ハクトは心の中で覚えておく。
赤屋根パンは、スープにつけるとおいしい。
攻略には関係ない情報かもしれない。
けれど、この街を知るための情報ではある。
水車の看板を過ぎると、魚の絵が描かれた小さな看板が見えた。
ミルカの表情が明るくなる。
「あ、ここ!」
「じゃあ、ここの角を曲がる?」
「うん!」
路地へ入ると、塀の上に白い猫が寝ていた。
日なたで丸くなり、尻尾だけをゆっくり動かしている。
「猫、いた。」
「いつもの猫!」
白い猫は片目だけを開け、すぐにまた閉じた。
さらに少し歩くと、青い花の鉢が玄関先に並んだ家が見えてきた。
「あった!」
ミルカが駆け出しかけて、途中で振り返った。
「ハクト、ありがとう!」
「どういたしまして。パン、落とさないようにね。」
「うん!」
家の扉が開き、中から女性が出てきた。
「ミルカ!遅いから心配したのよ!」
「ごめんなさい。道がわからなくなっちゃったの。でも、ハクトが連れてきてくれた!」
女性はハクトの方を見た。
少し驚いたような顔をしてから、すぐに柔らかく頭を下げる。
「旅人さん、ありがとうございます。この子を送ってくださって。」
「いえ、ちょうど街を歩いていたので。」
「本当に助かりました。ミルカ、ちゃんとお礼を言った?」
「言ったよ!」
ミルカが胸を張る。
その様子に、ハクトは少し笑った。
視界に表示が浮かぶ。
『簡易依頼を達成しました』
『迷子のミルカを家まで送り届けました』
『職業経験値を獲得しました』
『リーヴェル東区の一部が地図に記録されました』
「……職業経験値。」
ハクトは思わず小さくつぶやいた。
スライムと戦った時よりも、ずっとはっきりした手応えがあった。
手元の地図を見ると、細い路地と青い花の鉢の家が描き足されている。
さらに、小さな文字が浮かんだ。
『ミルカの家』
ただの道ではない。
誰かの家が、誰かの名前と一緒に地図に残る。
それは、思っていたよりもずっと嬉しいことだった。
「ハクト!」
ミルカがこちらを見上げる。
「また来てね。」
「うん、また来るよ。」
「約束だよ?」
「約束。」
ミルカは満足そうに笑った。
女性に促され、家の中へ戻っていく。
扉が閉まると、路地に少しだけ静けさが戻った。
ハクトは地図を見下ろした。
中央広場、市場通り、赤屋根のパン屋、水車の看板、白い猫のいる路地、ミルカの家。
まだ小さな範囲だけだ。
けれど、地図はもう真っ白ではなかった。
「これが、案内人の経験値の手に入れ方か。」
戦って得る経験値ではない。
誰かの話を聞く、道を覚える、場所を結びつける。
困っている人を目的地まで案内する。
それが、《案内人》の成長につながる。
ハクトはさっきのスライム戦を思い出した。
1ダメージしか与えられなかった杖。
じわじわ削られていくHP。
槍使いに助けてもらった自分。
あれはあれで、必要な確認だった。
自分が何に向いていないのかを知れたのだから。
けれど、今はもう少しだけわかっている。
《案内人》は、戦うためだけの職業ではない。
たぶん、向いていることが他の職業と違うのだ。
ハクトは地図を丸め、鞄に戻した。
遠くで鐘が鳴る。
赤屋根の街の奥へ、まだ知らない道が続いている。
「まずは、この街をちゃんと知ろう。」
そうつぶやいて、ハクトは白い石畳の道を歩き出した。




