【第1話】没落男爵令嬢は王子様の危機を救い、脳内のおっさん英雄を覚醒させる
「ちょっと!いい加減にそのお酒の空き瓶を片付けなさいな!万年床のシーツもいつから洗っていませんの!?乙女の頭の中をこんなオヤジ臭い空間にするなんて、信じられませんわ!」
『うるせえな。俺の部屋なんだからどう使おうが勝手だろ。だいたい、お前が勝手にノックして入ってきたんだろうが。それよりお前、またあの金髪のおかっぱ坊主を見てニヤニヤしてんのか?キモイぞ』
「坊主じゃありませんわ!カミーユ殿下です!ああっ、もう、どうしてわたくしの頭の中にこんなむさ苦しいおっさんが住み着いてしまいましたの?!」
ーー
事の始まりは、数日前に遡る。
わたくし、エリザベート・シュヴァリエは、武力至上主義のアルトリア王国にある王立ローラン学園に通う二年生だ。
我がシュヴァリエ家は数世代前まで侯爵家だったものの、四年に一度の爵位入れ替えトーナメントに連敗し続け、今やすっかり没落した貧乏男爵家である。
元侯爵だったお情けで、このエリート校に通わせてもらっているわたくしは、当然のように周囲から落ちこぼれ扱いを受けていた。
そんな身分不相応な場所で、わたくしは日々のささやかな喜びを見出していた。
その日もわたくしは学園の中庭で、太い柱の物陰からこっそりとストーキング……いえ、熱い視線を送っていた。
視線の先には、黄金色の美しい髪を切り揃え、澄んだ碧眼を持つカミーユ・アルトリア第二王子殿下の姿がある。
カミーユ様は三年生で、この学園でも一際輝く存在だ。わたくしなんかが気安く話しかけられる身分ではないけれど、遠くから見つめるだけならタダですわ。
ああ、今日もカミーユ様はお美しい。お茶を飲まれる所作すら芸術品のようですわ。
そんなふうに、物陰でひっそりと恋する乙女の特権を満喫していた時だった。
「メキメキッ」というひどく不吉な音が中庭に響き渡った。
音の出どころは、中庭の中央にそびえ立つ巨大な銅像。このアルトリア王国の建国の立役者とされる、英雄ローラン様の像だ。
八頭身の超絶美形な若手騎士として作られたその立派な像が、なぜか根元からひどくひび割れ、今まさに傾き始めているではないか。
老朽化なのか、それとも神のいたずらなのか。そんなことを考えている余裕はなかった。
巨大な英雄の像が倒れるその真下には、優雅にお茶を楽しんでいたカミーユ様の姿があったのだ。
「危ない!」
カミーユ様は魔法の才能こそは天才的なものの、体術はひどく苦手だと聞いている。咄嗟に避けられるような動きは見られなかった。
わたくしは没落男爵令嬢。剣術の才能など欠片もなく、魔力は国内トップレベルにあるらしいけれど、それを体外へ放出できない特異体質のため魔法は一切使えない。
つまり、まごうことなき落ちこぼれだ。わたくしが飛び出したところで、どうすることもできないと頭ではわかっていた。
わかっていたのに、身体が勝手に飛び出していた。
カミーユ様を助けなきゃ!
理屈ではなく、ただその一心だった。無謀にも崩れ落ちてくる巨大な銅像に向かって駆け出し、懸命に手を伸ばしたその瞬間。
目の前が、すべてを飲み込むような真っ白な光に包まれた。
ーー
気がつくと、わたくしは何もない真っ白な空間にぽつんと立っていた。
先程まで学園の中庭を走っていたはずなのに、周囲には空も地面もなく、ただ果てしない純白が広がっている。
一瞬パニックになりかけたわたくしの目の前には、不自然に一枚の古びたドアが建っていた。
ここはいったいどこですの?もしかしてわたくし、銅像に潰されて死んでしまいましたの?
戸惑いながらも、わたくしはそっとドアをノックした。
コンコンコン。
『……へいへーい。どうぞー』
中からくぐもった、少し低い男の人の声が聞こえた。神様か天使様がお迎えに来たのだろうか。
それにしては、気の抜けた声である。
わたくしは恐る恐るドアノブを回し、中へと足を踏み入れた。
そこには、想像を絶する光景が広がっていた!
部屋中に空の酒瓶が転がり、ベッドにはいつから敷きっぱなしなのかわからない万年床。
食べた後の食器が、流しに大量に積み重なっている。
ここは本当に神聖な死後の世界なのだろうか。それにしては、あまりにもオヤジ臭い。
そしてその万年床の上には、無精髭を生やし、だらしない格好で頭をボリボリと掻いている見知らぬ『おっさん』が座っていた。
「はあっ?」
思わずアホのような……んん、戸惑いを含んだ声が漏れた。神様か天使様がいるのかと思いきや、汚ねぇおっさんがそこにいた。
ただ、よく見ると肉体はかなり鍛え上げられている。黒髪に黒い瞳の顔立ちも、なかなかイケメンだ。これがナイスミドルというやつなのだろうか。
おっさんは面倒くさそうにわたくしを見上げ、あくびを一つした。
『おう、やっと来たか。ずいぶんと遅かったな』
「ど、どちら様ですか!?ここはどこですの!?」
おっさんは散らかった酒瓶を足でどかしながら、ニヤリと笑った。
『俺か?俺はお前の前世の記憶だ』
「ぜ、前世の記憶……?」
わけがわからない。わたくしの前世が、こんなむさ苦しいおっさんだというのだろうか。
状況がまったく呑み込めず立ち尽くすわたくしに向かって、おっさんは力強く言い放った。
『このままじゃお前は間に合わずに、あの坊主は潰されて死ぬぞ。だからこっちから強引に目を覚まさせたってわけだ』
戸惑うわたくしを真っ直ぐに見据え、おっさんはこう告げた。
『俺がお前に、力の使い方を教えてやろう』
わたくしはおっさんのその言葉を聞いた直後、再びまばゆい光に包まれた。
ーー
次に視界が開けた時、わたくしはまだ学園の中庭を走っていた。
しかし、何かが決定的に違っていた。
倒れ落ちてくる巨大な銅像も、悲鳴を上げて逃げ惑う生徒たちの姿も、宙を舞う木の葉すらも、すべてがひどくゆっくりと動いているのだ。
まるで世界の全てがスローモーションになったかのようだ。
これなら、確実に追いつける!
わたくしは足に力を込めた。今まで体外に放出できず持て余していた膨大な魔力が、血液のように体内を激しく循環し、細胞の隅々まで行き渡るのを感じる。
地面を蹴った瞬間、わたくしの身体は信じられないほどの速度で前に弾け飛んだ。
あっという間にカミーユ様の目の前に立ちはだかる。
あれ?この速さなら「チュッ」ってしてもバレないのでは?
いやいや!そんなことを考えている暇はありません!
すでに頭上には、巨大な銅像が迫っていた。普通なら絶望するしかない状況だ。
しかし、わたくしの内側から湧き上がる謎の自信と、脳内に響くおっさんのあくびが、不可能を可能にすると告げていた。
なぜだか全く分からないけれど、この銅像、殴り飛ばせる気がする。
わたくしは無意識のうちに、全身を巡る魔力を右腕に集束させた。
カミーユ様を押し潰そうとする銅像に向かって、渾身の力を込めて右アッパーを放つ。
ドゴオォォォォォォン!!
わたくしの小さな拳が触れた瞬間、何トンもあるはずの巨大な英雄の銅像が、まるで薄い飴細工のように粉々に砕け散ったのだ。
パラパラと細かい破片が降り注ぐ中、わたくしは無事にカミーユ様を守り抜いたことに安堵し、深い息を吐いた。
素手で殴ったせいで少し手がじんじんと痛むけれど、彼が無事ならそれでいい。
振り向くと、カミーユ様が目を丸くしてわたくしを見つめていた。きゃっ、初めてこんな至近距離で見ちゃった!
ちがうちがう!ああ、はしたない暴力的な姿を見られてしまった!嫌われてしまうわ!
そう思って青ざめるわたくしに、カミーユ様は頬を赤く染め、熱を帯びた瞳で言ったのだ。
「素晴らしい!今の圧倒的な一撃、まるで英雄ローラン様のようだ!」
こうして、わたくしが咄嗟に出した一撃をきっかけに、なぜかカミーユ様に惚れられてしまったのである。
ーー
そして、現在。
冒頭の脳内での、おっさんとの言い合いに戻るわけだが、わたくしとカミーユ様は、粉々になった銅像の跡地に新しく設置される像の工事を二人で見学していた。
命を救ったことがきっかけで、お付き合いを始めたわたくしたちにとって、これも立派なデートの一部である。
ああ、なんという幸せ!まさかカミーユ様の彼女になれるなんて!
そんな幸せに浸っているわたくしの脳内におっさんの声が響き渡る。
『おい、ちょっと窓を開けてくれ。何が起きてるのか、外の様子を見たい』
どうやらおっさんの部屋は、内側から窓やドアを開けることはできないようだ。乙女のプライバシーはちゃんと保護されているようですわ。
「わかりました。普段は開けっ放しにしておきますね。でもトイレやお風呂の時は閉めさせていただきますから」
『へいへい。お前みたいな小娘の裸には興味がないからご自由に。ところであれは誰の銅像を立ててるんだ?』
「何か失礼な言葉が聞こえた気がするのですが……。あれは、この学園の名前にもあります、英雄ローラン様です」
わたくしが当然のように答えると、おっさんが反応した。
『なるほど、俺の銅像か』
そのくぐもった声に、わたくしは心の中で思い切り叫んだ。
「はぁっ?!あなたローラン様なの?ただのおっさんじゃなくて?」
『失礼なやつだな、お前は。俺の銅像なんだろ?なんで俺と見分けがつかないんだ?』
脳内でそんなやり取りを繰り広げている間に、作業員たちの手によって新しい銅像を覆っていた布が「バサリ」と取り払われた。
そこに現れたのは、以前のものよりもさらに美化され、キラキラとしたオーラを放つ九頭身の超絶イケメン若手騎士の像だった。
陽の光を浴びて輝く、完璧な造形美の英雄像。
それを見た瞬間、脳内のおっさんが腹の底から大声を上げた。
『いや!誰やねんこいつ!』




