異変0『架空』
ダンボールを組み立てるバリッという音が、静かな部屋に響いた。俺は床にしゃがみ込み、小物やら服やらを仕分けていた。
もうすぐ実家での生活に戻るが、家具家電は向こうに揃っているので、この部屋から持ち込むものは多くはない。身ひとつで帰っても問題ないくらいだ。
でも日常使いしている私物や着替えくらいは、できるだけ実家に送っておきたい。整理するついでに片付けもして、狭いワンルームはだんだんとすっきりしてきていた。
「裕人、なにしてるの?」
ハルに尋ねられ、俺はガムテープを伸ばしつつ答える。
「引っ越すことになったから、部屋を整理してる」
「引っ越すの?」
「引っ越すというか、一時的な帰省というか。母さんの膝が元気になるまで。そしたらまた戻ってくる」
箱の口をテープで閉じて、ぽんと、表面を叩く。
「猫、俺のこと覚えてるかな。結構会ってないから、忘れられてたりして」
猫の顔を思い浮かべる俺を、ハルは、少し距離をとって見ていた。
「そう」
声が、どこか遠い。俺は2ヶ月先には寒くなっているであろう地元を思い浮かべ、薄手のコートを箱に詰めた。
「ハルは、猫、嫌い?」
ハルの横顔を盗み見る。ハルは部屋の隅を見つめていた。
「ううん」
「そう。なんか、猫の話すると嫌そうな顔してたから」
「嫌いじゃない。でも、裕人に『ハル』って呼ばれるのが、好きだったから」
ハルの言葉は、耳から入って頭に届いて、理解できないまま終わった。噛み合っていない。
「ハル? どういう意味?」
「ずっとここにいたなあ」
ハルは少なくまとまったダンボール箱に、目を落とした。
「ん?」
俺が聞き返すと、ハルはもう一度繰り返した。
「ずっと、ここにいたのに」
ハルの声には、薄い膜を通したような違和感があった。
部屋の床に、影がまとわりついているように見える。なにかが、変だ。
住み慣れたワンルームにハルがいる、普段どおりの日常のはずだ。でも、おかしい。なにかがおかしい。胸の奥がざらざらする。
「白石さん、猫が好きなんだって。そんな顔じゃねーだろと思ったけど、よく考えたら猫の好き嫌いに顔は関係ないもんな」
ガムテープを伸ばしながら、なるべく、日常っぽい話題を投げる。ハルはなにも言わない。
俺は箱の端からテープを貼り付けて、白石さんの仏頂面を思い浮かべた。「深い意味はないのですが、猫が好きなもので」と、強張ったまま凝り固まった顔で言うから、アンバランスさが笑えた。
あのとき白石さんは、俺に猫の名前を聞いた。
『猫さんのお名前を伺ってもよろしいですか』
『ああ、うちの猫は――』
俺はハッと、顔を上げた。
「ハル……」
そうだ、俺の実家の猫の名前は、ハル。
春に飼いはじめたから、ハル。そんな安直な名前の――。
俺はゆっくりと部屋を見渡した。この部屋は単身者向けのワンルーム。ベッドはひとつ。食器もひとり分。玄関にも、自分の靴しかない。
「……同居人なんて、いない」
当たり前の事実が、まるで初めて知ったことのように胸に落ちる。
そうだ、分かっていた。俺は自分で自分のことをひとり暮らしのフリーターだと、そう認識していたはずだ。どうして、同居人がいるだなんて思い込んでいたのだろう。
そこにいた気がしていたハルは、どこにもいない。考えてみたら俺は、ハルの声も姿も、どんなだったか、全く思い出せなかった。
ハルは、実家の猫の名前だ。それを、自分はずっと架空の同居人に向けて呼んでいた。無意識に。疑いもなく。
俺はベッドに腰を下ろし、両手で顔を覆った。
『居住空間が異変に呑まれてしまう可能性も、なくはないです』
白石さんの言葉を、頭の中で反芻する。
俺が日常だと認識していた、当たり前に暮らしていたこの部屋は――。
思い返せば、この部屋の外では、同居人・ハルの存在は頭の中から消えていた。この部屋にいるときだけ俺はハルを認知し、玄関から一歩外へ出れば、その歪みが解消された。だから多分、イマジナリーフレンドとかいうやつとも、妄想とも違う。
『構造としては開いている異変もある……ということですね』
この部屋で起こった異変は、玄関の扉から出入りできていたのだ。白石さんの言葉を借りれば、『開いている異変』だった。出入りできていたが、俺が出てもいっても、部屋は異変に歪められたまま保たれていた。
しかし、俺がハルを架空の存在であると認識した瞬間、異変が保っていた秩序が乱れた。綻び、破れて、完全に消滅した。部屋からはもう、猫と同じ名前の架空の同居人の残滓すらもなくなっている。
部屋がやけに空っぽに見える。
いや、引っ越しのために自分で片付けたからだ。同居人が消えたからではない。だって、はじめからいなかったのだから。
俺はスカスカになった部屋で、変に冷静になっていた。
「人の形をした異変、というよりは、対象の認知を歪める異変……といったところか」
喪失感を埋め合わせるみたいに、癖になった分析をおこなう。
「猫の名前で呼んでいたのは……俺にとって、部屋の中にいて当たり前で、呼びやすい名前だったから、とか」
ダンボールの山、散らかった床、薄い夕暮れの光。そのどれもが、数秒前まで誰かと共有していたはずの空気を失っていた。
胸の奥にぽっかり穴が空いたような感覚を覚える。喪失感、だが、それは本来あり得ない感情だ。同居人なんて、最初からいない。俺はもともとひとりで、誰かと暮らした記憶なんてない。
同居人は架空の存在。消えたとしても、それは喪失ではなく、正常化。そう頭では理解している。
しかし、脳裏に焼き付いて離れない。
裕人に『ハル』って呼ばれるのが、好きだったから。
あの声は、たしかに耳元で聞こえた。柔らかくて、少し照れたようで、まるで、意思を持った誰かの言葉のようだった。
存在しないはずの同居人が、自分の名前を呼ばれることを「好き」だと言った。それは、俺のただの認知の歪みのはずなのに。
「なんで、そんなこと言ったんだろう」
架空の存在が消えたのに、その言葉だけが、まるで本物の記憶みたいに残っている。
「異変はもっとこう……自我のなさそうな、無機質なものであれよ」
俺はわりと、異変によく遭う方らしい。何度も遭って、何度も戻ってきた。でも、理解した気にはとてもなれない。俺は、なにも分かっていない。
俺は部屋の窓を開けた。吹き込んでくる風が、薄く冷たい。
東京23区。
狭い面積の中に、人と情報が詰まりすぎている、コンクリートジャングル。関心と無関心が交差し、誰もが誰かを見ているようで、誰もが誰にも興味がない。そんな都市は、とっくにどこかがバグっている。
異変は、今日もどこかで起こり続けている。誰かが閉じ込められ、誰かが認知を歪められ、誰かが静かに消えていく。この街のどこかを、音もなく侵食している。
「俺はまだ、この街で生きていけるのかね」
その呟きは、ひとりのワンルームに吸い込まれていった。




