第七話
「そんな、イエス様が俺のために死んでくれたのか……。なんでだよ、なんで神様が……」
福音を聞いた翠は号泣し、顔を真っ赤にしてボロボロと涙をこぼしていた。大雨のような涙だ。
福音はイエス・キリストが罪のある私たちの為に死なれ、蘇ってくれた良い知らせ。
罪というと犯罪のようだが、それとは少し違う。自分の中にあるエゴや自己中心性。仏教やスピリチュアル的にはエゴやカルマと表現されるものにも近い。そしてこの罪は「神様を無視して生きる」という一点から始まる。
そんな罪の説明は琴羽も父もしなかった。ただイエス・キリストが成し遂げた事を父が語っただけだが、翠は号泣し始めてしまった。
普通は、福音を聞いたからと言って、そこまではならない。反発するもの、論破してくるものの方が圧倒的に多い。もしかしたら翠は、自分の罪について自覚はあったのだろう。
ボロ泣きし、顔を真っ赤にする翠は、もう御曹司やイケメンという肩書きがスルスルと外れ、子供のよう。
琴羽もそうだ。子供のころ、琴羽はどうしても友達を嫌いになったり、優しくできない事に罪悪感を持っていた。そんな時に父から福音を聴き、琴羽も大号泣。今の翠を見ていると、琴羽は子供に帰ったような気分……。
「大丈夫。翠くんはイエス・キリストに赦され、救われました。ハレルヤ!」
「おぉー、牧師さん! ハレルヤ!」
父と翠は抱き合い、「ハレルヤ!」を連呼し、救われた喜びに浸っていた。
クリスチャンの琴羽でも少し引く光景。翠がここまで簡単というか、素直に福音を聞き入れてくれたのは意外で、むしろ顔が引き攣る。
日本はクリスチャンが少ない。それ故にカルトと言われたり、先祖のことを持ち出して論破されたり、非科学的だと笑われた事も多かった。てっきり翠もそんな態度を見せるだろうと覚悟していたが、あっさり福音を受け入れ、拍子抜けするぐらいだ。
翠は海外経験も長い。おそらく身近にクリスチャンや教会もあったのだろうが……。
「ちょっと、二人とも。もう救いの喜びは終わった?」
こんな二人に水をさすのは心苦しいが、このままでハッピーエンドではない。これで翠に憑いている悪霊が追い出されるはずはない。
琴羽はこの空気を壊すのは心苦しかったが、姦淫の罪の重さ、その影響、神様が結婚をどれだけ大事にしているか語る。
「つまり婚前交渉すると、『霊』と『霊』が一体となり、相手の身体、精神的呪いも全部受け継ぐの。相手とソウルタイっていう繋がりができちゃうの。それを通して悪き事が起きやすい。だから、一度やった相手とは、縁が切れにくかったり、未練をずっと持ってしまい、心が傷つくんだ」
そう説明すると、翠の赤かった顔は真っ青になった。
「別に責めてるわけじゃないのよ。神様がいう罪をやってしまうと、一番傷つくのは翠、あなた自身だからね」
「そうだよ、翠くん。忘れられない女性の一人、二人はいるのでは?」
親子でこんな話をされ、翠の表情は完全に引き攣った。
「それにあなたが傷つくと、神様も傷つくんだ。今も現在進行形であなたを愛してるから。死ぬほどにね」
こんな非科学的、オカルトとも言える話題だった。一歩間違えば翠を断罪する事にもなりかねない。それでも心の中で祈りつつ、神様の愛だけは伝わるように琴羽は語った。
「そうだぞ、翠くん。それに相手の女性もイエス様の花嫁で、大事な存在だ。それを寝とる行為になってしまうんだな、姦淫は」
翠はもう何も言えない。父の言葉にもフリーズしていたが、もう一度ソファの上に座ると、咳払いした。
泣いたり、無口になったり、素直というか、感情が表にでやすいタイプなのだろう。ここには完全にイケメン御曹司の姿は消えていた。もしかしたら、この時、子供に戻っている可能性もある。
「ああ、神様。ごめんなさい」
ただ、誰が教えたわけでも無いのに、翠は食い改めを始めていた。
今まで付き合った女性の名前を出し、悔い改めもしていた。
延々と四十人以上の女性と付き合っていたと語っていた。琴羽も父も引くが、翠が悔い改めるたびに、悪霊を出す祈りもし、断ち切っていった。
『ふざけんなよ! こいつの身体の中にいたい!』
中にはしつこい悪霊もいた。姿も表し、ぎゃーぎゃーと騒ぐものもいたが、そにたびの琴羽は断ち切り、追い出していく。
気づくと琴羽も父も汗だく。翠も時々吐いたり、欠伸を連発したり、自宅のリビングはちょっとした惨状になったが、次第に翠の目は正気を取り戻す。
髪もぐちゃぐちゃ、顔も疲れて酷い翠だったが、目はまさに憑き物がとれたようだ。本当に子供に戻ったようなピュアな目元になり、父が息を呑むほど。
そして最後。翠が遊びで付き合った女性の名前を出し、琴羽が悪霊を追い出し、父が感謝のお祈りをし、エクソシストが完了した。
三人ともフルマラソンを終えた後のようにへとへとだ。汗だくで、髪もぐちゃぐちゃになっていたが、表情はみな爽やかだ。
翠が吐いたものを片付けていても、琴羽は全く気にならないぐらいだ。匂いもあったが、全然気にならない。
「はあ。なんかスッキリしたよ。体調もスッキリいい!」
翠は楽しそうでもあった。琴羽もエクソシストが成功し、晴れ晴れとした気分だ。
「でも翠くん」
ただ父だけが渋い顔を見せていた。
「悪霊は追い出した後、仲間を連れて戻ってくる事がある」
父の忠告はもっともだ。琴羽も経験上、戻ってきた悪霊追い出しの方が面倒だと知っていた。さっきまでの爽やかな気分に水をさされてしまう。これで全部一件落着とはいかない?
「そうね。もう女遊びはしたらダメよ」
「琴羽のいう通り。そうだ、うちの教会きて聖書の勉強会も出ましょう」
翠はこの提案に素直に頷いていた。
「そうだな。神様に事、よく知りたいし!」
たぶん、これだけ笑っていられるのなら、心配ないだろう。体調も良さそうだ。琴羽は後のことは父に任せる事に決め、今回のエクソシストは終了となった。
三人ともお腹が減っていたので、宅配のラーメンを注文し、フーフー言いながら麺をすする。
テレビを見ながら三人で食卓を囲み、御曹司の翠もすっかりこの家に馴染んでしまっている。
テレビでは琴羽の推し芸人・ガチ童貞のフェアリン君も出ていた。
「あー! フェアリンくん!」
琴羽の黄色い声が響いてしまう。体重が120キロ以上あり、ルックスはどう見てもイケメンではないが、家族の話なども語られ、琴羽も父も感動しながらテレビ画面に齧り付いてしまう。
「はあ、フェアリン君は素晴らしい芸人だわ」
琴羽はうっとりしながら、呟く。
「フェアリンって、ど、童貞芸人だぜ?」
この琴羽に翠は困惑。持っていた割り箸をカランと落とす。
「だが、そこがいい!」
「おお、琴羽の言う通り!」
親子揃ってフェアリンくんのファン。翠は最初は引いていたが、突然クスクス笑い初めていた。
「琴羽さん」
「え? 何?」
「君っておもしれー女だね!」
その翠の目は、子供っぽくはなかった。この瞬間だけはなぜか、イケメン御曹司に戻ってしまっていた。
「おもしれー女?」
琴羽の困惑した声が、テレビの音にかき消された。