第六話
琴羽は父が帰って来てよかったと思う。倒れた翠を父が、家のリビングまで運び、上着も脱がせて、ネクタイもとって休ませていた。
医学的に問題があるかも不安だった。父は知り合いのクリスチャンの医師も呼び、翠の身体を見させたが、そこは異常なし。精神的なもので、しばらく休ませれば解決するだろうと言われた。
医者が帰ると、琴羽と父は、眠っている翠を眺め、胸を撫で下ろす。今はソファの上でスヤスヤと眠り、寝息も穏やかだ。礼拝堂で倒れた時は、顔は真っ青だったが、今は頬も血の色が戻ってきた。整った顔の翠だが、今は髪も乱れ、隙だらけという雰囲気。
とりあえず琴羽達は、翠をソファの眠らせたまま、お茶を飲みながら食卓についた。
もう窓の外は真っ暗。時計を見るととっくに夕飯の時間だが、今は二人ともお腹が空いていない。いつもだったら、テレビを見ながら、夕飯を楽しんでいる時間だ。今はそれが遠い過去のよう。
「それにしてもお父さん。よく、あの御曹司に世話してくれたね。普通、怪しんだりしない?」
父は翠の世話をする時、なんの躊躇いもなく、手を伸ばしていた。
「何言ってるんだ。聖書に良きサマリア人の例え話があるだろう」
「あぁ、そっか……」
聖書には「良きサマリア人の例え話」があった。詳しい事は省くが、どんな人でも分け隔てなく、助ける事を教訓とした話だ。身分、年収、年齢、外見、国籍、性別などで人を差別してはいけないという事を聖書で学んだ記憶を思いだす。
父の相変わらず人の良さそうな顔を眺めながら、琴羽も頷く。琴羽が翠を助けようと思ったのも別に立場や顔が問題でもなかった。むしろ、翠のイケメンなところは苦手だったりする。逆に翠を助けた事を後悔し、逃げ回っていた事が恥ずかしく、琴羽はリビングのソファで寝ている翠をあまり直接できない。
「ところで琴羽。あの青年は誰なんだ? えらいイケメンだが」
「うちの会社の御曹司よ。副社長の神尾翠さん」
「御曹司か!? 本当か!?」
普段、牧師である父は翠のような御曹司に会う機会はあまり無いのだろう。目を丸くし、驚いている。
「てっきり芸能人かモデルかと思った」
「違う、違う。御曹司だって。原因不明の体調不良があるから、相談されたんだよ」
「なるほど」
父は顎をさすりつつ、翠のいる方を見ていた。父は牧師だ。エクソシストは全くやっていないが、何かピンときたらしい。聖霊がヒントを与えたのかもしれない。
聖霊は、三位一体のひとつ。父・子・聖霊で三位一体というキリスト教神学は有名で、聞いた事がある者も多いだろう。父は創造主なる全知全能の神。子はイエス・キリスト。聖霊が見えない神の霊で、クリスチャンに知恵や助けを与えてくれる存在と言われている。ものすごく簡単に表現すると、アドバイザー的な存在だ。もっと砕けた言い方で、誤解を恐れずに言うなら守護霊に近い存在とも表現できる。
「あの翠くん、おそらく姦淫の罪で体調悪いんじゃ?」
予測通り、父は聖霊から何かヒントを受け取ったらしい。その予想は、琴羽も深く頷いた。
「おそらくそうね。あのルックスよ。おそらく何人もの女と姦淫しているわ」
「そっかー」
父は頭を抱える。その気持ちは琴羽もわかる。別に姦淫、性的な罪を責めたいわけではない。その罪の恐ろしさは聖書から知っているから。父は牧師としての経験上、姦淫の罪の結果もよく知っているのだろう。「不倫している男女で幸福そうな人は見たことない」。こんな言葉もよく言っていた。
「どうする? お父さん。翠はカトリックの幼児洗礼は受けたらしい。イエス様も主って口で言ってた」
「うーん。信仰告白していたら助けるしか無いだろ」
琴羽がエクソシストしている事に否定的だった父も、同意した。
「まあ、お父さんはまずは福音を伝えて。その後に私がエクソシストするって流れでいい?」
「オッケー。じゃあ、いきますか」
ちょうどその時、翠が目覚めた。ふわぁと呑気な欠伸をしていたあと、周りをキョロキョロと見ていた。迷子の子供のようだ。
一応、イエス・キリストが主だと口で告白した翠だが、福音は聞いてくれるだろうか。
それは本職の父に委ねよう。そう思うと、琴羽の肩の荷は降りていた。




