四話
繰り返すが、私には美春の気持ちが分からなかった。一番大切なものを自ら手放す気持ちが。彼は、美春にどう好意を伝えていいか分からず、美春には彼の気持ちは微塵も伝わっていない。寧ろ、彼と私を二人きりにさせようとしていたことから、彼が私を好きと勘違いしていたのかもしれない。
だから、美春は捨てられる前に彼を捨てたのかもしれないと予想したが、それでも私には分からない。本当に欲しいものなら自分から諦めることなんてしなきゃいい。結局、自らいなくなるのは逃げに過ぎない。
私は、逃げずに手に入れた。両片思いの二人から彼を取ってみせた。
何も美春が憎いわけかではないのだ。肉親の情もある。美春が、彼以外の何かを乞うなら私は全力でその手伝いをするだろう。
ただ、彼を手に入れたいだけ。
「どういうことだ」
彼が、私を凍った表情で見る。彼は、私の勝手な行動に怒っていた。
「私たちは、婚約者です。それなら、もう結婚するのも同義でしょう?」
私たちだって、もう結婚適齢期だ。そろそろ結婚するのが普通なのに。彼は、一向に結婚を言い出さないから私がそうなるように噂を広めた。もうすぐ、私たちは結婚すると。
結婚すれば、法で彼と結びつければ、私のこの飢餓感は治るのだろうか。
その疑問は、案外早く解けることとなる。ヒントは、ひとつのハンカチだった。
彼を訪ねて行ったある日、私は執務室の机の上に置かれたハンカチを見つけた。なんの変哲も無い白いハンカチ。ただ、それは綺麗好きな彼らしくなくアイロンがけをしていないようで角が曲がっている。なんとなく、このハンカチは彼の宝物なのではないかと感じた。この執務室の中、なんの変哲も無いハンカチにスポットライトが当たっているような変な感覚。気になって、それを見れば白い生地にクリーム色のポインセチアの花が刺繍されている。白のポインセチアの花言葉。
……なんだっただろうか。
あいにく、花言葉より政治経済の方が詳しい自信がある。必要最低限の淑女教育は受けて、そのあとは男性にも負けない学力をつけようと私は、男性たちの社交場である政治クラブに度々足を踏み入れた。その時手に入れた知識が、両親の断罪に役立ったのだから、有用な時間だったのだろう。
それにしてもこのハンカチは、彼の母からの贈り物だろうか。彼の母は彼が幼い頃に亡くなっていて、遺品もあまり残っていなかった。彼は、暗い色のハンカチを好んでよく使うため、この色のセンスは女性からの贈り物なのだろうと踏んだのだ。
「悪い。待たせた」
彼が執務室に入った時、私を見て少し同様した。いや、正確に言うと、ハンカチを持つ私を見て私を凝視したのだ。それは、些細な反応で鈍感な人なら気付かないかもしれないようなもの。でも、私には大切なものを宿敵に奪われ人質にされたような反応に見えた。それは、私にとって少し傷つくような反応で。私は、彼の母に覚えが良く、気に入られていた筈だ。
「……いえ、待ってませんよ。これ、素敵ね」
私は、彼から伝染した動揺を隠すように、ハンカチを上にあげ微笑む。
「ああ」
そうやって、二人の間に不協和音が響かないようにうまく同様を押し隠したのに、彼は未だに気まずそうな顔をしたままで。私は、なぜ彼がそんな顔をするのかが分からず、確かめるように聞いた。
「これ、お母様から頂いたの?」
彼は、女性から安易に物を受け取るような性格ではないし、まして大事そうに扱う人ではない。その質問の答えが当然イエスだと思って投げかけた質問だが、彼はその質問にまた一層眉を下げ、困ったような顔をした。
「いや、……」
濁り気味に否定する言葉に、じゃあ誰から貰ったの?なんて聞いたら地雷だ。そんなこと分かっているのに、パンドラの箱を開くような気持ちで口が滑ってしまう。誰から貰ったの、と。
「……美春から、だ」
やっとハンカチから目を背けた彼は、言いにくそうに表情を歪める。
裏切り行為だ、と決めつけていいのかさえ悩む。私の婚約者なのに、元の婚約者から贈られたものを大切にしている。悔しいことに変わりはなく、薄々分かってたにしても裏切られたような気持ちもある。心の中にインクをぶちまけられたような気分だ。
でも、分かっていた事実であった。彼が美春を好きなことは知っていたことだ。
いつか私に振り向かせるという自信が徐々に萎んでいたし、最初に欲しかった婚約者の座だけじゃなくて、彼の心まで欲しいと訴える欲張りな心は無視もした。それなのに。
私は、こんなに苦しんでいるのに、こんなに彼を求めているのに彼が求めているのは美春なのだとまざまざと見せつけられたようで。
責めたいのに、責められない。
器量の小さい女とも思われたくないし、彼の心を強制なんて出来ないと知っていたから。
「そう、ですか……」
「……」
彼は、なにかを言おうとしてやめた。もし、すまない、なんて言われたらどうしていいか分からなかったからそれにホッとする。
今すぐこの手の中のハンカチを奪ってしまいたい気持ちを鎮めて、机の上に置く。なにか言いに来たはずなのに頭が真っ白でなにを言えばいいか分からなくなった。
「……今日はお忙しいようなので、また今度来ますね」
「ああ」
「見送りは結構ですから。それでは、また今度」
一刻も早く彼から離れたかった。恐らく、世界一私を傷つけることの出来る人。そんな人の近くにいたら、私が危ない。
男爵家の屋敷に帰って、養父から与えられた部屋に困る。養母は、暗い顔の私を心配して、部屋にお茶を持ってきてくれたが、その善意でさえその時の私には煩わしくて、早く一人で考えたかった。
彼はすでに私のものだ。
美春のものではない。
私の婚約者で、私の夫となる人。
私は、欲しいものを手に入れられたはずだ。
なんでこんなに苦しい。
彼の心を手に入れられないことがこんなに苦しい。私は、幸せを手に入れたはずだ。私は不幸じゃない。美春に勝ったはずなのに。
彼の心は永遠に手に入れられないという確信が、逃げ惑う私を追いかけて離さない。今日、その事実に手をかけられたようで私は、怒りではなく恐怖に感じた。勝ったはずなのに、負けてしまう。
手に入れたはずなのに、手に入らない。
どうすれば、私は幸せになれるのだろう。ひたすらにそればかり考えて、気が滅入りそうだったため気分転換に本でも読もうと噂好きの友人から借りた浪漫小説を開いた。途中まで読んでいたそれには、かすみ草の栞が挟まっている。
そして、ポインセチアの刺繍を思い出した。
あの花言葉は、なんなだろう。
彼が大事に持っているハンカチの花言葉がいい加減なものだったら気が晴れるかもしれない。そんな軽い気持ちで、養母に花図鑑を借りた。
「ポインセチア、ポインセチア……」
あ、から始まるその図鑑は、白黒で花の色は分からないけど綺麗な花の絵が描かれていた。確かに、これならこの図鑑を持っている価値はあるかもしれないと思いながら、ペラペラ紙をめくり、見つけたポインセチアの絵はやはり綺麗だ。
私の中で、ポインセチアと言えば赤色で、その白黒の絵に赤を添えればとても綺麗だと感じたが、想像の中でもそのポインセチアを大切そうに持つ彼が出てきたから、なんとも言えない、自分で自分の首を絞めるような憂鬱な気分になった。
そんな気分のまま、パッと目を通しただけでポジティブな言葉が並ぶ花言葉の欄を見る。
赤色ポインセチアは、私の心は燃えている。
ピンク色のポインセチアは、思いやり、清純。
白は。
「あなたの祝福を祈る……」
エタってませんよ!
ちょっとゲームにハマりすぎていただけです!




