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聖母の涙  作者: 唐子
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須磨子

図書館の書庫は薄暗く、静謐として、余計なものが遠ざかって良いと、須磨子は思う。


卒業式をあと片手で数えるだけになった如月の末、風などはまだ冷たいが日差しはすでに春だ。

窓ガラスと日に焼けて黄ばんだカアテンを通して、暖かな陽気が眠気を誘う。

傍らに座る比瑳子はすでに須磨子の肩に頭を預けて、夢の世界へ旅立ってしまっている。

心地よい重さにくすりと微笑い、手元の詩集をそっと閉じた。


ずいぶんあどけない寝顔をまじまじ眺める。


淡い色の癖っ毛、柔和な線の眉、白い瞼、長く上向いたまつ毛、桃のような頬に茱の実のようなくちびる。

眠っていれば人形のようなのに…と、失礼極まりないことを思う。

起きているときの彼女はどこかひょうきんで、愉快な出来事を本人の意思にかかわらず起こしてしまうので、どうにも愛嬌の印象が強い。それは彼女の魅力で、そんな部分にも、須磨子は目が離せないを自覚している。


よく見れば、うっすら、目の下に隈ができている。

おおよそ似つかわしくないそれに、須磨子の眉間にしわが寄る。


比瑳子がうなうなと何事かつぶやき、頭の位置をずらすと、彼女の癖っ毛が須磨子の頬をくすぐった。

須磨子は自分のたいして特徴のない黒髪を一房とると、比瑳子の髪の毛と一緒に編み始める。

柔らかい髪の毛は須磨子の憧れで、風をはらんでふわりとなびくさまは絵画のように決まっていて、これも須磨子は大好きだった。

肩でくつりと笑う声がして見下ろせば、比瑳子は起きて、愉快そうにくすくす笑う。


「なんだ、起きていたの?」

「引っ張られては、起きてしまうわ、須磨子」

「だってあなた、早々寝てしまうのだもの。わたくしは退屈は嫌い」


何が面白いのか、なおくすくす微笑う。手遊びを知られたというのは、少しだけ気恥ずかしい。

黒と茶でできた三つ編みの編み目から手を離せば、ゆるく編まれた三つ編みは、残念なことにするするりとほどけてしまった。


「予備のリボンでも、持ってくればよかったわねえ」


わざとおどけて言えば、比瑳子はあずけられていた頭をおこしてふんわり笑った。


「御免なさいね。須磨子を枕にしてしまうだなんて、みんなに知られたら、つるし上げられてしまうわ」

「そうなったら、わたくしは公言する。わたくしの肩を無断で借りていいのは、比瑳子だけだって」


真摯な気持ちで言えば、比瑳子はほんの少し頬を染めて、「この女たらし」とつぶやいた。失敬な。

誰彼かまわず優しいのはこの友人の方で、年の離れた下級生なんかは、彼女を母のように慕っているのを本人だけが気付いていない。


水と油ほど違う気性だというのに、比瑳子との付き合いはついに卒業まで途絶えなかった。


何の不思議もない。比瑳子の性質は、須磨子が欲しくて欲しくて焦れたものであったのだから。

昔は、比瑳子を苦手に思っていた。

彼女の持つ親切心だとか面倒見の良さ、優しさ…損の多い美徳それらを蔑んでいた。

今須磨子はそのことを恥ずかしく思う。

苦手でも視線は無意識に比瑳子を追って、彼女の隣にいれば、そこは酷く居心地がよかった。そうして気付いた。


比瑳子は、早世した母を思わせる。

気づいて、比瑳子にはかなわないのだと悟った。

比瑳子が須磨子の庇護下にいるのだと勘違いする人が多かったけれど、事実は逆だ。

比瑳子の持つ母性は、人を安らげる。だから傍に居ると酷く安心する。

守られていたのは、比瑳子でなく須磨子のほうなのだという真実を知る人は、ほとんどいない。


須磨子は比瑳子の目尻にそっと指を這わせた。


「隈。あんまり、寝ていないの…?」

「寝ているわ。ゆうべは、観劇に行っていたので、遅くなってしまっただけ」


小さく笑って、比瑳子は須磨子の手を温めるように握った。

誰と、なんて聞くにも及ばない。


二人とも、卒業後の進路は婚姻である。この学校において許嫁なんて話はざらで、在学中に縁談を理由に退学する者もこの学校では別段珍しい話ではない。

だが、比瑳子の縁談は、彼女に相応しくない方向からやってきた。


比瑳子の家は商家であった。

去年までは羽振りの良い様だったが、父親が騰貴に失敗してから、坂道を転がるように不運が重なり、すわ一家心中かというところを、さる人物に救われた。


交換条件で、比瑳子はその人物に嫁ぐ。

一回り以上年の離れた、極道まがいのことをやってのける、酷く醜い男の後妻に。


比瑳子は、友で唯一、須磨子にだけ打ち明けた。


打ち明けて、微笑んだ。あの時の笑顔を須磨子は忘れない。

泣くよりも怒るよりも、悲しみの微笑みをたたえた彼女の傷の深さに、須磨子はうたれた。

比瑳子は言わないが、好いた人がいたの様子であった。それを知っていただけに、友が見舞われた慈悲もない現実に須磨子の方が打ちのめされた。


「そう……何を観たの?」

「さあ?実は、途中で寝てしまったの。演目も忘れてしまったわ」

「まあ」


思わずあきれた声を出せば、彼女は笑ってさらに続ける。


「ご存じでしょ?観劇って、苦手なの。でも、先様はそんなこと、ご存じないものだから」

「我慢できなかったのね?」

「若い娘が、なにを好むのかわからないのですって。前に、花は好きですかと聞かれて、はいと言ったらそれ以来毎日のように花が届くのよ?今にうちは花屋に鞍替えしてしまうわ」


苦笑する比瑳子は、芍薬のようにたおやかで、かわいらしい。

現実を受け止めるしたたかさを比瑳子は持っていて、それは周囲の不安をとり除く強みなのだが、どこか不安定にも見えて。須磨子は不安だった。いつか、プツンと切れてしまいそうな部分を、比瑳子は静かに張りつめさせてるような気がして。


ただ、人買いのような方法で比瑳子を手に入れる男は彼女には優しいらしく、それだけが救いであった。


「須磨子は、牡丹ね」

「唐突ね」

「薔薇でもいいわ。あなたにピッタリ。でも色で言うならあなたは菖蒲よね」


須磨子の指を撫でながら、どこか遠い目でいうものだから。

咄嗟に口をついて出た。「比瑳子は、」


「百合の花ね」


「……そんな、御大層なものじゃないわ」

「いいでしょう、わたくしは、そう思うの」


須磨子の腕にすがりついてきた比瑳子は、それでもうっすら笑っている。

なぜだか彼女が酷く遠くへ行ってしまったような、儚い印象を受けて、須磨子は思わず肩を抱く。

そっと寄り添うぬくもりは温かいのに、心は悲しいほど遠かった。


「比瑳子」

「なあに、須磨子?」

「わたくし、さくらの季節には嫁ぐわ」

「ええ」

「あなた、式に来るのよ」

「いやだ、公爵家の婚姻よ?行けるわけ…」

「友人は、あなたしか呼ばないわ」

「須磨子」

「あなたのお輿入れの日には、花束を贈るわ。鈴蘭の花束を、贈るわ……」



無言になった比瑳子が、次第に肩を震わせたので、須磨子は黙って胸をかした。


(かみさま、かみさま。もしそこにおわしますなら)


この耶蘇の神の導く学校に、幼年期から少女期を過ごした。


(あなたのいたいけな子に、祝福を)


欠片も信じてなんかいない神に、祈る。



鈴蘭の花言葉は、聖母の涙 というのだ。



比瑳子ひさこ(18)商家の一人娘。母性の人。借金の形に嫁入り。

須磨子すまこ(18)家族のお姫様。筒井筒の彼を尻に敷く。



ちなみに比瑳子のイメージである鈴蘭も芍薬も百合も、耶蘇の神にちなんだ故事がある、らしいです。


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