公爵令嬢と第二王子
王立総合学園には、貴族の子弟が多い。
それ自体は、ヴィオレッタ・ローゼンベルクにとって珍しいことではなかった。
公爵家の令嬢として生まれた以上、幼い頃から社交の場には幾度となく出席している。
伯爵家の跡取り。
侯爵家の令嬢。
王宮に仕える高官の子息。
そうした人々と会話を交わすことは、日常の一部だった。
けれど、王立総合学園は少し違う。
ここには貴族だけでなく、商家の子供も、地方の職人の子供も、優秀な成績を認められた平民も通っている。
身分も、育った環境も、将来の目標も異なる。
同じ教室で学び、同じ課題に取り組む。
それが、この学園の大きな特徴だった。
「……興味深い場所ですわね」
ヴィオレッタは、手元の資料をめくりながら呟いた。
午前の授業は、王国行政史。
教室の前方では、教師が各地方の統治制度について説明している。
「王国の領地は、それぞれの領主が管理している。しかし、領主が自由にすべてを決定できるわけではない」
教師は黒板に、王国の行政区分を描いた。
「税制、街道の整備、治安維持。これらは領主の権限と王国法の双方に関わる」
ヴィオレッタは筆記具を走らせた。
知っている内容も多い。
だが、実際の事例を交えて説明されると、新しい発見がある。
特に興味深かったのは、街道整備に関する話だった。
「では、問題だ」
教師が教室を見渡す。
「ある領地で、新しい街道を整備する計画が持ち上がったとする。完成すれば商人の往来が増え、領地全体の利益につながるだろう」
黒板に、簡単な地図が描かれる。
山間部を通る古い道。
それを迂回する、新しい街道。
「しかし、建設には多額の費用がかかる。領主は税を増やして費用を賄おうと考えている。諸君なら、どう判断する?」
何人かの学生が手を挙げた。
「将来の利益が見込めるなら、増税も必要だと思います」
「商人から通行料を取ればよいのでは?」
「王国に補助金を申請するべきです」
さまざまな意見が出る。
ヴィオレッタは静かに聞いていた。
どの意見にも、一理ある。
だが、何かが足りない。
「ローゼンベルク嬢」
教師が声をかけた。
「君はどう考える?」
ヴィオレッタは立ち上がった。
「まず、その街道が本当に必要なのかを確認すべきだと思います」
教室の視線が集まる。
「新しい街道ができれば商業が発展する可能性はあります。ですが、建設費用だけでなく、完成後の維持費も考えなければなりません」
「続けて」
「また、街道によって利益を得る人々と、費用を負担する人々が同じとは限りません」
ヴィオレッタは黒板の地図を見た。
「商人にとって便利な道でも、沿道の農村にとっては土地を失う原因になるかもしれません。税を増やせば、街道を利用しない領民にも負担がかかります」
教師が頷く。
「では、建設には反対か?」
「いいえ」
ヴィオレッタは即答した。
「必要性が十分に認められるなら、建設するべきです。ただし、その前に利益と負担を明らかにし、関係する人々と協議する必要があります」
少し間を置く。
「領地を豊かにするための事業で、領民の暮らしを損なっては意味がありませんもの」
教師は満足そうに微笑んだ。
「よい答えだ。政策とは、利益だけでなく、その利益を得るまでの過程も考えるものだからな」
ヴィオレッタは一礼して席に座った。
隣から、小さな声が聞こえる。
「さすがですわね」
セシリア・アルヴェインだった。
明るい栗色の髪を結んだ少女が、感心したように微笑んでいる。
「大げさですわ。まだ机上の話ですもの」
「それでも、私は維持費のことまで考えていませんでした」
「セシリアさんなら、きっと同じことに気づかれますわ」
「そうでしょうか」
「ええ。以前、灌漑設備のお話をしてくださったでしょう?」
セシリアが目を瞬かせた。
「覚えていてくださったんですか?」
「もちろんです」
ヴィオレッタは微笑んだ。
「実際の領地で起きた問題ほど、学ぶ価値のあるものはありませんわ」
セシリアは嬉しそうに頷いた。
その様子を見て、ヴィオレッタも少しだけ表情を和らげた。
学園に来て、まだ日が浅い。
それでも、こうして同じ分野に関心を持つ友人ができたことは、素直に嬉しかった。
◇
午前の授業が終わると、教室は一気に賑やかになった。
学生たちが席を立ち、昼食の相談を始める。
「ヴィオレッタ様」
声をかけられ、ヴィオレッタは振り返った。
そこに立っていたのは、淡い金色の髪をした少年だった。
整った顔立ち。
穏やかな表情。
王立総合学園の制服を着ていても、その立ち居振る舞いには自然と品格が漂っている。
アルセリア王国第二王子。
ルシアン・アルセリアだった。
「ルシアン殿下」
ヴィオレッタは立ち上がり、礼を取った。
「どうか、学園ではそれほど堅苦しくしないでください」
ルシアンが困ったように微笑む。
「せっかく同じ教室で学ぶのですから」
「お気遣い、ありがとうございます」
ヴィオレッタは姿勢を戻した。
ルシアンとは、幼い頃に王宮の行事で顔を合わせたことがある。
だが、親しい間柄というわけではない。
第二王子である彼は、王族としての教育を受けながら、この学園で行政や政治を学ぶことになっていた。
「先ほどの発言、とても参考になりました」
「恐れ入ります」
「僕は街道が完成した後の利益ばかり考えていました。建設によって負担を受ける人々のことまで、十分に考えられていなかったようです」
ルシアンは率直に言った。
ヴィオレッタは少し意外に思った。
王族の中には、自分の考えを簡単には改めない者もいる。
しかし、目の前の王子は違うようだった。
「殿下のご意見にも、重要な点がございました」
「そうでしょうか?」
「ええ。将来の利益を考えることは、決して間違いではありません。問題は、それだけで判断してしまうことです」
ルシアンは考え込むように頷いた。
「なるほど……」
それから、少し笑った。
「やはり、ローゼンベルク嬢と同じ授業を受けられるのは幸運ですね」
「そのように仰っていただけるのは光栄ですわ」
ヴィオレッタは丁寧に答えた。
ただ、それ以上の意味はなかった。
彼女にとって、ルシアンは同じ分野を学ぶ学生であり、王国の第二王子だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
「もしよろしければ、今度、行政制度について意見を交換しませんか?」
「授業に関することであれば、喜んで」
「ありがとうございます」
ルシアンは嬉しそうに微笑んだ。
そのときだった。
「あの……ルシアン殿下」
控えめな声が聞こえた。
三人が振り返る。
教室の入口近くに、一人の少女が立っていた。
柔らかな茶色の髪。
派手さのない制服。
胸には、奨学生であることを示す小さな徽章がついている。
エミリア・フェルナー。
優秀な成績を認められ、学園への入学を許された平民の少女だった。
「エミリアさん」
ルシアンが声をかけた。
「どうしました?」
「あ、いえ……その……」
エミリアは一瞬、ヴィオレッタを見た。
それから、ルシアンへ視線を戻す。
「先ほどの授業で、分からないところがあって……」
「そうでしたか」
ルシアンはすぐに表情を和らげた。
「僕で分かることなら、お手伝いしますよ」
「本当ですか?」
「もちろんです」
エミリアの顔が明るくなった。
「ありがとうございます!」
その笑顔は、素直な喜びに満ちていた。
ヴィオレッタは二人を見て、軽く会釈した。
「では、わたくしたちはこれで失礼いたします」
「あ、ローゼンベルク嬢」
ルシアンが振り返る。
「また授業で」
「ええ。失礼いたします」
ヴィオレッタはセシリアとともに教室を出た。
その背中を、エミリアが見つめていたことには気づかなかった。
◇
「ヴィオレッタ様は、ルシアン殿下ともお知り合いなのですね」
廊下を歩きながら、セシリアが尋ねた。
「幼い頃に、何度かお会いした程度ですわ」
「そうなのですか」
「ええ。殿下は王族としてお忙しい方ですもの」
ヴィオレッタは特に気にした様子もなく答えた。
セシリアは少し考えてから言った。
「でも、とても穏やかな方でしたね」
「そうですわね」
ヴィオレッタも頷いた。
ルシアンは、少なくとも今のところ、誠実な人物に見える。
人の意見を聞こうとする姿勢もある。
ただし。
「少し、気になることはありますけれど」
「気になること、ですか?」
「……いえ。まだ、わたくしの考えすぎかもしれません」
ヴィオレッタは小さく首を振った。
ルシアンは優しい。
それは美徳だ。
けれど、誰に対しても優しくあろうとする人間は、ときに判断を誤る。
相手の言葉を疑うことができなければ、善意そのものが利用されることもある。
もっとも、今日少し会話をしただけで、そのように決めつけるべきではない。
「それより、セシリアさん」
「はい?」
「午後の財政基礎の授業について、少し予習をしませんこと?」
「えっ、昼食は……?」
「もちろん、食事をしながらですわ」
ヴィオレッタは微笑んだ。
セシリアが苦笑する。
「本当に勉強熱心でいらっしゃいますね」
「学べる時間は限られていますもの」
「では、私もご一緒します」
二人は並んで食堂へ向かった。
◇
一方、教室では。
「なるほど。ここは税収と支出を分けて考えるんですね」
ルシアンが、エミリアのノートを見ながら説明していた。
「はい……」
エミリアは頷く。
ただ、意識の半分は授業の内容ではなく、隣に座る少年へ向いていた。
第二王子。
王族。
自分とは、あまりにも遠い存在。
それなのに、ルシアンはいつも穏やかに話しかけてくれる。
平民だからといって、見下したりしない。
入学して間もない頃、教室で一人になっていた自分に最初に声をかけてくれたのも彼だった。
『困っていることはありませんか?』
その言葉を、エミリアは今でも覚えている。
嬉しかった。
こんな自分にも、優しくしてくれる人がいる。
そう思えた。
「エミリアさん?」
「あっ、はい!」
「ここまでで、分からないところはありますか?」
「だ、大丈夫です!」
ルシアンが微笑む。
「それならよかった」
エミリアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
もっと話したい。
もっと一緒にいたい。
そんな気持ちが、少しずつ大きくなっている。
けれど。
「……殿下」
「はい?」
「先ほどの方は、ローゼンベルク公爵家の……」
「ヴィオレッタ嬢のことですか?」
「はい」
ルシアンは頷いた。
「とても優秀な方ですよ。今日の授業でも、僕には思いつかなかった視点を示してくださいました」
「……そう、なんですね」
「ええ。以前から、領地経営について熱心に学んでいると聞いています」
その声には、純粋な感心があった。
エミリアは笑顔を作った。
「すごい方なんですね」
「そうですね」
ルシアンは、何の疑いもなく答えた。
エミリアはノートに視線を落とした。
自分だって、努力してきた。
平民の家に生まれ、十分な教材もない中で勉強を続けた。
奨学生として学園に入るために、何度も試験を受けた。
その努力を、ルシアンは認めてくれた。
だからこそ。
ほかの誰かを褒める彼の言葉が、少しだけ胸に引っかかった。
(……どうしてだろう)
ヴィオレッタは、何も悪いことをしていない。
むしろ、今日の授業では立派な意見を述べていた。
それはエミリアにも分かっている。
なのに。
(あの人は、最初から全部持っているのに)
公爵家の地位。
優れた教育。
周囲からの尊敬。
そして、王子と自然に言葉を交わせる立場。
自分が必死に手を伸ばしているものを、あの令嬢は当たり前のように持っている。
そんな考えが浮かんだことに、エミリア自身が驚いた。
(……違う)
慌てて首を振る。
(こんなこと、考えちゃ駄目)
ルシアンが心配そうに覗き込んだ。
「エミリアさん? 大丈夫ですか?」
「あ、はい!」
エミリアは笑顔を作った。
「少し、考え事をしていただけです」
「そうですか。無理はしないでくださいね」
「ありがとうございます、殿下」
優しい言葉だった。
だからこそ、その優しさを自分だけに向けてほしいと思ってしまう。
エミリアは、その気持ちにまだ名前をつけられなかった。
◇
午後の授業を終えたヴィオレッタは、学園の図書館に立ち寄っていた。
王国の税制に関する資料を探すためだ。
高い天井。
壁一面の書架。
窓から差し込む柔らかな夕日。
静かな空間には、紙をめくる音だけが響いていた。
「……こちらですわね」
目的の資料を見つけ、手を伸ばす。
そのとき、背後から声がした。
「ヴィオレッタ?」
振り返ると、シオンが立っていた。
黒い髪を少し乱し、腕には数冊の本を抱えている。
「シオン。あなたも図書館へ?」
「うん。魔導回路の資料を探しに来たんだ」
シオンは本を少し持ち上げた。
「思ったより種類が多くて、つい借りすぎた」
「……またですの?」
「またって?」
「研究に夢中になると、周囲が見えなくなるところですわ」
「今日はちゃんと夕食までに帰るよ」
「本当でしょうね?」
「たぶん」
「そこは断言してくださいませ」
ヴィオレッタは小さくため息をついた。
シオンが苦笑する。
その様子を見て、彼女も自然と笑ってしまった。
「ヴィオレッタは何を調べてるの?」
「王国の税制についてですわ。今日の授業で、少し気になることがありましたので」
「へえ」
シオンは興味深そうに資料を見た。
「領地ごとに違いがあるんだね」
「ええ。地形や産業によって、適した制度は異なりますもの」
「なるほど……」
シオンは少し考え込んだ。
「そういえば、魔導設備の導入にも似たところがあるかもしれない」
「と、申しますと?」
「同じ装置でも、都市と農村じゃ使い方が違うだろ? 便利だからって全部同じものを置けばいいわけじゃない」
ヴィオレッタは目を細めた。
「……確かに、そうですわね」
「設置費用だけじゃなくて、修理できる人がいるかどうかも大事だし」
「維持管理の問題ですわね」
「そうそう」
シオンは頷いた。
「俺、前からそういうことを考えてたんだけど、今日の授業で改めて大事だと思ったんだ」
ヴィオレッタは、少し驚いた。
魔導技術の研究と、領地経営。
一見すると、別々の分野だ。
けれど、実際には深く関わっている。
シオンは、それを自然に理解しようとしている。
「……シオン」
「ん?」
「今度、領地の設備管理について、少しお話ししませんこと?」
「いいの?」
「ええ。あなたの研究にも、何か役立つかもしれません」
シオンの表情が明るくなった。
「ぜひ!」
その反応に、ヴィオレッタは思わず笑った。
「本当に、研究のことになると分かりやすいですわね」
「そうかな?」
「ええ、とても」
窓の外では、夕日が校舎を赤く染めていた。
二人はしばらく、資料を広げながら話し続けた。
魔導設備の維持費。
地方ごとの税収。
技術者の育成。
話題は次々と広がっていく。
ヴィオレッタにとって、それは心地よい時間だった。
シオンは、公爵家の令嬢だからといって特別扱いしない。
かといって、彼女の立場を軽んじることもない。
ただ、一人の友人として話を聞いてくれる。
そして、彼女の考えを真剣に受け止めてくれる。
そのことが、嬉しかった。
けれど今のヴィオレッタは、その感情を特別なものだとは考えていなかった。
大切な友人。
信頼できる仲間。
それだけで、十分だった。
◇
同じ頃。
学園の別の一室では、一人の教師が書類を整理していた。
机の上には、新入生の学習状況をまとめた資料が並んでいる。
その中には、奨学生の名簿もあった。
教師は一枚の書類に目を留めた。
『エミリア・フェルナー』
優秀な成績。
勤勉な学習態度。
ただし、入学後の環境に慣れるまで、多少の不安が見られる。
そんな内容が記されていた。
「……なるほど」
教師は小さく呟いた。
そして、別の書類を手に取る。
そこには、王族の学園生活に関する情報がまとめられていた。
『ルシアン・アルセリア』
教師は二つの名前を見比べた。
しばらくして、書類を閉じる。
「……少し、話を聞いてみるか」
その声は、静かな部屋に消えた。
まだ、何かが起きたわけではない。
誰かが傷つけられたわけでもない。
ただ、ほんの小さな感情が芽生えただけだった。
憧れ。
喜び。
そして、わずかな嫉妬。
それがいつか、どのような形に変わるのか。
今は、誰も知らない。




