12 落花流水
『余話 落花流水』最終話です
愛しい女が湯浴みを終えるのをのんびりとブランシールは待つ。
この部屋に籠って一週間。
ブランシールの寝室の隣に浴室も厠も付属しているためにブランシールもレーシアーナも本当に一歩も外に出る必要のない日々。
籠りきりではあるが、フォトナはとても有能で、お陰様で不自由と言うものがない。
グラスを揺らしながら溜息を吐くブランシールは先に湯浴みを終えている。
そうして、白い亜麻のシャツに黒のトラウザーズという、これから睡眠を行うというには少しかっちりとした恰好をしていた。流石にタイの束縛はないものの。
グラスの中の液体はノンアルコールのワイン、酔う気もない。
――だって、愛していると言ってくれる女が愛しいから。
ブランシールは怖かった。心から愛する女が愛を返してくれた奇跡がもし万が一霧散したら、きっと生きていけない。
大事に大事に慈しみたい。
組み敷いて無理やり自分のものにした時の彼女の泣き顔はきっと脳裏から消えない。
あの時は、現の彼女から愛を返される事は無いと思い込んでいたから凌辱としか言えない行為が出来たのだろう。薬が齎す微睡みの時間ですらフィルズという名を出した瞬間にいやいやと首を振った、その姿はブランシールにとっては拒絶と同じだったから。
絶望が心を浸し、自棄になって、兄の為にとかいう建前だとか大義名分で心を騙した上での罪。
けれど、今は絶望など一欠片もなく。
だからこそ、恐ろしいのだ。
レーシアーナがブランシールを愛してくれるこの今の儚さが恐ろしいのだ。
かちゃ、という音と共に衣擦れの音が響いて、ブランシールは立ち上がった。
レーシアーナの気配ではなかった、だから身体が反応してしまう。
「フォトナ女官長……? 一体何用だい? ベルを鳴らしてはいないのだが?」
日常の世話と言うものは今彼女が一身に負うてくれている事だからブランシールが愛しい女を待ちながら寛ぐ居間に入ってきてもおかしくはないのかもしれない。
しかし、フォトナは決めたスケジュールを遵守する女だった。
正餐の給仕の後にレーシアーナの湯浴みを手伝ったその後はベルを鳴らさない限り若い二人には干渉しようとは今まで決してしなかった。
無言でフォトナは距離を詰める。
その顔が綺麗に表情を拭い去ったそれである事に気が付いてブランシールは息をのんだ。
五歳の頃の記憶が正しければ……フォトナは怒り狂っている。
思いつく原因は一つしかない。
「レーシアーナに何があった?!」
また彼女は倒れたのだろうか。また彼女はブランシール故に?
「……この」
返ってきたのは、地を這うような低い声。
「この、大馬鹿者が!」
◆◆◆
フォトナの堪忍袋の緒が切れたのはまさしくブランシールが馬鹿だったからだ。
朝食の準備を済ませて恋人達が味わう時間、彼女は寝室の掃除を行う。だから、この一週間の間そういう行為が無かったことも解ってしまっていたが女官長として後宮の王の閨を整えていたフォトナは何も言うつもりがなかった。閨の事は殊の外デリケートなものだから。
喪に服しているのかもしれないとも思った。フォトナという女はこういう時こそ抱き合うものだと思うのだが、昔々この意見をうっかり口に出した時に朋輩にそれは無神経だと懇々と叱られたのだ。きっと、フォトナの考え方は間違っているのかもしれない。少なくとも悲しみに際しての価値観は人それぞれだと言う事を思い知らされたのは確かだ。
フォトナは今日もレーシアーナの入浴を手伝う。
これまで、レーシアーナは浴室での奉仕を受けた事が無かった。幼い頃には乳母ではなく母親がレーシアーナを風呂に入れていたのだがそれは幼いから当たり前のことで数に入れる事は出来ない。
浴室での奉仕、それも身内ですらなく赤の他人からのそれは慣れない人間には苦行である事をフォトナは知っている。無防備に全て曝け出し裸体を任せる……これに対して覚えるのは羞恥心だけではなく無力さもある。幼い頃から人に手伝わせている令嬢達が麻痺している感覚。
レーシアーナという娘は不思議な娘だとフォトナは思うのだ。
一人で出来るから放っておいてくれという一言を我慢するだけではなく、このことに対しての経験不足をフォトナにはっきりと口にし、令嬢としてどういう風に介助されるべきかの教えを乞うてきた。無知よりも恥ずかしいのは学びを捨てる事だときっぱりと言うレーシアーナにフォトナは強い気持ちの揺れを覚えすらした。
そしてレーシアーナは優秀だった。
そんなレーシアーナが今日、フォトナに意を決して尋ねたのだ。
浴室、二人きりの時間を狙って。
「わたくしの身体は……何処か、奇形なのではないでしょうか」
フォトナはただただ、ぽかんとしてしまった。
一ヶ月の間、フォトナの主人はブランシールでありレーシアーナである。主人の下問にこのように頭が真っ白になる事など女官の恥。けれど、けれど、意味が解らない。
「……それは、何故、そうお思いになられたのでしょうか?」
嗚呼、女官として質問に質問で返すなど、あってはならない事だというのに。
「正直に申します。五歳を過ぎてから他人に肌を見せた事は無かったのです。ですから、わたくしは自分の身体が人と違うとは思ってもおりませんでした。着替えを手伝われた時も、最低限下着姿でしたから……。何も纏わぬわたくしを知るのは、ブランシール様と、貴女だけ」
フォトナは、ただ、レーシアーナを見つめるしか出来ない。視線で続きを促す事しか出来なかった。
「――わたくしが寵を受けたのは、たった一度きりなのです」
レーシアーナの声は震えすら帯びず、淡々としたそれだった。
聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥、そして大事なのは聞く相手を選ぶ事。
聞ける相手の選択肢が少なすぎたが、ブランシールにだけは、この事を聞けないのだ。
誰にも言うつもりはないが、レーシアーナはもしかしてと思う事があった。
奇形だからこそ、自分は『木馬』として献上されたのではないだろうか。
別にただ献上するならば他の何かでも良かったのでは? 人形でもそのものずばりの玩具でも。
レーシアーナは『ポニー』に相応しいような奇形なのではないだろうか?
だから、ブランシール様はわたくしに触れられないのではないかしら? 愛の有る無しではなく、単に萎えてしまう程にこの身体は……おかしいのでは?
「レーシアーナ様」
フォトナの声は静かに凪いだそれだった。レーシアーナはそれが怒りの嵐の前触れだとは知らずにただこくりと唾をのむ。断罪の瞬間を悲鳴を上げずにこらえきる覚悟で。
「失礼致します」
徐にフォトナはレーシアーナの身体に触れた。洗う為でも磨き上げる為でも着替えさせる為でもなく。
「お顔は若干小さ目。首筋は長く優雅。鎖骨は少し華奢過ぎるかもしれませんね。御胸の形は理想的。大きすぎず小さすぎず弾力に富む。ウエストは、コルセットでの矯正痕は殆ど付いておらず、お美しいくびれ。二の腕は綺麗な筋肉がついておいでだけれど、その筋肉は主張しておらずオペラグローブが映えるライン。手首は華奢。おみ足は、みせびらかしたくなる程の美しさ。肌質は肌理細かくて赤子のよう。……総評として、姿勢も良くバランスが取れたボディラインでいらっしゃるけれど、もう少し、肉が付いていた方が良い」
無遠慮なほどにフォトナの手はレーシアーナの肌を滑る。その言葉を刷り込むように。
「何処にもおかしなところは見受けられませんわ」
その言葉に息をのむレーシアーナを、フォトナは優しく憐れむ表情で続ける。
「何ら恥じる事のないお身体でいらっしゃいますが、百聞は一見に如かず、ですわね」
縋るような眼をしてされるがままとなっていたレーシアーナから手を離したフォトナは自分のお仕着せに手をやった。
「お目汚しとは存じますが、お許し下さいませ」
フォトナがしようとしている事に気が付いたレーシアーナは止めようとした。けれど、フォトナは譲らない。綺麗な笑顔を浮かべた女官長はあっという間に全て脱ぎ切ってしまう。
「同じ、ではありませんが、同じ、でしょう? 女官はどのようななりでも仕事をこなせて一人前。さあ、いい加減、湯舟に浸かって頂きましょうね」
全裸で入浴を手伝うフォトナは本当に良い笑顔で、レーシアーナに仕える。その笑顔の下の荒天を見せないという面でフォトナはプロだった。
そして、裸体を立ち尽くした姿で見せつけるのではなく触れ合う距離でレーシアーナの入浴を手伝うフォトナにレーシアーナは感謝する。何一つ隠すことをせず、その姿は細かいところは違えども同じだとレーシアーナは知った。教えられた。
同じ、ではないれど、同じ、だ。
胸の形や腹のライン、肌質などは個人差と年齢だと、流石に解る。
フォトナの示す献身にレーシアーナは感謝しながらも心に走るのは痛みだった。
奇形でもない身体ならば、女としての身体に異常がないのならば、何故?
何故、触れて下さらないの?
そうして湯浴みが終わり、フォトナはレーシアーナをブランシールの書斎に案内した。
「まだ表情が曇っていらっしゃる。落ち着く飲み物をお出ししますわね。殿方は、待たせてなんぼ、ですわよ」
レーシアーナは酷く逆上せていた。恐らく、緊張しきっていたからだ。そして、自身が奇形でない事に一欠片も安堵する事が出来ないからだ。
正常な身体なら、奇形だから仕方ない、そういう生まれ方をしたから仕方ない、などという責任転嫁は出来ない。
一週間、同じベッドに眠りながらも、愛する男が抱きたいという欲を覚えることが出来ない女であるという現実を飲み込むしか出来ない。
そんなレーシアーナはフォトナの淹れた冷たいハーブティーをごくごくと淑女らしからぬ飲み方で飲み干すしか無かった。喉は渇ききっていて、頭がくらくらする。酷く逆上せていたのだと思いながらも今日の浴室での質問の口止めをしながら……レーシアーナは意識を手放した。
儚い夜着を着てソファに横たわるレーシアーナを、フォトナは優しく見つめる。けれど、徐々に表情が消えた。
「流石にねぇ、わたくし、娘がおりますのよ」
こういう時に盛る睡眠薬を常備しているからこそ、フォトナは女官長なのだ。
◆◆◆
ブランシールはレーシアーナがフォトナにした質問を聞いて赤くなりまた青くなった。
口止めされた事を時も置かずに暴露する事にフォトナは罪悪感を抱くタイプではないし、そもそも承りましたという言葉も口にしていない。
「何を馬鹿な……」
そんな馬鹿げた事を悩んでいるなどと思いもしなかったという顔をしているブランシールだが、フォトナに言わせれば何を自分勝手なとしか思えない。
「娘が嫁ぎ先でレーシアーナ様のなさった質問をしたとしたら、わたくし、婿を殺しますわよ? 同じベッドで寝起きする関係の睦言は、あるにしても無いにしても、その事に互いの同意納得が必須。それが男女のルールでしょう。けれど、ルールなどどうでもよろしい。問題はそこまで追い詰めた事なの、お解りかしら? 坊や」
坊やという言葉にフォトナの失望が表されている。
そして沈黙が落ちた。
五分が過ぎ、十分が過ぎたところで耐えかねてブランシールは口を開いた。開かされた。
「……大事にしたかったんだ」
「有り得ない程粗末にして何を言うのやら」
即座に切り返すフォトナにブランシールは顔を顰める。
「……何が解ると?」
「解る必要が何処にあると?」
「フォトナ……!」
感情のままに声を荒げようとするブランシールの眼前でフォトナは手を叩いた。
ブランシールは反射的に目を瞑り、そして即座に開く。
猫騙し、というやつだ。余りにも有名で、だからこそ、そんなものに惑わされるものかと思うそれは、実際やられてみると隙だらけになる程に効果的だった。
感情の爆発を無理やりねじ伏せられたブランシールはフォトナを睨みつける。
けれど、ブランシールはやはり『坊や』だった。
「坊やの気持ちなんて斟酌する必要がないのよ。何故って? お子様だからよ。大人の男ならね、自分の気持ちはこうだったんだなんて言い訳をしないの。そんなものを語るより先に自分が傷つけた相手は何処にいるのかどんな様子だとまず相手を思うのよ。それがなに? まず自分の感情、言い訳、更に逆切れ。三歳かそこらの子供に、大人の女は勿体ないわね」
ブランシールは流石に言い返せなかった。
痛い程にその通りだった。
だってお前がレーシアーナを何処かにやるとか思っていないのだから……などと心に浮かびかける言い訳をブランシールは必死に殺す。
流石に目が覚めたわけでも恥を知ったわけでも……なかった。
ブランシールはブランシールのまま、愚かなまま。
ただ、事実として、言動を間違える訳には行かない。間違えたら、これ以上の醜態を晒したら……フォトナという女はレーシアーナをブランシールから奪いかねない。ただの女官でただの伯爵夫人、そう舐めてかかる事は何故か出来なかった。
「僕は……レーシアーナに……」
謝りたい。言いかけて飲み込んだ。それは駄目だ。自己満足でしかないそれを言いたければせめてフォトナからレーシアーナの誤解を聞いて即座に言うべきだった。
誤解? これも駄目だ、違う。確かに触れない理由は誤解だが、レーシアーナは悩み傷ついているというのに誤解という言葉は余りに軽い。
兎に角傍に行きたい。顔を見たい。違う、これは僕の欲に過ぎない。
ぐるぐると思考が走る。迷走し続けて。
僕は、レーシアーナに……。
「……助けて」
口から出た言葉は一番出してはいけないそれだとブランシールは思った。
これでは、自分から子供だと言ったのと同じだ。
奪われる。
そう、思ったのに。
「仕方ないわね、ルー坊」
五歳の頃の呼び名を口に乗せたもう一人の母親は仕方なさそうに笑ったのだ。
「絶対、出来ないと思っていたのだけど、出来たから、助けてあげる」
自分が恋愛に関してはただの子供だと認め助けを求める事、ブランシールが出来たのはそれだけだったけれど。
それはとても大きな一歩で。
フォトナは手を伸ばすとただブランシールの頭を撫でた。
それだけだったのに、何故か頭が冷えて……為すべきことを知った。
ブランシールはとてつもなく子供だった。
大人である事を求められているけれど、子供でしかなく。
けれど、子供をあやすように撫でる手が、子供のブランシールを肯定してくれる気がして、だから、視界が開けたのだ。
◆◆◆
レーシアーナは気持ちの良い温かさに包まれて幸せだった。
この温もりは思い悩む事も現実も何もかも溶かしてくれる。
けれど、ふと彼女の意識は明瞭になる。
――ブランシール様に、何か飲み物をお持ちしないと。
思った瞬間、レーシアーナは眠りから解放され、目を開けた。
「ブランシール様……?」
腕の中に籠められている事に気が付き、一瞬何故と思う。そして即座に未来を誓った事を思い出した。
「起きたかい? 昨日は逆上せてそのまま眠ってしまったようだね」
「あ……申し訳ございません」
失態だとレーシアーナは恥じる。
そんな彼女を強く抱きしめながらブランシールはそっと深呼吸した。
心臓が、早鐘のようだとブランシールは思う。
「いい、いいんだ、僕のレーシアーナ」
無理やり絡め取る真似をした愛おしい女。
愛しているといってくれた。けれど、その言葉を、もう少し違う形で引き出せしたかった。
とはいえ、その言葉を疑ってはいない。レーシアーナの言葉を疑うつもりはない。
だから。
「レーシアーナ、頼みがあるんだ」
「何なりと」
「求婚を……やり直させてくれないか? その……無理やり、ではなくて、……あの、レーシアーナ、…………ごめん」
ブランシールは頭の中で何度も言葉を繰り返していた筈だった。スマートな求婚のやり直しの言葉を。
いざとなると、何故か口から出てくるのは必死で無様な言葉なのだけれど。
「ブランシール……さ、ま」
「無理やり奪うような真似をして、ごめん、怖かっただろう、ごめん、本当に、ごめん」
何時の間にか、抱きしめられていた筈のレーシアーナがブランシールを抱きしめていた。
幼い頃のような口調でブランシールは謝り続ける。何度も何度も繰り返してごめんと訴える。
謝罪という行為は自己満足でしかないというブランシールの考えは間違ってはいないのかもしれない。
だが、必要な行為だった。何よりも、必要。
そこから逃げるのは卑劣と言えよう。
ブランシールはそれを理解したわけではない。
ただ、子供として扱われた結果、自分自身に素直になった――子供のように、子供らしく。
結果、理屈も屁理屈も放り投げて、ひたすら謝罪を続ける。
レーシアーナの乙女を奪った時の事は、ブランシールの心に大きな傷となっていた。
凌辱した人間が傷ついたなどと言う言葉を発するのは許されざることだろう。
けれど、傷は傷、今もなお、血を流す傷。
本当に、ごめんなさい。
誰よりも大事な人に、なんてことをしてしまったのか。
怖いのだと縋る男が愛おしくてレーシアーナは彼に口接けた。
壊したくないと、失いたくないと。
レーシアーナの愛を壊したくないと。
そんな恐怖を心に飼うが故に触れる事も出来なかったのだとレーシアーナは知った。
――けれど、それは拙くも懸命な愛の乞い方で、そんな風に求めながら謝罪されて、それが愛おしい男からならば。
少なくともレーシアーナという女が愛に狂うには十分だった。
「ブランシール様……もう謝らないで。謝るより……愛して」
ゆっくりと、溶け合うまであと十秒。
落花流水 三省堂 新明解四字熟語辞典
落ちた花が水に従って流れる意で、ゆく春の景色。転じて、物事の衰えゆくことのたとえ。
時がむなしく過ぎ去るたとえ。
別離のたとえ。
また、男女の気持ちが互いに通じ合い、相思相愛の状態にあること。散る花は流水に乗って流れ去りたいと思い、流れ去る水は落花を乗せて流れたいと思う心情を、それぞれ男と女に移し変えて生まれた語。
転じて、水の流れに身をまかせたい落花を男に、落花を浮かべたい水の流れを女になぞらえて、男に女を思う情があれば、女もその男を慕う情が生ずるということ。
▽「流水落花りゅうすいらっか」ともいう。




