11 救い
眠る前の最後の会話を覚えている。
ブランシールはもう一度『蜜』の選択をレーシアーナに委ねたのだ。それに対しレーシアーナは笑って要らないと伝えたのだ。
『わたくしとブランシール様の未来に、それは必要ありませんわ』
ブランシールが求めるのならば『蜜』を舐めるしかなかった。望まれない子供を孕むことは避けたい。
『蜜』を求めていたレーシアーナは、ブランシールが体面の為に婚前の妊娠を望まないと決めつけていたからだ。
ブランシールは子を生んでくれとは言っていない。けれど、『蜜』を舐める事を望まない。『蜜』を舐めなければ起こる妊娠の可能性を知った上で望まない。
ブランシールの愛情表現はレーシアーナには遠回しだったり捻くれていたりするように思える。少なくともレーシアーナに向ける愛情に関してはとてもややこしく思う。
とはいえ、素直な愛情表現もブランシールには存在する。
レーシアーナは、ブランシールの心の中にいる存在を知っている。常に目が追いかけて無邪気に尊敬と愛を捧げるブランシールの王を知っている。
フランヴェルジュという存在を何より尊ぶ事すらレーシアーナがブランシールを愛する理由なのだから、嫉妬すら出来ない。
そして、彼女はブランシールという男が必要に迫られればレーシアーナを道具として使うだろう事を知っている。それすら悪く思えない。何故ならそれは彼が自分を優秀な道具だと認識してくれているという事だからだ。評価されていると言う事を喜んでしまうのは、まだ心の中で良い侍女である事だけに固執していた名残なのだろうか。
ブランシールが自分を抱いた理由も知らない。ややこしい愛、もしくは愛に近い感情の為だけでああいうやり方に踏み出したとはレーシアーナには思えない。けれど、もう、何故かを知りたいとはあまり思わない。どういう意図が彼を動かしたにせよ、レーシアーナがありのままの気持ちを認めるきっかけをくれた事に感謝の気持ちもあるかもしれない。
そして、彼が誰を愛していようとも、レーシアーナに向ける気持ちも存在するのだからそれでいい。
レーシアーナは彼の子を生みたい。彼と家族になり、彼との人生を歩み彼の血を残したいのだ。
たった一日で、まるで別人のようにレーシアーナは変わった。気持ちを偽るのを止めただけなのだが、蛹と蝶のように同じなのに違う。
『蜜』を不要と言ったレーシアーナにブランシールは何度も有難うと言った。
レーシアーナはそんな彼が愛おしくて、胸が一杯のままやがて眠りに飲み込まれ……そして朝が来て、目覚めて確かな現実としてレーシアーナは今妊娠の可能性を抱えている。十二時間以上経過した今、『蜜』は意味を為さない。
どんな夢よりも甘くて……幸せだわ。
レーシアーナが受け入れる覚悟をしてからの睦言は今は未だ無いけれど、話す事が余りにもあったのだから仕方がない。
そして、全く話し合っていないのは、これからどうするか、だ。
そう、今日の予定も。
「ブランシール様、わたくしは……」
どうすれば良いのでしょうか? そう問おうとした瞬間、鈴が鳴った。寝室からは遠い、恐らくはブランシールが与えられた複数の部屋に続く廊下からの呼びかけだ。
ブランシールとレーシアーナが互いの顔を見合わせる。
鈴は三度鳴らされて、一拍後にまた三度音を立てた。入室の許可を求める鳴らし方だ。
ブランシールとレーシアーナはベッドから降りた。
「……誰だろうね?」
ブランシールは言いながらレーシアーナの肩に手を置いた。
「待っていて」
綺麗に笑ってから呼びかけに応える為に寝室を出る。
取り残されたレーシアーナはそっと感触の残る肩に自分の手を置いた。
守って下さったのだわ。
殆どの人間の認識ではレーシアーナはブランシールの侍女であるだろう。今のレーシアーナは義務を果たさぬ侍女として捉えられる筈だ。レーシアーナはもう侍女としてはきっと振舞えない。単純に鈴が鳴った時にそれに応える為に動かなかったレーシアーナはもう侍女とは呼べない。
侍女として負うべき責めを負うのではなく、恋人として守られる女として振舞ってしまった今の姿が、レーシアーナの心の在り様を正確に表している。
「受け止めなきゃ……」
レーシアーナは小さな声で言い聞かせた。
ブランシールも、恋人を守る男として動いているのだから。
「後戻りは出来ないし、しないわ」
叱咤した瞬間、ブランシールが彼女を呼んだ。
◆◆◆
フォトナ・リーズ・カーはブランシールとレーシアーナの前で礼を執る。
「フォトナ・リーズ・カーで御座います。一ヶ月の間、お二人の身の回りのお世話を次なる王より承っております」
驚く娘の隣で、ブランシールは笑みを浮かべて見せた。
「盲点を突かれたというべきか。けれど、兄上のお考えは流石というべきか。顔を上げて欲しい」
女官の頂点に君臨する、いや、していたフォトナの礼はとても洗練されていて、許しを得て姿勢を正す、それだけの所作ですら閑雅であった。
侍女は私的に雇うものだ。レーシアーナの雇用主はブランシールであり、アユリカナでもある。
それに対し女官は国家が雇用する官吏だ。メルローアでは、王に妻が存在する時のみ女官が必要とされる。貴族の出身である女性である事が条件であり、後宮に属し、その狭い空間に限定されるものの雑用や身辺の世話をするのが女官だ。
「フォトナ女官長、何処まで知っているのか聞かせてくれ。そして、君に兄がどう命じたのかも」
グリザベラの母でもあるフォトナは、ブランシールには懐かしい存在でもあったが、後宮に属するフォトナとは五つの時以来の再会だ。とはいえ、懐かしいと感慨に耽るのはこの場にレーシアーナを呼ぶまでに済ませたのだが。
フォトナはゆっくりと言葉を紡いだ。
「昨夜、畏れ多くも次の王たる御方に拝謁の栄誉を賜りました。あるがままを受け止めておいでであらせられる若き王を間もなく戴く事に歓喜致します」
そうして、フォトナは女官の最敬礼を執った。旧き王と新しき王へ敬意を払ったのだ。
フォトナはレンドルの死を知りながら死因などについては一切触れる事はしなかった。知っているのか知らぬのかすら匂わす事はしない。余計な言葉は一言もなかった。
そして、それで良いのだ。
「知っている事はそれだけ?」
「御認識の通りで御座います、殿下」
フォトナの空気が緩む。
「そしてわたくしが賜ったのは、可愛い弟君とその想い人に一月の間仕えよとのご下命です、殿下」
少し、言葉から力が抜けた。
「この身は女官としての務めしか知りませぬ、足らぬ事も沢山有ると思いますが、真心こめてお仕え致します」
レーシアーナは柔和な笑顔の女官長への言葉を飲み込んだ。
ブランシールは色々と現状やらを理解しているように思えるし、解っていない部分についてはその頭脳で補うだろう。
レーシアーナはフォトナという女とは初対面である。知らない女であるだけでなくあのグリザベラを生んだ女として警戒している。ブランシールが家族ではない人間で表情を偽らない女をレーシアーナはグリザベラ以外に知らない。そして、グリザベラはその有能さを信頼されてさえいる。
その母親たるフォトナも見た目通りの優し気な中年女性だとは思えない。女官の長の地位をレンドルの後宮が誕生して以来守り通した女をレーシアーナは過小評価はしない。
そして、ただ警戒心から言葉を飲み込んだわけでもなかった。
物知らずな発言はブランシールの恥になる。侍女であった時も言葉には気を付けようと必死だったがあの時の比ではなかった。フォトナはレーシアーナをブランシールの想い人と認識しているのだ。
聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥、などという格言は存在するが、聞く相手を選ぶ事も大事で、そしてブランシールが隣にいるのだ。
レーシアーナは一瞬でもフォトナに質問を投げかけようとした自分を恥じた。もしフォトナに何かを問うならば、それは彼女しか知らぬ事のみにすべきだ。その中にはフォトナの仕え方の手順やらを問う可能性を置いておこうとレーシアーナは思う。
「早速ですが朝食の準備が出来て御座います。本日のみ、ご都合をお伺いする事なく独断での振る舞いをお許し下さい」
◆◆◆
朝食を摂りながらのブランシールとフォトナの会話にレーシアーナは何度も驚いた。お陰で口をはさむ事すら出来なかった。
レーシアーナとブランシールは本当に一月この部屋に籠められるらしい。
表向きは体調不良と発表するので出歩かれては困るとフォトナは言ったのだ。そう、『困る』。
……女官とは随分偉いものらしい。王子であるブランシールに思いっきり指図する事を当たり前にやってのけた。そして、ブランシールはそれを受け入れている。無礼を咎める事すらしない。
そして、フォトナはベルをブランシールとレーシアーナに一つずつ渡す。食事にせよなんにせよ、そのベルで申し付けてくれと言う事だ。勿論それも決定事項として告げられたのだが。
食事を終えて二人は寝室へと戻る。
控えの部屋にフォトナは食後の片付けが終わり次第籠ると宣言したため、無意識にその場所から一番離れた寝室に二人とも逃げ込んだのだった。
「……女官長というのは、何というか……侍女とは全く違うのですね」
「レーシアーナ、あの女は特別だ。この世でただ一人母上をアリーと呼び、父上を怒鳴りつける、恐ろしい女なんだよ。けれど、とても信頼のおける女だといえる」
気持ちよさげにブランシールは笑う。
レーシアーナは流石グリザベラの母親だと思った。
納得しかない。
「では、そのレディに昨夜のサンドウィッチのお皿の後片付けでもお願いしましょうか」
そう言ってレーシアーナはサイドテーブルを片づける事にした。ピッチャーの水も入れ替えたい。氷もたっぷりと。後は軽食というか、軽くつまめる菓子を手配してもらおう。
そう思ってサイドテーブルにある昨夜のサンドウィッチの皿を持ち上げるとそこには封筒があった。ペーパーナイフで封を切られた開封済みの手紙。
この封蝋は知っている。詮索してはいけないと思うけれど、持ち上げたこの皿をもう一度置く事も出来ず。
もしレーシアーナが酷い寝不足の上に昨日までとは何もかも違う状態でなければ、なんとでも誤魔化し切ったであろう。
けれど、今の彼女にそれを求めるのは酷と言うものだ。
そして、サイトテーブルの横で皿を抱えたまま固まっているレーシアーナを見て、ブランシールは自分の失態に気付く。
「……仕舞い忘れてたか」
ブランシールが王族らしからぬことに舌打ちした。
「注意力だとかは僕の中から家出していたらしいね」
「……まだ家出中でいらっしゃいますわ。でも、わたくしは今日は沢山の事で心を占められていて、きっと忘れてしまいますわね」
言いながらも、レーシアーナはもう一度その手紙に目をやった。そのクリーム色の封筒に施された封蝋の手紙は他のそれとは違い触れてはいけない手紙という認識があった。侍女として片付けなどをしていても、いつもは完全に無視を決め込んでいたものだ。こんな不用意に置きっぱなしにされていて良いものではないはずの手紙。
「……本当に僕はもう何をやっているのだか。それに関しては、お前が見る権利があると言えばあるんだ。そのせいかもしれないね、なんとなく……処分出来なかった」
「……わたくしの事で、何かお疑いがございましたの?」
レーシアーナの声が思わず強張る。見る権利があるという事はレーシアーナに関係があると言う事だ。そして、この手紙の差出人は、間諜ではないけれどメルローアの宮廷に関わる部分では並みの間諜より優秀で、ブランシールだけが依頼出来る相手だ。
ゼラニウムの花の印象指輪を態々白い蝋に押し付けるグリザベラ・シェン・カーの想いは哀れだ。白いゼラニウムの花言葉は「私はあなたの愛を信じない」。
グリザベラが一途な想いを寄せるフランヴェルジュの持ち物をブランシールは報酬としてグリザベラに渡す。前払いという形で。
グリザベラはその引き替えの情報を記した手紙にのみその封蝋での封を選ぶのだ。
哀れな女だとレーシアーナは思う。けれど、とても愛の深い女だ。
だが、自分の身辺を嗅ぎまわるとなると……。
嫌だわ、指先が、震えてる。
「権利があるとおっしゃるのなら、拝見しても構いませんか?」
レーシアーナの言葉にブランシールは少し逡巡する様子を見せたが、すぐに溜息と共に言葉を吐き出した。
「レイレイア、という大罪人とお前の関りについて依頼した結果がその手紙だ」
レーシアーナは奪い取るように手紙に手を伸ばした。封筒から便箋を取り出そうとして、止まる。……説明はあれど、まだ許可は得ていない。
「いいよ、御覧」
許可を得て開いた手紙にレーシアーナは息をのんだ。
【一番信じるべき人間が信じられない事を恥じなさい】
そんな書き出しから始まる手紙はほぼブランシールへの叱責で。
そして、レーシアーナのレーシアーナが思う罪についてはたった一行
【窮鼠猫を噛む、その毛皮に汚れ無し】
……神よ。
そこには確かに真実が書かれていた。レーシアーナがブランシールに知られたくなくて怖くて恐れていた事柄を、真実でありながらも知られてもブランシールの傍にいられる言葉に書き換えてくれた。
――グリザベラに救われた
もう、隠す必要もなければ恐らく問いただされることも無いだろう。
ブランシールの傍にいる事への障害にもならないだろう。
罪は消えない。自分の人生から無かったことに出来はしない。
償いは死後求められるはずだ。
けれど、救われた。
殆ど話したことも無い、レーシアーナを救う義理などない女性に。
「レーシアーナ」
立ち尽くすレーシアーナを、ブランシールは後ろから抱きしめる。
「こそこそと、お前を探る真似をした僕をどうか赦して欲しい」
レーシアーナはただ、頷く――
真実救われた事に、張り詰めた神経が切れてしまって全身を覆う脱力感に眩暈を覚えても、今のレーシアーナには抱きとめて守ってくれる腕があった……。




