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エスメラルダ  作者: 古都里
余話 落花流水
91/93

10 寤寐思服

 ベッドの上で、二人は上掛けの中に潜り込みながら互いに触れる。二人とも服は着たままだった。性的な触れ方ではなく、ただお互いがそこにいると確かめる為に触れ、そうして、ひたすら話し続けていた。


 話す事が二人には何より必要だったのだ。

 会話が圧倒的に足りていなかったのだから。

 ある意味十四年間すれ違い続けてしまったが故にお互いただのブランシールとレーシアーナとなると、喋らなくてはならない事が多すぎた。 


 やっとレーシアーナは己の本当の気持ちに従順になった。

 そして、ブランシールは馬鹿げた建前の存在を忘れて素のままの状態でレーシアーナと向き合っている。


 知らない自分と言うものすらあった。


 会話の合間合間にブランシールはレーシアーナの口にサンドウィッチを運ぶ。レーシアーナは拒もうとしたけれど、一緒に摂った昼食以降、何も食べていなくて、ブランシールは断固として引かなかった。閉じ込められていた間に夕食の差し入れはあったらしいのだが、レーシアーナはそれに気が付くことなく意識を手放したままだったらしい。そして、ブランシールが説得に持ち出したのは夫婦となるのもが婚姻の際の夫の誓いだった。メルローアでは婚姻の際夫が口移しで霊山ホトトルの水を新郎が新婦に口移しで与える。妻の口に夫が食事を運ぶのだ。決して飢えさせないという意味で。


「お前が僕を愛しているなら僕は夫になる男として妻となる女の飢えを許せないという思いを尊重してくれるよね?」


 拒んだら、夫としての義務を拒むことになる上にレーシアーナの愛も否定しなければならなくなる。仕方がないとレーシアーナは受け入れるしかない。


 しかしである。せめてベッドから下りたいと言う願いは却下された。次にせめて座ろうとするのもこれまた却下されてしまい、そして今、ブランシールはサンドウィッチをレーシアーナの口元に運びながら笑みを浮かべている。時折彼もサンドウィッチを口にする事もあったが、レーシアーナに親鳥のように食べさせる事にブランシールは夢中だ。

 レーシアーナの常識としてはベッドに横たわって食べるだけでも有り得ないのに、その上ブランシールに食べさせられるというのは更に……ではあるのだが、ブランシールの顔があまりに無邪気な喜びを湛えているのだから仕方がない。


 そして、案外、悪くなかった。

 今まで、着替えの手伝いやらなんやらで触れる事もあったけれど、全然足りなかった。

 これは二人とも口にしない真実。


 ブランシールは現のレーシアーナにまだ愛していると言ったのは一回だけ、無体を働いた時にしか口にしていない。

 レーシアーナはそれを寂しいなどとは思わなかった。思えば、もっと良い言葉をくれた。


 ――これからの僕達の事を話そう。


 未来に二人ともにあるという言葉のようにレーシアーナの心には響いた。ブランシールは勿論その心算だったので、見解の相違はそこにはない。


 ブランシール様の未来に、わたくしは存在を許された……。

 

 二人の未来のために懸命に言葉をお互いに紡ぎ続けた。一晩や二晩では足りない現状、腹を満たす物を口にしながら『これは夢ではない』と確かめる為に互いに遠慮がちに触れ合わねば何だか今日世界が終わるような恐怖が襲い掛かる、それは二人とも同じだった。


 十四年の歴史が、宝でありながらもある意味何よりも大きい障害だったのかもしれない。


 レーシアーナが今まで本当の気持ちに踏み切れなかったのは、自身があくまで『ポニー』として献上された身である事と命が終わっても傍にいたいという欲で侍女であろうとしていたから、それだけだとレーシアーナは思っていたのだが、話しているうちにもう一つ根深いそれを思い出した。


「恋人だとか、夫婦だとか、そう言うものをわたくしは恐れていたのかもしれません。恋愛が、怖かったのかもしれませんわ」


 ずっと忘れていた。いや、必死で記憶から消そうとしていた記憶。

 何故今なのかとレーシアーナは思う。幸せと言うものに触れていた、いや、現在進行形でそれに触れ続けているのに、唐突に浮かんだその記憶が払えない。けれど、一人で溜め込む事はもう出来なくてレーシアーナは吐き出すしかない。


 レーシアーナが本音をすり替えていたばかりに沢山ややこしくなったのだ。だから、彼女はもう本当の事しか言いたくないし、隠したくもない。


「……何故かを聞きたい。凄く、興味がある。お前の事は全て知りたいけれど、それは知りたい」


 これは重要な話だと判断したブランシールはサンドウィッチをサイドテーブルの自分の小皿にさっと戻す。レーシアーナが頷くとブランシールは片手で頬を撫でもう片方は背中に伸ばし、優しく撫でた。

 レーシアーナは頬を染める余裕がない。それくらいに、レーシアーナには嫌な思い出なのだ。


「幼い頃の父と母の間にあった空気を、ぼんやりとながら覚えています。父は常にイライラしてて……けれど母は父を憎んでいて。何故そこまで軽蔑の面で娘の父親を睨めつけるのか……いえ、おぞましいものを忌み嫌うような表情に思える時もありましたわ。わたくしには、母が解らないのです。何故、そこまで厭う男との間で子を成したのか……。父がやった事は許せない、けれど、父をそうさせたのは……多分、母です」


 ブランシールは想像していた以上のものに触れて思わずレーシアーナを抱きしめる腕に力を込めた。


「きっと、愛のない結婚だったのだと思います。貴族の結婚はそういうものだと習いましたから。……だからといって、母の、侍女や従僕に与える情の欠片も与えようとしない姿勢は解らないのです。わたくしは、……母が好きでした。大好きだったからこそ、母に始終纏わりついていたわたくしは、母が父をどういう目で見ていたか、その瞬間の記憶があきれるほどに心に刻み込まれてしまっていて」


 子供の前で、親がもう片方の親を殴ると、暴力をふるった方の親だけでなく振るわれたものも加害者になるという。

 子供に暴力を振るわれる姿を見せるのは最悪の虐待だそうだ。

 けれど、レーシアーナは、ある意味暴力より酷いと思う。いっそ暴力ならば、まだ割り切れた気すらするのだ。


「子供の頃は父だけが許せなくて、けれど、十を超えた頃から母の方がより許しがたくなって……」


 ブランシールの胸にレーシアーナは顔を埋めた。


「母はわたくしを愛してくれていたとは思います。でも、母の愛は理解出来ない。わたくしの半分は母がネズミより嫌う父から受け継いだものだと何処まで理解していたのかと思いますわ。きっと、領民には良い領主だった。記憶の中の母は乞食には手を差し伸べ、罪人に対しても魂の救済を祈る人でしたから。けれど、夫にはそんな情を一欠片も持たない姿は女として理解出来ない上に娘としては母だと思いたくない」


「……レーシアーナ、それは……」


「解っていますの。利害での結婚という物はそんなものだと。でも、わたくしも、母に対してこんな想いを抱きたくなくて、少し調べたんです。伝手のないわたくしは、母が祈りをささげた事のある沢山の罪人のうちの幾人かの罪状を辿るのがやっとでしたけど。でも、十分だった」


 領主の務めには罪を裁くというものもある。レイデン侯爵領レイフィールドでは領主代行としてレーシアーナの母がそれにあたり……レーシアーナの記憶の中の母は裁いた人間への祈りを一度も怠る事は無かった。

 母の祈りの先には酷い罪状もあった。

 レーシアーナが一番酷いと思う罪人は赤子である我が子を鍋に放り込み、スープにした女だ。それは飢えがそうさせたわけではなく。


 その罪人にすら魂の救済を願う祈りを捧げる母の顔は慈悲深く優しげで。

 けれど、そんな罪人の為に祈る事が出来る女は、夫に対しては祈りどころか一欠片の情も娘の前で表した事がなくて。


 それを口早に説明して、レーシアーナはブランシールに問うた。


「ブランシール様、ブランシール様が知る父は、この罪人以下の非道ですか?」


 ブランシールは答える事が出来なかった。


 ……よくある話なのかもしれない。

 家と家との結びつきの為、もしくは金の為、その他利害関係を考え、当人同士の気持ちを考慮する事ない結婚で、不仲な両親の元に生まれた子供は珍しくも何ともない。それが貴族と言うもの。


 しかし、ブランシールは愛し合う男女の元に生まれた子供で、だからこそ、何とも言えないのだ。


「母が父を、追い込んだのだと思います」


 レーシアーナが父の血を強く感じるようになったのは十二の時だった。

 母が心と魂から拒絶し、飴どころか鞭すら与えようとしなかった父、その父が時折浮かべる表情と自分が同じ表情を浮かべている事に、ある日彼女は気が付いてしまった。 


 レーシアーナは鏡の中の自分と父の表情が重なった時の衝撃を覚えている。

 苦しくて狂おしい、愛おしくてたまらなくて、この想いを向けるただ一人からの愛が欲しくて渇いて飢えて、おかしくなりそうな。

 鏡に映る自分に父を見出した、その時その瞬間のレーシアーナば一人自室で隠す事なく愛する男の事を想っていた。ふと覗き込んだ鏡に苦しく狂おしく愛しくて痛い感情のままに泣いていたその瞬間の表情が捉えられて、そこには母を見つめる父と同じ顔の女がいて。


 だから、レーシアーナは理解してしまったのだ。天啓に打たれるように。

 父は、少なくとも父は母を愛していたのだろう。心が焼け付くほどに。


「飢えた犬が肉を求めるように、父は恐らく母からの愛を欲していたのに、母はそれを見せびらかすように父の前でわたくしに与えたのだとしたら……父はわたくしを憎むしかなかったのではないかと」

「……推測でしかない。お前の母上は、最早申し開きが出来ないんだよ?」


 そうは言いながらも、ブランシールは何故か腑に落ちてしまった。

 レーシアーナの言葉なら何でも信じるという程、おめでたい性格では無いとブランシールは思う。思うのだが、五歳の娘を『ポニー』として献上するという狂気を説明するのならば可能性はあるように思えるのだ。


 もしレーシアーナがブランシールに一欠片も愛を与えず、その上で見せつけるように誰かへ愛を注ぐ姿を示し続けたとしたら?

 ――想像しただけでおかしくなりそうだ。例えそれが自分の子供だったとしても、許せる事ではない。


 そして、レーシアーナの言葉が今この話に限っては正解である(・・・・・)必要は(・・・)無かった(・・・・)

 大事なのはレーシアーナの認識と、そこから生まれる感情。事実など解らないし、それに拘泥する必要はない。


「想像が過ぎてしまったのは、解っておりますわ。馬鹿な考えに囚われているのは知っています。けれど……」

「お前の両親の事については確かに想像でしか測る事は事は出来ないし、僕はお前の心の傷を否定はしないよ? よく話してくれたね」


 恐らく、ブランシールの玉砕回数は、レーシアーナのこのトラウマから生み出されたのだ。

 『ポニー』でしかないという自己の認識、低すぎる肯定感、『侍女』である事への執着、それらを生み出した原因は、少なくともその一つは歪な両親の記憶なのではないだろうか。少なくとも、恋愛が怖かったのかもしれないという言葉をレーシアーナから生んだのは確かだ。


「もう怖がらなくていい」


 言い聞かせるようにブランシールは言葉を連ねる。


「僕はレイデン候オルレアスではないし、お前は侯爵夫人エリザベッラでは無いんだよ。お前は僕のレーシアーナで、僕はお前のブランシールだ。まず、そうありたい。そしてその先は二人で模索したい。そして、お前は僕を愛してくれているのだろう?」


 優しく問われ、レーシアーナは頷く。


「お前の両親の在り様を僕達は繰り返す事は無い。僕らは想いあっているのだから、前提が違う」


 レーシアーナはブランシールの腕の中で震えた。心臓が騒ぐ。小鳩のように鼓動が激しくなって。


「もう、怖がらなくていい」


 レーシアーナは泣きたかった。

 けれど、胸が一杯で涙を零す余裕すらなかった。

 


 

◆◆◆

 ブランシールは微かに溜息を吐く。

 女と一つ寝台の上で朝を迎えたのは初めてだった。レーシアーナとその初めてを迎えられた事が幸せだ。互いに服を着たまま、夜着ですらない事は少々趣に欠けるが。

 愛しい女と共寝して、それでも何もしなかったのは何故だろうとブランシールは思う。話をしていた、大事な話だった、身体を繋げるより遥かに優先すべき出来事だった。そんな当たり前の事は解っているけれど。


 ブランシールが発情というものを覚えたのは五歳の時だ。

 レーシアーナという存在に、出会った。


 触れたい、触れたい、彼女あれに触れたい。金の髪に、薔薇色の頬に、熟れた果実のような唇に、白い肌に、優しい手に、全てに、触れたい、触れたい、触れたい。

 彼女あれは僕のものだ。僕だけのものだ。誰にも取り上げる事は許さない。僕だけのもの。触れていいのも僕だけ。

 触れたい。触れたい。触れたい……!

 

 あれが発情でないというのならなんだというのか。

 けれど、結局十九になるまで碌に触れなかった理由は誠実さではなく臆病さで。


 あ、とブランシールは小さく悲鳴を上げた。

 だから、か。

 だから、やっと触れた時に、自分のものにした時に、許してくれと乞いながら、兄の為と全力で心の中で言い訳をする必要があったのだ。


 臆病さをかなぐり捨てる為に。


 気が付いたら笑っていた。


 愛する女を抱くためにすら、兄の力を借りねばならない自分が滑稽で。

 抱いたのは愛しているからだとブランシールは今なら言える。

 ただし、愛する女はとてつもなく有能な駒にもなりうる女である事は否定しない。惚れた女が無能でないことを喜んではいけないだろうか。


 寄り添うように眠っていたレーシアーナが微かに身動ぎした。

 やがて、長く扇のように広がる金色の睫が震え、ゆっくりと瞼が開く。海の色の瞳がブランシールの薄い青に出会う。

 邂逅の瞬間、見とれてしまったブランシールの口から笑い声は消えた。


「あ……」


 初めての朝、レーシアーナが最初にその口から生んだのは甘い音。


「おはよう……すまない、起こしてしまったね」


 ブランシールの優しい呼びかけにレーシアーナはゆっくりと微笑んだ。


「気になさらないで。おはようございます、ブランシール様」


 言葉に重なるように鐘の音が響いた。


「え……九時?」


 朝の最初の鐘は九時。

 毎朝、レーシアーナは四時半には起床するのが常だった。そして、ブランシールを六時半に起こす。

 九時まで眠ったのは子供のころ以来だ。体調が悪く休むしかない日ですら一度はいつもの起床時間に目を覚ます、それがレーシアーナだったのに。


「四時前にやっと眠ったんだから不思議じゃないよ。まだ眠りは足りてないんじゃないかい?」

「大丈夫ですわ。いえ、わたくし、何を……呑気に寝ている場合では……」


 レーシアーナは大急ぎで起き上がろうとして、あっさりと阻まれた。


「侍女の仕事はしなくていい」

「ですが……」


 ブランシールはレーシアーナの身体を捕まえ抱く腕に力を込める。逃がさないと言いたげに。

 レーシアーナに侍女の仕事をさせたら、レーシアーナの気持ちと昨日互いに交わした言葉と気持ちが全てリセットされそうで、ブランシールは怖いのだ。


「……せめて、代わりの者を手配しないと……朝食もお摂りになっていらっしゃらないのでは?」


 レーシアーナは訴えるがブランシールのい腕の力は全く緩むことがない。


「……もう少しだけ、このままで……」


 甘えるように言うブランシールに、レーシアーナは負けてしまった。

 一夜明けて、全ては夢ではなく現実で、レーシアーナはその事実にみっともなく狼狽える事はもう、しない。

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