9 止まる数字
「……!」
レーシアーナは息をのんだ。
母も兄も喜んでくれたと信じられない事をブランシールは言ったけれど、それよりも、それよりもだ。
発言する事なくこの世から退出……一人だけというならば……。
「ブランシール様、……レンドル様は……」
国王陛下ではなく咄嗟に名前を口にしてしまった、幼い時のように。
レンドルはレーシアーナと余り沢山の言葉を交わす事は無かったが、ふとした時に彼女の金髪を撫でて笑みをくれる優しい人間だった。顔いっぱいの笑みは、言葉を百や二百連ねるよりも饒舌で……レーシアーナはレンドルの事を本当に慕っていたのだ。
「レンドル様は……」
崩御遊ばされたのですかと、聞こうとしても言葉にならないのだ。けれど、ブランシールは答えをくれる。
「崩御が報じられこの国の王が新しくなるのは一ヶ月以上先になるだろう」
婚約どころではない。
死因が何であれ、国の支柱が失われたのだ。新たな柱となるのはまだ余りに若い金髪の王太子で、その柱はレーシアーナの銀の王子の支えがきっと必要だ。
レーシアーナはブランシールを見つめる。
けれど、どれ程凝視しても、彼の表情からはレンドルを失くした痛みというものが見えない。
何という事かしら……!
きっと、気が付いていないのだろうとレーシアーナは思った。痛みに気が付かぬほどに、傷を負っているのだと、ブランシールは気付けないのだ。
ブランシールは父親に少しばかり無関心に見えるところがあった。三人兄弟の第二子として生まれた所謂ところの中間子、兄はとてつもなく優秀過ぎる未来の王者として幼い頃から父王に認められ、妹は男親の性に末っ子である事が溺愛を加速させる事になり、対してブランシールはというと、決して顧みられなかった訳ではないけれど、レンドルからの目に見える愛情というのは偏っていた。
互いに距離を詰めようとはせず。
ブランシールは、己が至らぬからだと自身を責める事もなく、レンドルの気を引く為の悪ふざけも起さずに、父親から見て手のかからぬ子供であった。父王がブランシールを叱るのはフランヴェルジュがブランシールを巻き込んで何かをやらかした時が大半だ。そして、褒められるのもまた、フランヴェルジュがブランシールに誘いかけて成果を挙げた時が多かった。
ブランシールをレンドルが優秀な長男のおまけだと思っていたわけでは無いとレーシアーナは思う。彼女の髪を撫でながら笑みを浮かべるのは、恐らく彼女がブランシールの傍にいる事に全力を賭けていたからだとレーシアーナは認識している。
息子を支える歯車であるレーシアーナにレンドルは慈しみをくれたのだ。
第二王子として生まれたブランシールをおまけだのスペアだのそんな風に思っていたならば、ブランシールが毒を盛られた一件で温厚さをかなぐり捨てて犯人を捜し、別人のような冷酷さで断罪を行う事は無かった筈だ。あの凍り付いた表情を、毒で喘いでいたブランシールは見る事が無かった。あの表情をブランシールがその目で見る事が出来ていたならば、きっと今、ブランシールが浮かべている表情とは全く違う表情で父親を悼んでいたに違いないだろうに。
しかし、もし、などという仮定は現実では無力だ。レンドルにとってブランシールも長男長女と同じく掌中の珠であり愛の向かう先であった事を、ブランシールはきっと一生理解出来ないに違いないのだ。
死者が、ブランシールに何を示せるというのか。
「可哀想なブランシール様……」
レーシアーナは縋り付く様にブランシールを抱きしめていた。身体が勝手にそう動いていた。
腕の中でブランシールは固まってしまった。
無礼をお許し下さい、けれど、どうしても、今だけはお許し下さい。
レーシアーナは心で叫びながら腕に力を込める。
今まで、ただの一度もこんな風にブランシールに触れて自分の思うままに腕に力を込めるなどという事はなかった。それを言うならば今日という日は無かった事ばかりだけれど、今はそんな事を気にしている場合ではない。
悲しむ事が出来ないでいるブランシールをレーシアーナは守りたかったのだ。
言葉をどれ程レーシアーナが紡いでも、それがまごう事なき真実であれど、レーシアーナはレンドルではない、ブランシールの父親ではないのだから、仮に彼の理性を納得させる事が出来たとして、彼の心を納得させる事は出来ない。
いつか、父と子のすれ違いを時が解決してくれないだろうかと他力本願な考えでいた己をレーシアーナは殴りたい。
父子の問題は、複雑で、そしてもう、解決出来ない。飢えた子供としてのブランシールを、レーシアーナは数えきれないほど見てきた。関心を引こうという態度を取らない、いや、取れなかったのは、父の中に関心が無いと、そう思っていたのではなかろうか。
アユリカナという母親は愛情が豊か過ぎて勝手に溢れ出すような女性だった。フランヴェルジュという兄は弟が可愛すぎて可愛すぎてもっと頼れともっと甘えろと弟にある意味彼から甘えるような姿勢で向き合っていた。エランカという妹は、兄はどちらも自分の兄として等しく尊いと言い切る娘だった。
多分、レンドルはそういう意味でもとても平均的な人間で、規格外れの妻や長男とは違い、不器用だったのだろう。ごく平均的な愛情を持ってはいても、その示し方が彼には難しい分野で、更に王であるという事実が邪魔をしていた部分は恐らくあったに違いない。
兎に角、レンドル・トロアト・メルローアは舞台から降りた。その事について心の準備が出来ていた者はいるのだろうか。少なくとも、今、レーシアーナの腕の中で硬直したままのブランシールには不意打ちだったのだろう。死の予兆があったなら、レーシアーナを何故か求めるにしろ今日では無かっただろうから。
「ブランシール様、わたくしのブランシール様……」
レーシアーナの口が勝手に言葉を紡ぐ。いきなり、それこそ心の準備なんてものは一欠片も持ち合わせぬレーシアーナを組み敷いた事も、『蜜』を手に入れさせないと思ったのか部屋に閉じ込めようとした事も、更には『蜜』を見せるだけ見せて酷い脅し方をした事も、死という動かす事の出来ない問題に比べれば些細な事かもしれない。生きていれば何とでも挽回するなりなんなりと出来るのだから。
いえ、違うわ。
不意に、レーシアーナは気付いてしまった。
些細なことどころでは無い、今日起こった事は今この瞬間ですら、総てが必然なのかもしれない。
どうしよう。
レーシアーナの胸に波が襲う。感情が暴れだしそうになる。
わたくしは、もしかしたら、この方を救えるかもしれない。
父親からの愛情に、もし気付かせる事が出来るかもしれない方法があるとすれば……そう、それをレーシアーナが実現出来る方法があるとすれば……。
彼を父親にする事では、ないだろうか。
解らない。それが正解かどうか解らない。自分は今まで誰も父親にした事がない。思い違いかもしれない。
間違えていたならば、決して取返しのつかない事になってしまう。
なのに、どうしてわたくしは、躊躇う気持ちが欠片も生まれて来ないのでしょうね?
いや、違う。違うのだ。
今自分自身で抱き締めているのは愛しい男だ。こうやって抱き締めて名を呼んで……もう、自分を誤魔化せない。
レーシアーナが救いたいのはレーシアーナだった。
確かにブランシールを父親にする事で彼を救える可能性はあるかもしれない。しれないが、違う。レーシアーナが、父を失いそれに悲しむことが出来ない不器用な男を愛して家族になって、そして家族を増やして、お互いに足りぬものを埋めあいたいのだ。
何という大それたことを思ってしまったのかしら。
足りる侍女でありたいと、今日の午後までのわたくしは、きっと、何処かで死んでしまっているのよ。
際限なく求めてしまう。
けれど、そう、ブランシールが本当のレーシアーナを暴いたのだ。
「ブランシール様」
レーシアーナにも、覚悟なんてものは必要なかった。今日の自分はおかしいに違いないと思うのに、何故かレーシアーナは微笑んですら見せた。
「お顔を見せて下さいませ」
縋り付くのを止める、腕を解く。狭いソファでブランシールの逃げ道は無いからこそレーシアーナは力で拘束するのではなく、彼の顔を見上げるように見つめるその海の瞳で愛する男を縛る。
「嗚呼、ブランシール様だわ……」
見つめ返す薄い青の瞳に、微笑みを浮かべるレーシアーナの姿が浮かぶ。
「何故だの解らないだの、そんな事ばかり思って、口にして、わたくしは本当に馬鹿。そんな事、本当にどうでも良い事でしたのにね」
「……何を、笑っているんだい? 父が他界したからと言っても僕は憐れまれなければいけない事はないんだけれど?」
「……ええ、存じております」
言って、レーシアーナは唐突に、その身をソファから少しだけ浮かせる。一瞬で距離を詰めて、そして今まで想像もした事のなかった不敬を犯してみせた。
ブランシールの唇が柔らかくて熱いという事は今日初めて知った筈なのに、どうして馴染み深く感じるのだろう。夢に微睡みながらブランシールとの口接けを何度も繰り返した事実を知らないレーシアーナには本当に不思議だった。
きっとこれは、女の本能というものなのだろうとレーシアーナは思いながらブランシールの唇に唇を重ねたまま彼の頭を抱く。気が付けばソファに膝立ちで、まるでレーシアーナはブランシールを捕食しているかのようだ。
ブランシールの膝の上に置かれていた薬入れが転がって床に落ちた。レーシアーナは見ようともしないが、蜜はそこらかしこに散らばってしまっただろう。
その事に気が付いたブランシールが正気に返ってレーシアーナの身体を軽く押す。顔が離れた。
そのレーシアーナの顔が、まるで茹でたように真っ赤に染まっていて。
「お前は……何を……」
レーシアーナの行動の意味がブランシールには解らない。そんなにもその顔を羞恥に染めてまで自分の唇を奪うような行動を、まさかレーシアーナがするとは思ってもみなかった。
「お前から同情だの憐憫だのと言ったものは、僕は求めていない!」
唸るような男の声に、女は落ち着いて返す。
「存じておりますわ。そして、今から差し上げるのは、同情でも憐憫だのと言ったものではありませんわ」
「は?」
そう言うと、レーシアーナは小さく息を吐いた。ゆっくりと吸い、そして、吐く。身体が微かに震える。
「『蜜』が視界から消えたのは、よう御座いましたわ。あれはこれからのわたくし達には不要です」
ブランシールの家族になりたいと、彼の子を生む女でありたいと、その衝動を理解する行動は、レーシアーナという女の本当の心で生きる為のトリガーであったようだ。一秒が百秒であるかの如くレーシアーナの思考は加速し、本当のレーシアーナで生きる為の気付きが溢れんばかりに起こる。
此処にわたくしがいて、ブランシール様がいるわ。わたくしが幸せにしたい、ブランシール様だわ。
彼の幸せになりたいと、人生を支えあいたいのだと、そんな自分自身の本音を彼女は、身の程知らずで弁えなしだと殺し続けていた。正直になるだけで、母と兄から愛を注がれてもまだ足りないブランシールにレーシアーナとしての愛を注げた筈だ。不要だと切って捨てられるのが怖い、そんな恐怖を捨てていれば、彼の飢えを、渇きを、癒す事の出来るチャンスは沢山あったかもしれなかった。
わたくしは、愛と言うものを心に抱きながらも愛を注ぐことを恐れた、それは、上手く愛を示せなかったこの方のお父上と余り変わらないのではないかしら。
だから、ブランシールは求めたのかもしれないとレーシアーナは思った。手段を選ぼうとしないやり方は、子供が必死で縋り付くようなそれだったのではないだろうか。
「レーシアーナ……? お前……?」
「貴方が求婚を取り消してしまわないように、先にわたくしが、誓いの口接けを差し上げましたの」
「は?」
レーシアーナは真っ赤だ。最早耳も、微かに除く首筋も全部全部熟れている。
「同情や憐憫を抱く相手の子供を望む女だと、ブランシール様はそう思っていらっしゃるのですか?」
「は?」
ブランシールは、レーシアーナに呑まれて、情けない声で聞き返すしか出来ない。
「陛下は……最後に大事な事をわたくしに教えて下さいました。終わりは、唐突に、時には予測不能にと。ねぇ、ブランシール様、人は明日どころか、この一秒後に死んでしまうかもしれない。それなら、良い侍女として一生お傍にいるのでも、心のままに生きるのも、お傍にいられる時間は変わらないと気が付いてしまいましたわ」
ゆっくりとレーシアーナは動いた。ぎこちなく、ブランシールにしがみつく。慣れていない仕草、レーシアーナはキスを自分から仕掛ける事もこうやって甘える事も慣れていない。
ブランシールの心臓が、壊れそうな程に暴れだす。
呑まれている場合ではないと彼は自分に言い聞かせ、しがみつくレーシアーナに腕を回した。すると、腕の中で、女は愛しく囀りを聞かせる。
「ブランシール様……真心から、お慕い申し上げております。こういう言葉が許されるのならば……愛しています」
心臓が、止まるかと思った。
「……もう一回」
雛が親鳥に餌を強請るが如くブランシールは強請る。
「愛しています」
「……もう一回」
「愛しています」
「もう一回」
「……愛して下さいませ」
次の瞬間、レーシアーナの視界は反転する。あっという間に、肘掛けが枕代わりになってしまう。けれど、押し倒されたというよりは。
「ブランシール様……?」
ぎゅうぎゅうと、強く、逃がさないというようにしがみつくように縋り付くようにブランシールはレーシアーナを抱き込む。その顔をレーシアーナの肩に隠しながら。
「反則だよ、それは」
ブランシールは囁く。
「今日のお前は知らない表情ばかりだけど、けれど、けれど……ずっと、ずっとそうだった。僕がお前を必死で捕まえようとしてお前の身柄を束縛したり、お前の自由を許さないようにがんじがらめにしたり、何をやっても、実際に囚われているのは僕だった。お前から僕は逃げられない」
レーシアーナは驚いてしまう。
ブランシール様をわたくしが……?
ブランシールは苛立ちのままレーシアーナの肩を掴んだ。力のままに揺すろうとして、レーシアーナの身体の華奢さに負けてぐらりと視界が回る。
「……昨日までそれが嫌だったのに、今の僕は……逃げたくないと思う」
ブランシールは、負けを認めたのだ。
とはいえ、最初からブランシールは白旗を挙げていたようなものだ。だからこその、九百八十七回。
その数字は、もう、更新される事は無い。




